――1:4-5によって――
「この言葉に命があった。そしてこの命は人の光りであった」。――今日、この聖句を学ぼうとする我々に、「命」とは、「生きる」とは何か、という問題が突きつけられたのである。我々は平生、問題なく生きているつもりである。命を持っているのは自明のことだと主張している。そして、この命を惜しむ、大事にする、これは当然だという自然的感覚を全ての人が具えている。
しかし、命を持っているというのは自明の確かなことであろうか。誰もが命を持っているつもりでいるのは全く確かである。しかし、「お前は本当に生きているのか。本当の命を持っているのか」、こう問われると、全ての人は答えに窮するであろう。確かだと思っていた足元が崩れるのである。これも万人の経験するところである。 今、余り難しいことは考えないように歯止めをかけて置くが、我々に命があると胸を張って言うことは差し控えた方が良い。すなわち、ごく単純に見て我々は一応生きていると言えるとしても、その生はいつも死を引きずっており、死の影のもとにあって、死という輪郭によって縁取られた命だからである。生きていると思っている人は、50年あるいは60年先の自分がどうであるかを単純に考えて見れば、その時には自分は生きていないことに直ちに思い至るであろう。50年とは言わず、1年先でもどうなっているか分からない。それほど儚い、不確かなものである。 それでは、これで答えの全てであろうか。そうではない。何かが残っている。すなわち、それでも、いや、それ故にこそ、と言うべきであろうが、我々が本当の命を求めているということは確かなのだ。求めているのを自覚していない場合もある。空腹でないと思っていた人が食べ始めて空腹に気付くように、その命の片鱗に触れて初めて、自分は実はこれを求めていたのだと気付く人が実際多いのではないか。 命とは何か、あるいは本当の命とは何か、と論じることはこの節では要らないとしておこう。今は、本当の命がない故に、これを求めざるを得ないということだけハッキリさせておけば良いのではないか。 命と、本当の命とを区別することが、我々の間で共通の了解事項になっていなければならない。これが聖書を読んで行くときの初歩的な心得である。例えば、一匹の虫がうごめいている。小さい生物だが懸命に生きているし、また生きようとしている。それを観察して感動するのは何ら軽薄なわざではない。その虫がある意味で生きているのは確かなことで、それにある意味があることも確かである。しかし、虫が生きていることと、神が「私は生きている」と言われる場合の命を同じと見ることは出来ない。虫が生きているのと、神が生きておられるのと、ある繋がりはあるが、同じ「生きる」と言っても、意味は非常に違う。 「神は生きておられる。私は生きている」。これはサムエル記に特に頻繁に記される、旧約の信仰者の誓いを立てる際に唱えた形式であるが、神が生きておられるという確認は私が生きていることの前提であり、そこでこそ私が約束をすることが成り立つ。 複雑な議論をここでする必要はない。神が生きておられることと、虫だとか、他の生物が生きていることとは、同じではない。我々が本当の命を求める、と言ったその本当の命は、神のうちにある命であると言えば分かりやすいであろう。 「命」と言われただけでは分かりにくい、と我々は感じるかも知れない。それは無理もない。すなわち、我々の間で「命」という言葉は余りに曖昧かつ杜撰に使われているからである。だから、ハッキリさせようとする時、「本当の」命とか、「永遠の」命というふうに形容詞をつけなければ分からないことになった。しかし、本来はそういう形容詞はなくても、命は本当の命であり、それは永遠なのだ。我々が普段感じまた語っている命は、死によって限定付けられたもの、損なわれたもの、死を混入された命、本来の命でないものである。 神が人を創造し、これを見て良しとしたもうた時、死はなかった。ローマ書5章12節で、「このようなわけで、一人の人によって罪がこの世に入り、また罪によって死が入って来たように、こうして全ての人が罪を犯したので、死が全人類に入り込んだのである」と説明するように、死は初めからあったのではなく、後から「入って来た」。 今回は「死」について詳しい議論をしておられないし、その必要に迫られているのでもないが、少しは触れて置かなければならない。人間に対して死が非常に大きい意味を持っているのは確かであるから、我々は死が命と対等な、あるいは命を凌駕する力のある原理であるかのように思い込みがちである。この考えは間違っているので、取り除かなければならない。死は後から入り込んだのであって、命と対等ではない。容易に打ち勝つことは出来ないが、命は死に勝利するものであり、死への勝利は我々には約束されている。