◆Back Number2000.01.02.◆

ヨハネ伝講解説教 第28回 ――3:17によって――

 ニコデモの来訪は夜ひそかに行なわれた。エルサレム市民は知らず、主の弟子も知っていたかどうか明らかではない。これはヨルダン川における受洗や、カナにおける奇跡や、エルサレムにおける宮潔めのように、どんな人の目にも見えた事件と同様ではない。それらの事件は福音書の柱をなすと言えるほどの重要な事件で、それ自体が分かりやすかった。けれども、ニコデモの来訪の事件は、殆どエピソードと言うべきものであって、そのことだけ取り上げていては、事柄の核心に迫ることが出来ない。
 ニコデモが夜の闇に隠れて、世間に気兼ねした限界とか、パリサイ派の代表的律法学者でありながらなお真理を追究して無名のナザレ人イエスを訪ねた志とか、彼が老境に達していた状況とか、それらの面は勿論無視すべきではないが、問題の核心、すなわち救いの事柄と直接には無関係で、問題の周辺をまわるだけである。そこで、我々は舞台の上に主イエスと老学者ニコデモが向かい合って座っている情景を思い浮かべたとしても、何にもならないことを悟るのである。
 ここでは目をつぶって良いのである。むしろ、情景があると考えると拙い。聞こえて来る言葉を、一途に聞き取ることだけが大切である。一言一言、聞き漏らさないように受け止め、噛みしめ、理解する。そうすると、一つの言葉が一つの事件に匹敵し、一語一語が我々の目を開く。それがこの個所における読み方である。16節はまさにそのように読まれた。17節もおなじである。
 「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によってこの世が救われるためである」。
 これは16節の言ったことと基本的には同じ内容である。16節で「独り子を賜わった」と言ったところを17節では「御子を遣わされた」と言い表わす。どちらも神の愛の業である。先に「永遠の命を得る」と言ったところを、ここでは「救われる」と言い表わす。それらは神の御業の結実である。そして、「救われる」とは「裁かれる」ことの逆であると示される。16節も17節も「世を愛する」、「世を救う」と共通して世に対する救いの業が語られる。
 「遣わされる」という言葉がキリストに関して語られるのはヨハネ伝ではここが初めてである。この言葉は旧約では預言者を遣わすことについて語られたが、ヨハネ伝ではこれまではバプテスマのヨハネについて言われたのと、ユダヤ人がヨハネのことを調べるためにエルサレムから委員を遣わした場合だけであった。ヨハネが遣わされたことは重要である。1章6節「ここに一人の人があって、神から遣わされていた」。神から遣わされるとは、神から特別な使命を託されて、それを果たすために世に来たということである。イエス・キリストの場合も遣わされた使命がある。
 ニコデモは主イエスを訪ねて「あなたが神から来られた教師であることを知っています」と言ったが、「神から遣わされた教師である」とは言えなかった。自分より高いところにいる方だとは認めたが、神の子であることも、神からの使命を持っておられることも認めてはいない。だから、非常に尊敬はしているが、結局、漠然たる憧れであって、信仰ではない。
 主は「神が遣わされた者を信じることが神の業である」と6章29節で断言しておられる。これは重要な言葉である。神の子イエスが神から「遣わされた」。あるいは「贈られた」と言っても同じであるが、神から私に与えられたと信じるかどうかが信仰の謂わば決め手になる。偉大な方だというので熱烈に崇拝していても、「神から遣わされた」と信じるに至っていなければ、極めてアヤフヤな信仰である。神から遣わされた方としてキリストを受け入れる時、キチンとした信仰になる。
 信仰とはキリストを信じ受け入れることであるが、キリストを「神から遣わされた」御子として受け入れることが肝心である。すなわち、父なる神から遣わされた方としてキリストを受け入れないならば、謂わば受信機の波長が合わない場合のように、神からの使信を正しく受信出来ない。
