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ヨハネ伝講解説教 第30回

――3:22-26によって――

  「こののち、イエスは弟子たちとユダヤの地に行き、彼らと一緒にそこに滞在して、バプテスマを授けておられた」。
 主イエスは過ぎ越しの祭りのためにエルサレムに行かれた。そこでは宮潔めという出来事があり、幾つかの奇跡が行なわれ、説教もされたようである。またニコデモが夜訪ねて来ることがあった。それから、過ぎ越しの祭りの直後であろう、弟子を引き連れて、エルサレムを去って、ユダヤの地に行かれた。
 この22節は謎に満ちた記録である。この記録を裏付ける証言はどこにもない。むしろ、聖書の他の証言に反することばかりが記されている。第一に、主イエスがバプテスマを授けたことがあるだろうか。彼がバプテスマを制定し、これを行なうことを弟子たちに命じたもうたのは、マタイ伝の終わりに書かれている通り、復活の後である。「さらば汝ら行きてもろもろの国びとを弟子となし、父と子と聖霊との名によりてバプテスマを施し、わが汝らに命ぜしすべての事を教えよ」。
 主イエスがバプテスマを授けておられた「ユダヤの地」というのがどこであるか、全然見当がつかず、推定の手掛かりもない。先にバプテスマのヨハネが活動をしていた地、それは1章28節に「ヨルダンの向こうのベタニヤ」と書かれていた。その後、ヨハネは「サリムに近いアイノン」に移って、バプテスマを授けたことが3章23節に書かれている。そのように、バプテスマの行なわれる所の地名が記録されるのが普通であるのに、ユダヤで主イエスの行なわれたバプテスマについて地名を記していないのはおかしい。
 第二に、主イエスとバプテスマのヨハネとが一時的とはいえ競合することはあったのであろうか。マルコ伝1章14節に、「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた、『時は満ちた、神の国は近付いた。悔い改めて福音を信ぜよ』」と書かれているが、我々はこのような経過を辿って事が進んだと理解している。ヨハネがいなくなったという悲劇的な時代状況だからこそ、イエスが世に現われる必要があったと人々は理解している。ところが、今日読む24節には、「その時、ヨハネはまだ獄に入れられてはいなかった」と書かれている。
 イエスの名によるバプテスマとヨハネの名によるバプテスマが並べられたのは、キリスト者たちに比較を行わせるためであったであろう。
 このほか、いろいろの疑問が湧いて来る。しかし、しばらく辛抱して読んでいるうちに、ヨハネの言葉が出て来る。これがバプテスマのヨハネの最後のキリスト証言になるのであるが、27節からのヨハネの証言、特に30節の「彼は必ず栄え、私は衰える」を読むに至って、数々の疑念は吹っ切れてしまうのではないだろうか。譬えて見れば、雲に包まれて、そこに山があるとも思えなかったのに、俄に雲が晴れて山頂がクッキリ浮かび出るのを見るような思いがするのである。
 一旦山頂がそこにあると見極めがついたならば、また雲に覆われても、疑惑に立ち返ることはない。そのように、聖書のここでも、行き着くべき所を先ず確認して、そこから初めの所に戻って見なおして行くと、疑わしいと思われたことが必ずしもそうでなくなるのである。聖書学者の中に、この辺りのことを歴史的事実ではないと割り切る人が多いが、フィクションと思えない生々しさが感じられる。
 それにしても、主イエスが行かれた「ユダヤの地」というのがどこであるかについて、依然として手掛かりは掴めない。だからといって、これが架空の地であると言ってしまうのは矢張り無理であろう。エルサレムでないことは確実である。ユダヤにおける主イエスの業が記録されているのはエルサレムとベタニヤを除けば、ベタニヤにおける奇跡の後、荒野に近い地のエフライムという町に行かれ、しばらく滞在されたことがあるだけである。主イエスがバプテスマを行なっておられた地はヨルダンの西側であるが、川に沿っていたというわけでは必ずしもないであろう。ヨハネのいたアイノンは水がたくさんある地であるとわざわざ書いてあるから、主イエスのおられたその地は水のない所であったかも知れない。砂漠の中の修道院の地下室に水槽を作って、バプテスマを行なっていた宗教グループも当時あったのである。
 結局、それが何という場所であったかは特定できないので、場所についてこれ以上詮索するのは無駄だというのが我々の結論である。
 場所がユダヤだったという以上のことは分からないが、どういうバプテスマであったであろうか。かなり多くの人が主イエスのバプテスマに集まったことが推定される。26節に「みんなの者」がそこへ出掛けたと書かれているし、4章1節では「イエスがヨハネよりも多く弟子を作った」とあるからである。
 それでは、こうして多数集まった人たちが、イエス・キリストの教会の中核となって行ったのか。そうではないらしい。この時バプテスマを受けた人がその後どうなったかは全然掴めない。この時のバプテスマは4章3節に記されるように、短時間で打ち切りになったのである。それも人が集まらなかったから止めたというような止め方ではない。
