◆Back Number2000.01.09.◆

ヨハネ伝講解説教 第29回 ――3:18-21によって――

 今日学ぶ個所の要点は、二つである。一つは「御子を信ずる者は裁かれない」ということである。「裁かれない」とは、「救われる」というのと似た意味であるということを我々は前回17節で読んでいる。これがキリストの福音の中心であることは言うまでもない。ヨハネの福音書から今後もこの主題を繰り返し学ぶのである。人は救われるためには、御子を信じるほかないのである。救いはただ信ずることによるのであるが、信ずる対象は御子キリストである。漠然と何かを信心しておれば良い、というのでもないし、信じる熱心があれば至誠天に通じて救われる、というのでもない。信仰の目は目標たるキリストを見据えていなければならない。キリストを受け入れて、彼にあって生きていなければならない。単に神を信じるというだけでは、信仰はまだ骨格のハッキリしない掴みどころのないものである。神がキリストを遣わしたもうたことを信じて、そのキリストを受け入れる時、信仰は立ち上がるのである。
 「御子を信じる者は裁かれない」というこの言い表わしが分かりやすいと言っては適切でないであろう。御子を信じる者が余りにも少ない実情を見れば、これが如何に分かりにくいことであるかは明らかである。それでも、信仰者の間では、この原理は繰り返し教えられているので、御子を信じて救われる、という言葉は聞き慣れており、第二点よりは分かりやすい。
 もう一つの点、「彼を信じない者はすでに裁かれた」。これは、今、神から独り子を賜わっているのに、彼を信じないならば、やがて最後の審判の日に裁かれ、報いを受けるであろう、というのではない。「既に裁かれている」と言う。現在の不信仰が後に裁かれるのは確かなことだし、そのことがここで言われているのだと納得している人も少なくないようであるが、ここではそういうことが教えられるのではなく、信じない今がすでに裁かれた状態であると言うのである。第一点と比べて、これは深刻であるし、分かりにくいし、納得しにくい。「すでに裁かれている」と言ったのは、やがて裁かれる、と言う警告を強調するためではない。これは誇張して言ったのでなく、ありのままを言ったと取らなければならない。すなわち、信じない故に裁かれている人間の現実を見なければならない。
 次に「すでに裁かれた」ことの理由が述べられて、「神の独り子の名を信じることをしないからである」と説明される。これも分かりにくく、腑に落ちないと感じられるところであろう。「信じない者は裁かれる。裁かれるのは信じないからである」という論法である。これでどうして理由説明になるのか。同じところを無限にグルグル回るだけではないのか。だが、グルグル回りと取らないで、御子を信じないこと自体が裁きなのだと言われるのを読み取って置こう。
 グルグル回りのように見えるかも知れないが、同じところを回っているのでなく、回りながら落ちて行くという現実がある。ローマ書1章24節以下に、神が罪人たちを「なすがままに任された」という言い方を3度繰り返しているのを思い返す。神を神としないで、これを侮る者を、神はなすがままに任せたもう。彼らは神を信じない態度を是認されたと思い、神に拘束されない自由を行使しているつもりで、得意になっているが、それはなすがままにされて、それしか出来ないところへ落ちて行っているのだと知らなければならない。これとやや似ているのは、アモス書8章の御言葉の飢饉である。御言葉を聞くことを軽んじていた者が、御言葉の飢饉に投げ込まれて、御言葉を切に求めてあちこち経めぐるにも拘わらず得られない場合である。
 さらに踏み込んで読み取らなければならないのは、「信じないから裁かれた」というだけでなく、「裁かれたから信じることが出来なくされた」という面である。神は憐れまんとする者を憐れみ、頑なにしようとされる者を頑なにしたもう。
 分かりにくいのは、内容が深刻で不信仰に対して挑戦的だからではあるが、それだけない。素直に聞けば、平明なことが語られている。少なくとも信仰者にとっては、手も足も出ないようなことではない。それでも、我々の普段聞き慣れていない論法が用いられているから、随いて行くのが容易でないと感じるのであろう。
 そもそも、「裁かれた」というのは、誰によって裁かれたのであろうか。神がキリストを遣わしたもうたのに、それを信じないのは神に対する反逆であるから、神によって裁かれた、というのであろうか。それも当然考えなければならない点であるが、今言われているのはそのことではない。あるいはまた、キリストによって裁かれたというのであろうか。神は裁きをなす権能を御子に委ねておられるから、キリストがご自分を信じない者を裁きたもうということも考えて良いであろう。しかし、ここで教えられているのはそういうことでもない。
 「裁かれた」とは、裁かれた状態、罪に定められた状態にあることである。裁かれてそうなっただけでなく、自分自身を自分で呪われた不信仰という立場に縛りつけている。しかし、本人自身は裁かれているとは感じないし、裁かれていると言われても受け入れない。我々が通常何か悪いことをして罰に遭う時、悪と罰は違うものである。だから、悪いことだったと気がつく。ところが、不信仰への裁きとして不信仰にされるというのは、結果から原因に思い至る道にもならない。