 少し脇道に逸れるが、「遣わされる」ということは、イエス・キリストの弟子たちについても言われる事情を見て置きたい。20章21節に主は言われる、「安かれ、父が私をお遣わしになったように、私もまたあなたがたを遣わす」。これは復活した主イエスが弟子たちに語りたもうた言葉である。
 バプテスマのヨハネが遣わされたことと我々の生き方との関係は直接にはないが、イエス・キリストが御父から遣わされたことと、我々がキリストから遣わされることとは直結している。主の御言葉はそのことを教える。そのように、我々も使命を持っている。信仰に生きるとは使命に生きることでもある。我々の使命については今日特に学ぶ項目ではないから、これ以上は深入りしないが、キリストがその使命に忠実であられたように、我々も使命に忠実でありたい。
 さて、キリストが遣わされて果たしたもうた使命は何か。それは「世を裁くためではなく、御子によってこの世が救われるためである」と言われる。「裁き」でなくて「救い」なのであるが、その救いが「御子によって」の救いと言われている点を見落としてはならない。すなわち、我々は世に救いを齎す使命を持つが、我々自身が世の救いとなるのではない。ところが、キリストの場合は彼自身が世の救いの実体となる、そういう救いを与えたもう。
 「御子によって」とは、14節で「人の子が上げられる」と言われたことと同じである。彼が十字架に上げられることによって、という意味である。神は永遠の贖い主であって、その御力によって救いたもう。ただし、その救いを御子によって遂行したもう。5章21節には、「父が死人を起こして命をお与えになるように、子もまた、その心にかなう人々に命を与えるであろう」と言われる。その先の26節に、「父がご自分のうちに生命をお持ちになっていると同様に、子にもまた、自分のうちに生命を持つことをお許しになった」と言われるが、これは救いの力が御子に移されたことを言うのである。また、その少し前には「裁きのことは全て子に委ねられた」と言われた。これは救いのことは全て子に委ねられたことをも当然含んだ言い方である。
 「救われる」という言葉はキリスト者の間で、いやキリスト者でない人の間ですら、頻繁に使われている。キリスト教用語の中の最も基本的だし、また最も広く普及しているものである。それだけに、通俗化して、分かったつもりで実は分からぬままで語っている人が多いようである。そういう人たちから「あなたは救われたか」と問われて、たじたじする向きも少なくない。
 しかし、「救われた」という言葉を軽々しく使っている人を批判しても始まらない。
我々自身がこの意味をシッカリ捉えていることが先決であろう。その意味は御言葉を学ぶことによって捉えられる。
 この「救い」とか「救う」という言葉がヨハネ福音書で重要な役割りを持つのは言うまでもないが、この言葉はこれまでには出て来なかった。ということは、大切なことが今までは秘めておかれ、ここで初めて明らかにされたということか。そうではない。ここで新しく我々の目が開かれるところがあるのは確かであるが、「救い」という言葉が出て来なければ「救い」がないというのではなかった。これまでも別の言葉で言われていたのである。先にも「永遠の命を得る」という言葉が「救われる」という言葉に当たるものとして用いられていたことを語った。「新しく生まれる」というのも、またもっと単純に、ただ「生きる」とだけいうのも「救い」とほぼ同じ内実を指す。
 「救う」は大事な言葉ではあるが、この言葉はヨハネ伝ではそれほど多くは用いられていない。すなわち、意味が広すぎて、漠としているので、正確さが失われるのを心配したからであろう。例えば、11章12節に「主よ、眠っているなら助かるでしょう」という弟子たちの不真面目な言葉が記されるが、「助かる」と訳してあるのは「救われる」という言葉である。つまり、ラザロが死んでしまったなら助からないが、眠っているだけなら助かる、回復する、という程度の軽い気持ちで「救い」という言葉を使っている場合である。これは随分好い加減な意味である。――もっとも、弟子たちの言葉は不謹慎であったが、ラザロは確かに死から救われた。弟子たちは弁えないまま真実を語ったわけである。