たくさん人は来て盛り上がったのである。しかし、中断された。主イエスの宣教活動は主にガリラヤで展開される。
 勿論、ユダヤにおける宣教活動の結果が空しく、何も残らなかったということではない。例えば、ベタニヤにはマルタ、マリヤ、ラザロという熱心な信奉者がいた。ベタニヤあるいはその近くの村落には、主イエスのエルサレム入城の際のロバを提供する人や、最後の晩餐の場所である二階座敷を用意した人や、オリブ山の一角ゲツセマネと言われた場所を自由に使わせてくれた人がいる。アリマタヤのヨセフという議会の議員である弟子もいた。主イエスは祭りの度にエルサレムに上って説教をされたから、その時に信奉者となったということも考えられるが、もっと前から隠れた弟子であったかも知れない。4章1節に主が弟子を作っておられたという記述があるが、これは心に留めて置こう。詳しいことは分からないが弟子を作り、それを育てておられた。
 ただし、十二弟子と言われた弟子団の結成がこの地で行なわれたとは考えられない。
「十二弟子」という言い方は、ヨハネ伝では6章67節に出て来るが、その時には十二という数は揃っていたわけである。ヨハネ伝で、これまで弟子になった人の記録としては、1章後半に記されたものがある。かつてヨハネの弟子であったが、イエスの弟子になった、アンデレ、シモン・ペテロ、ゼベダイの子ヨハネ、また恐らくヨハネの弟子になろうとして来た、ピリポ、ナタナエルが挙げられていただけであった。あと7人はその後に加わったのであるが、ユダヤの地で弟子になったと推定するのはやや無理である。
というのは弟子たちはイスカリオテのユダを除いては皆ガリラヤ人だからである。ただ、ガリラヤ人であるがユダヤに来ていて主イエスの弟子になったということはあり得る。とにかく、ユダヤの地で弟子を作っておられたことは書かれている通りだが、重要な弟子であったかどうかは分からない。ユダヤ滞在は次の活動のための準備であった。すでに弟子になっていた者らの訓練が行われた。
 その時、どういうバプテスマが行なわれたのであろうか。これも全く分からない。4章2節には、この時バプテスマを授けたのは主イエスではなく、弟子たちであったと書かれているが、この一文は3章22節の記録を正確を期して修正したものである。その修正された記事に従うことにする。
 主イエスは当然説教をされたであろう。しかしバプテスマの執行はされなかった。弟子たちがバプテスマを執行した。主がバプテスマの執行を彼らに命じたもうたかどうかは難しい問題だ。主イエスの教えの中で、ヨハネの教えほどバプテスマが重要な位置を占めていたとは思われない。バプテスマの持つ意味を低く評価してはならないのであるが、キリストの教えの中でも、キリストのなさった業の中でも、バプテスマが強調されているとは思われない。――話しがそれるが、Iコリント1章14節でパウロは、私はあなたがたの誰にもバプテスマを授けたことがないのを感謝する、と言っている。すなわち、17節で「キリストが私を遣わされたのは、バプテスマを授けるためではなく、福音を宣べ伝えるためである」と言う通りである。パウロのこの言葉はイエス・キリストの姿勢を映し出したように思われる。
 ユダヤの地で弟子たちによって執行されたバプテスマは、とにもかくにもキリストのバプテスマであった。キリストの最初の弟子は、先にヨハネの弟子だったから、ヨハネのバプテスマを知っていた。それの真似をしたというのではなかった。これはイエスの名によるバプテスマであったに違いない。ただし、使徒行伝19章で見られるように、イエスの名によってバプテスマが行なわれると聖霊がくだったというようなことではなかった。この個所ではバプテスマの意味と力は十分読み取れない。これは来たるべきバプテスマを予め示したのである。
 弟子たちがバプテスマの執行を望んだのか。主イエスの説教を聞いた人々が、ヨハネのしているようなバプテスマを受けたいと言ったのか。それは良く分からないが、主イエスを取り巻く一団の中にヨハネの集団に対するある種のこだわり、あるいは対抗意識というものがあったのではないかと思われる。だから、ヨハネより多くイエスの弟子が作られているとパリサイ人が聞いているのを主イエスが知った時、この地における活動を直ちに打ち切られたのである。この対抗意識には意味がない。しかし、弟子たちは不十分な理解ながら、ヨハネのバプテスマと違うと信じていた。我々も自らのバプテスマを見詰めるべきである。
 さて、どんどん弟子が増えるのは、良いことではないかと人は思うのであるが、主イエスはそう思われなかった。4章の初めで見るように、早々に切り上げたもうた。この時のユダヤにおける活動はそのようなものであった。
 一方、ヨハネについては、次の23節・24節にこう書かれている。「ヨハネもサリムに近いアイノンでバプテスマを授けていた。そこには水がたくさんあったからである。人々が続々とやって来てバプテスマを受けていた。その時、ヨハネはまだ獄に入れられてはいなかった」。
 ヨハネが支配者ヘロデの行状について批判したため獄に入れられ、しばらくそのままにして置かれたのち、斬り殺されたことは、広く知られていた事実であって、それを読者が知っていることを前提にして、この福音書は書かれた。時間的に言えば、獄に投ぜられる少し前のヨハネの姿が描かれているのであろう。これはヨハネの最後の言葉であることを示す。