それを約束するのがイエス・キリストである。このことを学ばせるのがヨハネの福音書全体のテーマである。「私は甦りである。私は命である。私を信ずる者は死んでも生きる」。これは11章25節で聞く主の宣言であるが、ヨハネの福音書において学ぶべきことの全体を纏めている。 本論に還るが、ヨハネが1章4節で「この言葉に命があった」と言うその「命」は、神のうちに命があるという意味の命である。それが我々の追求している本当の命、死に勝利する命である。だから、命を求めるなら神の言葉を求めよということになる。「言葉に命があった」とは、言葉を通じて伝達される内容は「命」だということである。 言葉によって伝えられるものは知識、知ることであると普通に考えられている。聞いて知るのが普通の順序である。だから、言葉を聞くことによって命を知る、と言っても良いであろう。命を知ることは生きることである。知るだけでは何にもならないのではないかと言ってはならない。ヨハネ伝においては「知る」ということに大きい意味がある。 「言葉に命があった」とは、死に打ち勝つ命が言葉の伝達する内容であるということである。ここで、また脇道に逸れるには違いないが、我々の語る言葉が命をうちに保っているのかどうかを考えて見ることは無意味ではないと思う。一般の人々が如何に命のない言葉を語っているかについては論じない。キリスト者が教会の中で、また教会の外に向けて、命ある言葉を語っているかどうかを厳しく反省する必要がある。 現代の教会において言葉が命を失い、力を失ってしまったことは多くの人がすでに気付いている。だから人々は命を求めて教会に来ることをしなくなった。そのことを憂えて、何とかして教会の教勢を盛んにしなければならないと考え、例えば伝道協議会が開かれる。しかし、その協議会の中で語られる言葉が、命を失った、裳ぬけの殻のような言葉であるならば、事態はますます深刻である。 今、4節で学んでいるのは「永遠の言葉」であって、我々の語る日常の言葉ではない、と言う人がいるならば、その人は間違っている。キリストの教会はキリストの言葉を託されている。ということは、「キリストの言葉に命がある」と述べ立てておれば良いという意味ではない。それを大声で力んで言えば良いというものでもない。命について語っていても、命の伝達にならない空疎な言葉がキリスト教会の中に氾濫しすぎて、本当の言葉が見えなくなった。そのために、言葉などない方が真実ではないかと錯覚を起こす人が出て来る。黙って愛の業をすれば良いと主張される。しかし、言葉を離れて何かを真剣に行なおうとしても、何も起こらないのである。そのうちに何かをする力が枯れて来て、息切れがするようになる。 「この言葉に命があった」。その言葉が我々に与えられている。それならば、我々も命のある言葉を語らなければならない。教会の説教が命の抜け殻ではなく、命に満ちた言葉でなければならないのは勿論、キリスト者の日常の言葉も命を伝えるものでなければならない。言葉は自分自身を伝達することであるが、命のある言葉を語るとは、単純に言えば、自分の命を相手に与えることである。もっと単純に言うならば、愛と真実をもって語ることである。 次の「この命は人の光りであった」という言葉に移ろう。「光り」という言葉がヨハネ伝ではここで初めて登場する。ヨハネ伝の書かれた時期、古代末期、ヘレニズムの世界で、諸宗教が「光り」という言葉をキーワードとして頻りに使ったと指摘される。人々が「光り」という言葉に魅力を特に感じる時代であったかも知れない。けれども、その時代でなくても、人々は「光り」とか「光明」とか「照らされる」という言葉を宗教用語として採り入れたがるし、我々の身辺を見回しても、いろいろな宗教が「光り」を救いの象徴として利用している。諸宗教の礼拝施設においては光りがデザインされ、仕掛けが作られている。 多くの人がその通俗的比喩や光りの装置に簡単に心惹かれるのは、彼らの心のうちに、今の闇から逃れたいとの切なる願いがあるからである。とにかく、ヨハネが「この命は人の光りであった」と言ったのは、時代の産物ではない。ヨハネが「光り」について語ったのは、聖書がずっと前から「光り」について語っているからである。これは聖書の通例表現に従ったものである。 「光り」について聖書が先ず教えるのは創世記1章3節においてである。「神は『光りあれ』と言われた。すると光りがあった」。全ての被造物の初めに「光り」が創られたのである。その前はどうであったか。「地は形なく、むなしく、闇が淵の面にあり、神の霊が水の面を覆っていた」。すなわち、むなしく、形なく、闇であった。 光りが創造された時、どうなったか。「神はその光りと闇を分けられた。