 16章9節に「罪についてと言ったのは、彼らが私を信じないからである」と主は言われるが、信じないことが罪であり、信じないことによって罪の状態を確定的なものとしている、ということが指摘されている。不信仰と罪と罰とは一体なのだ。この16章では、聖霊の派遣の約束がなされ、聖霊の来臨によって、罪と信じないこととの関係が明らかになると言われる。
 裁くという言葉も使い慣れている意味と違うのではないか。我々は普通、終わりの審判の日に行なわれるのが裁きであると教えられ、そのように理解している。それで間違いではない。こういう裁きには直ちに罰が伴う。例えば、主イエスがマタイ伝25章の終わりの裁きの教えで言われたように、「呪われた者どもよ、私を離れて、悪魔とその使いたちのために用意されている永遠の火に入ってしまえ」と宣告されるような裁きである。その日以前には裁きは原則としてなく、神は裁きをこらえて待っておられる、と考えられている。しかし、ヨハネ伝3章17節から始まった「裁き」という言葉では、前回も触れたように、刑罰の意味はずっと薄く、「罪に定める」といういう意味である。罪に定められたというのであるから、容疑者ではなく、確定的な罪人である。
 それでは、取り返しのつかない状態になったということか。ここでは必ずしもそうではない。裁かれたけれども、再審を受けて回復の機会が備えられている場合もある。しかし、確定的に裁かれている場合もある。その区別は我々にはつかない。そもそも、ここでは、裁かれた人にもう一度の機会があるかどうかを問題にするのは場違いである。
ここでは信じない状態が裁かれた状態だということをとにかく捉えるべきである。
 だが、そうした上で思い起こさなければならないのは「我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか」と叫ばれた主イエスの叫びである。彼は不信仰ゆえに裁かれた者たちとは全く違う。彼は十字架の死に至るまで父なる神に信頼を置くことを止めたまわなかった。それでも、彼は裁かれた者の側に立って、裁かれ・捨てられた者となり、その立場から祝福を回復する道を切り開きたもうたのである。だから、裁かれてもキリストを見失わなければ終わりではない。破滅から抜け出る道がある。キリストがその道である。「彼を信ずる者は裁かれない」ということの意味はここでようやく明らかになる。
 裁かれるのでなく救われる、という「救い」についても考えておかねばならない。今、裁きについて、来たるべき日の裁きと、今すでに裁かれているという意味の裁きと、両面を捉えることを促されたが、救いについても同様である。終わりの日に救われる救いと、今すでに現実になっている救いとがある。これはヨハネ伝特有の言い方ではなく、聖書全体に共通している。例えば、取税人ザアカイの家で主イエスは「今日、救いがこの家に来た」と言われた。救い主が来られたなら、そこに救いがある。「見よ、今は救いの日」と言われるのも、今の救いについてである。
 救いが現在なのか将来なのか、あるいはその両方なのか、ということを理論として考えるのは今は差し控えて置く。「救い」とは、イエス・キリストを受け入れて、彼にあって生きることであり、したがって、救いが今なのか来たるべき日なのかは、キリストのいますのが、今なのか来たるべき日なのかに掛かっている。キリスト不在のままで、キリストを彼方に期待するだけの人には、救いは現実というよりはやがて実現するかも知れない理想あるいは憧れであろう。だが、キリストとともに生きる人にとっては救いは現実なのだ。
 キリストは第一に、かつて来たりたもうた方である。だから、救いと裁きがその時に始まった。世はそれを認めていないが、我々は知っている。その時から2000年経った。
キリストが来ても何も変わらなかったと不信仰者は言う。しかし、我々はキリストが来られて歴史がひっくり返り、神の国が始まったことを知っている。  第二に、キリストは約束された通り世の終わりに来たりたもう。その時に裁きと救いが完成する。だから、救いは希望によって捉えられる。第三に、キリストは「我は世の終わりまで常に汝等とともに在るなり」と言明し、その言葉が真実であるのを我々は知っている。今、我々と共にいたもうのである。それ故、今が救いの日であり、今が裁きの日だということも確かなのだ。三つの面から見たこの全体を把握することが大切である。
 今、救いが全うされている、と浅薄な幸福感を持つのは、正しくないから、我々はそういう言い方を余りしないように己れを戒めている。しかし、救いはただ彼方に待ち望むだけであるというのも間違いである。では、どう捉えるのか。すでに始まっていて、完成に向けて前進して行くと捉えるのも良かろう。すでに始まっているものと終わりの日に完成するものとを一つのものの両面と捉えるのも良かろう。
 別の観点から、もう少し細かに見るならば、17節以下に論じられている救いは、裁かれないことであり、そしてその場合の裁きは、「罪に定めること」であると先に見たのであるから、裁かれないとは、罪に定められないことである。それはつまり、ローマ書3章21-22節で、「しかし、今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者によって証しされて、現わされた。それは、イエス・キリストを信じる信仰による義であって、全て信ずる人に与えられるものである」と言われることと同じである。ローマ書8章1節は「今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない」と言うのも、ヨハネが「彼を信じる者は裁かれない」と言うのと同じである。