 ヨハネはヨルダンの向こうのベタニヤから、サリムに近いアイノンに移った。主イエスがバプテスマを受けてのちガリラヤのカナに移られた時、ヨハネはベタニヤにいたのであるから、アイノンに移ったのは最近のことである。なぜ移ったかは分からない。水が沢山あったから、というのは移動した理由ではないであろう。アイノンという地名に関してのことである。すなわち、これは「泉」という意味らしい。
 逮捕される少し前であるから、緊迫した状況に対処する移動だったかも知れない。ヨルダンの向こうのベタニヤに多くの人が集まった。彼らはヨハネの説教を聞いて悔い改めてバプテスマを受けた。人々はまだまだ集まって来ると予想された。しかし、ヨハネはアイノンに移転する。恐らく一つの土地に執着してはならないという考えがヨハネにあったためであろう。
 もう一つ、主イエスにバプテスマを授け、弟子たちを主イエスのもとに送り込み、使命に一段落がつき、自分の終わりが近いと感じたということもあるであろう。主イエスがエルサレムからユダヤに下ってバプテスマを授けておられることを聞いて、衝突を避けるためにアイノンに移ったということも考えられる。
 しかし、一段落ついたと分かっているなら、どうして引退しないのか。手元に残っている弟子たちを諭して、全員をイエスの弟子にさせるべきではなかったか。弟子たちが言うことを聞かなかったという事情もあったようだが、ヨハネ自身にも執着があったのではないかと見られている。イエスがキリストであるとハッキリ認めていながら、なおヨハネの名によるバプテスマを守っている人がいたことが使徒行伝で見られるのであるが、人は古いものにこだわるのである。しかし、この福音書がこの件を書き記したのは、ヨハネの執着を語るためではない。ヨハネにはもう一度証言する機会が残っていたという見地から、この個所が書かれたのである。
 アイノンという地はヨルダンの西である。以前いた「ヨルダンの向こうのベタニヤ」がどこか分からないのであるが、これはまたユダヤの荒野と言われ、もっと南であったと考えられる。この地についてはヨハネ伝ではもう一度、10章40節に、ここへ行って滞在された、また多くの人がイエスのところに来た、と書かれている。ここは、ヨルダンの東岸であった。アイノンは川の西であり、もっと北の方である。サマリヤ地方の東北部にある。そこにも人々は依然としてたくさん押しかけて来ていた。
 ここで一つのトラブルが起こる。25節、「ところが、ヨハネの弟子たちと一人のユダヤ人との間で、潔めのことで争論が起こった」。
 一人のユダヤ人がヨハネの弟子に論争を挑んだ。あるいはヨハネの弟子の方から議論を吹きかけたのかも知れない。単数でユダヤ人と書かれているから一人だったのであろうが、複数で書いてある写本もある。単数でも複数でも事柄は違わない。このユダヤ人がどういう人であるかを推測するのは省略して良いことだが、パリサイ派であったのではないか。論争の内容を的確に再現することは出来ないが、ユダヤ人の間で一般に重んじられ、パリサイ派において特に重んじられた「潔め」と、ヨハネのバプテスマにおける「潔め」との違いが問題になったのであろうと考えられる。すなわち、パリサイ派は外から帰って来た時には潔めをしてからでなければ家に入らなかった。つまり、内は潔いが、外つまりこの世は汚い、という考えであった。ヨハネは外だけが汚いという考えそのものが問題であり、人間自身が悔い改めて潔くならなければならない、と説教した。
 ヨハネの弟子たちはパリサイ派よりこちらの方が教えとして優れていると言いたかったのではないかと思うが、それに対してこのユダヤ人は、ヨハネは弟子であったナザレのイエスに追い抜かれ、そちらの方に人々がたくさん流れて行くではないか、衰えて行くばかりではないか、とヨハネへの侮蔑をこめて言ったのではなかろうか。そこで弟子たちは悔しがってヨハネのもとに訴えに来た。
 その訴えに対してヨハネは、「私は衰える、それで良いのだ」と答える。この答えはヨハネの弟子たちにとって承服しがたいものであったと思われるが、ヨハネの最後の証言として輝きを放ち、我々の心に深く刻まれる。
 26節、「そこで彼らはヨハネのところに来て言った、『先生、御覧下さい。ヨルダンの向こうであなたと一緒にいたことがあり、そして、あなたが証しをしておられたあの方が、バプテスマを授けており、皆の者が、その方のところへ出掛けています』」。
 自分たちの先生を大事に思う心と、それと競合するもとの弟子に対する嫉妬や対抗心が入り交じっている。自分たちが熱心にやっていることが自己目的化してしまうのである。ヨハネは「彼は必ず栄え、私は衰える」と言う。私が衰えることによって彼の栄えを証しするのである。これが証し人の基本姿勢である。自分が栄えることによって彼の証しが出来ると思ってはならない。証し人は低くなって行く。消えて行く。こうしてキリストの栄光が現われる。
    2000/1/16

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