神は光りを昼と名付け、闇を夜と名付けられた」と書かれている。こうして昼と夜との規則正しい交代が始まった。つまり、闇も秩序のもとに置かれたのである。だから、今、夜は闇の支配の時であるが、朝が来れば闇はなくなる。闇は限られている。そして最後には夜がなくなる。ヨハネの黙示録21章23節には、「都の門は終日、閉ざされることはない。ここには夜がないからである」と記される通りである。 8章12節にイエス・キリストは人々に語って言われる、「私は世の光りである。私に従って来る者は闇のうちを歩くことはなく、命の光りを持つであろう」。これは1章4節に繋げて聞くべき言葉である。この言葉はまた、文脈は別であるが、マタイ伝5章14節の「あなたがたは世の光りである」との御言葉に結び付けて差し支えない。すなわち、キリストに従って行く者は自ら光りとなるからである。 さて、「この命は人の光りであった」という所に還る。「人の光り」という言い方は難しい言葉ではないが、聖書でもここだけではないかと思う。人を照らす光り、また人々にとっての光りという意味である。 注意を引くのは「人」という言葉である。これもヨハネ伝ではここに最初に現われるものである。言葉によって全てが創造され、当然、光りは全てを照らすのであるが、ここでは万物を照らすことには触れないで、人を照らすことだけが取り上げられる。つまり、ここからは人間に焦点を絞るのである。 「人の光り」、これは、つまり人間の救いである。救いは言葉によるのである。ヨハネの論述は創造から救いへと移って行く。 5節を学ぼう。「光りは闇の中に輝いている。そして、闇はこれに勝たなかった」。ここで先ずテキストの問題を解決しなければならない。口語訳では「勝たなかった」と訳しているが、文語訳では5節は「光りは暗きに照る。しかして暗きはこれを悟らざりき」と訳す。新共同訳も文語訳と同じ「理解する」、「把握する」、「捉える」という訳し方である。本文が二通りあるのではない。訳し方が違うのである。どちらを採るか。両方を併せた意味だという解釈がある。では、どう訳すのが良いか。我々の語彙の中からは適当な訳語を見つけ出せない。 そこで姑息なやり方であるが、両論併記の形で見て行くことにする。先ず、「勝たなかった」という方を見る。 光りがやがて闇を完全に駆逐することは今、黙示録で見た通りであるが、ここで言うのは、終わりの日のことではなく、かつてこうだったというのである。闇が光りに勝てないことは我々が毎日見ているところである。すなわち、光りが照っている限り、闇は退かなければならない。 光りが照ったけれども、闇はこれを理解しなかった、ということを見よう。闇は光りの前にただただ退くだけではないか。最初の闇、神が「光りあれ」と言われた以前の闇はそうであった。しかし、先ほど「入って来た」ということを学んだ罪、それを譬えた闇は、光りが来ても知ろうとしない。知るまいとする反抗的な意志を持っている。9節から11節に「全ての人を照らすまことの光りがあって、世に来た。彼は世にいた。そして、世は彼によって出来たのであるが、世は彼を知らずにいた。彼は自分のところに来たのに、自分の民は彼を受け容れなかった」と書かれていることは闇が光りを悟らなかったという読み方と合致する。 闇の方が光りをよく見ることが出来るではないかという考えはあろう。しかしまた、詩篇36篇6節に「われらはあなたの光りによって光りを見る」と言うように神の光りが与えられなければ光りを見ることは出来ない。 今、5節で学んでいることは、9節の「全ての人を照らすまことの光りがあって世に来た」の前置きである。これはキリストが世に来られたことを指している。彼自身、8章12節で「私は世の光りである」と言われた。12章46節では「私は光りとしてこの世に来た。それは、私を信じる者が、闇のうちを歩まないためである」と言われた。だから、キリストが来られたならば、闇はもう勝てないという意味がここにはある。 しかし、主が9章5節で「私はこの世にいる間は、世の光りである」と言っておられる。光りが照らなくなる時があるという意味である。そこで、12章35-36節では、「もう暫くの間、光りはあなた方と一緒にここにある。光りがある間に歩いて、闇に追いつかれないようにしなさい。闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くか分かっていない。光りのある間に光りの子となるために光りに来なさい」と言われたのである。 これは主が取り去られる時が来るとの預言であるが、その時はいなくなる日が近付いていたが、復活の後は「私はいつもあなたがたと共にいる」とのお言葉通りいつでも捉えることが出来るのか。 1999.05.02. |