 ローマ書が旧約の言い方にしたがって「義とされる」というのは、義でない者、つまり罪人というほかない者を、罪人だから罪に定めるのでなく、罪人であるのに、罪でないかのように取り扱うこと、別の言葉で言えば罪を赦し、罪の負い目を免除し、義であると宣言することである。イエス・キリストを信ずる信仰によって義とされるのは、将来のことではなく今のことである。罪の赦しは将来に関する約束ではなく、今、確実に把握している現実である。キリストが世に来たりたもうた時から、「汝ら、罪赦されたり」との宣言が世界を覆い始めた。罪に対して赦しが勝利することが始まった。だから、今日学ぶのは言葉を換えて言えば、信仰によって義とされる教えである。
 19節に進むが、「その裁きというのは、光りがこの世に来たのに、人々はその行ないが悪いために、光りよりも闇の方を愛したことである」と言われる。裁きがかなり具体的に描かれるが、光りというのは抽象的な光りではなく、1章9節に「全ての人を照らすまことの光りがあって、世に来た」と言われたその光りである。つまりイエス・キリストのことである。光りを嫌うとは遣わされた御子を信じないことである。光りを必要としながら、光りを避ける、それが裁きである。
 裁きの実態が描かれる。光りよりも闇を愛していること、光りが良いことは分かっても、それを愛することが出来ない。したがって光りがあっても光りに来ない。闇に愛着している。それが裁かれている者の実態なのだ。光りが世に来たのに、人々が光りに来ないので、神にとってもどうしようもない、今は手がつけられないからこのままにして置いて、裁きの日の決着を待つほかないではないか、と思う人がいるであろうが、聖書はそうは言っていない。光りに来ないことにおいて、すでに裁きが行なわれている。
 そう言われても承服出来ないと感じる人がいるであろう。例えば、一つの国家が戦争に当たって国民を軍隊に駆り出す。もし、召集に応じない者がいれば、草の根を分けても探し出して厳罰に処する。まして、もろもろの人を照らす光りがあって世に来たにも拘わらず、人々がその光りのもとに来ないならば、神は全能を発揮して、キリストのもとに来ない者を探し出して罰すべきではないのか。信じない者はすでに裁かれたのだと言うのは、神の全能が本当は無力なのに、誤魔化しているのではないか。
 聖書が誤魔化しを言っているのではないことをハッキリ捉えて、その通りなのだと確認出来るようにしておかなければならない。神の全能を知らなければならない。人が光りに来ないから神の全能はないのではないかと疑うのでなく、人々の来ないことの中に神の全能を読み取る目を持たなければならない。確かに、既に裁かれたのだ、と説明することを教えられると、こういう言い方を模倣して、例えば怠慢な伝道者が自分の宣べ伝える福音を人々が聞かないのは、彼らが裁かれているからである、と自分の怠惰も不手際も何もかも言い抜けることがあるかも知れない。そうならないためには、我々自身を神への絶対服従のもとに先ず置いて語らなければならない。
 1章11節に「彼は自分の所に来たのに、自分の民は彼を受け入れなかった」と書かれていたが、これは光りが来たのに、光りに来ようとしない人がいた実相である。そして、これに続いて、「しかし、彼を受け入れた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。それらの人は、血筋によらず、肉の欲によらず、また人の欲にもよらず、ただ神によって生まれたのである」と言われている。前のことと逆に、これは光りに来た人のことで、その人たちは神によって生まれたと言うわけである。光りに来る人と来ない人が、すでに分けられている。このことには今日はこれ以上は触れないが、全能の神の主権に属することとして心に刻み込んで置きたい。
 光りに来ない理由は次に述べられる。20節、「悪を行なっている者はみな光りを憎む。そして、その行ないが明るみに出されるのを恐れて、光りに来ようとはしない」。――光りを必要としているにも拘わらず、光りを敬遠する。ますます光りと無縁になって行く。
 光りに照らされるのが嫌なのである。暗い中で何を着ていても平気であるが、白昼はキチンとしたものを着なければならない。汚い着物しかない者は夜にならないと出歩けない。恐れと恥じらいがあるからである。
 「しかし、真理を行なっている者は光りに来る。その人の行ないの、神にあってなされたことが、明らかにされるためである」。これは前項と逆である。  「真理を行なう者」とは余り例のない表現であるが、信仰者のことであると理解すれば良いであろう。3節にあった「新しく生まれた者」のことと見ても同じである。18節にあるキリストを信じる者である。信仰者のことを言うのに「行なう」という言葉を使うのは、一つは、信仰者には当然のこととして、信仰をもって行なう行ないが伴うのである。もう一つ、この節の後半に神にあってなされた「行ない」のことが出て来るからである。
 悪を行なう者はその行ないが明るみに出されるのを恐れて光りに来ようとはしないが、真理を行なう者はその真理の業が神にあってなされたことが明らかにされるために、喜ばしく光りに来るのである。我々はそのようにして今、光りのもとに来ているのである。


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