 5章34節に「このことを言うのは、あなたがたが救われるためである」と主は言われる。救いのために遣わされて来ていることがここでも言われる。10章9節では「私は門である。私を通って入る者は救われる」と言われる。ここでは「私」すなわち御子が救いにとって決定的な役割を担っていると語られている。そのことは先に触れた。そして、これらの個所から「救い」が方向を持つ動きであることが示唆されていると読み取ることが出来る。後でも見るが、「滅びずして救われる」とか「裁かれるのでなく、救われる」という言い方で、方向は打ち出されている。
 しかし、それでもまだ茫漠とした面が沢山ある。全ての宗教が救いを看板に掲げていることを我々は知っている。ローマ帝国では、皇帝を「救い主」と呼ばせることまで始めた。皇帝神格化であって、神格化したものを上に据えて置かなければ国家の統合が出来なくなっているという危機感の現われでもあるし、権力へのおもねりが権力をいやが上にも肥大化させたその究極の見本とも言える。これが実に好い加減な言い方であることは誰にも分かるが、「救い」という言葉はそのようにドンドン広くなり、したがって曖昧な意味で使われる。  ところで、4章42節では、サマリヤのスカルの人々が「この人こそまことに世の救い主であることが分かった」と言っている。これはその前の22節に主が「救いはユダヤ人から来る」と言われたことに対応しているものであり、ここに「救い」についての彼らの告白がある。ユダヤ人であるイエスを世界の救い主と認めたのである。厳密ではないが、方向が間違っているとは言えない。つまり、「イエス・キリストにおける救い」というメッセージに最初に反応したのが、ユダヤ人でなくサマリヤ人であったという事実が指摘されている。
 我々は「救い」を好い加減な意味に取って、分かったかのように思ってはならない。今日与えられた御言葉では、救いが「裁き」と対置されるが、裁きと照らし合わせることによって、主は我々に救いの意味と、その深さ、確かさを悟らせようとされたのである。5章24節でも「私の言葉を聞いて、私を遣わされた方を信ずる者は、永遠の生命を受け、また裁かれることなく、死から命に移っている」と言われる。ここでは、「裁き」と「永遠の生命」また「死から命に移ること」が対照されている。
 さて、「裁く」とはどういうことか。この言葉に含まれる意味はかなり広範であるが、意味が曖昧であるとは言えない。旧約の律法は裁きがどうでなければならないかを、厳密に規定しているからである。裁きは公平でなければならない。人を偏り見てはならないが、寡婦とか、孤児とか、寄留の他国人に特に手厚くすることが公平なのだと教える。裁きは神の義の発動である。そして神の義は神の憐れみと一致するのである。
 一般的に理解されているところでは、裁く権能を持つ者が法にしたがって裁くのであって、誰でも裁きの座に座って良いわけではない。裁きは公に行なわれる。公開される。裁きは、取り調べをし、判決を下すが、取り調べも裁きと呼ばれ、判決も裁きと呼ばれる。取り調べを進めて行くうちに罪がないことが明らかになって無罪を申し渡す場合、その無罪宣告も「裁き」と言われる。また有罪であると判定された者に刑罰を執行することも「裁き」に含められる。だから、「罰する」、「滅ぼす」という意味で言われることもある。この17節では「裁く」は今挙げた意味の全部に亘るのでなく、「罪に定める」の意味である。
 「神が御子を遣わしたもうたのは、世を裁くためでなく、世を救うためである」という言い方は良く分かるとされるのであるが、なお考えなければならない問題が残っている。裁くのは神の峻厳であって、救うのは神の慈愛であるというふうに単純に割り切った考えをしていては、重大な読み違いをすることになる。
 9章39節に主はハッキリ言われる、「私がこの世に来たのは裁くためである」。その前、5章22節で「裁きのことは全て子に委ねられた」と言われる。27節では、「父は子に裁きを行なう権威をお与えになった」とも言っておられる。これは3章17節で「裁かない」と言われたことと矛盾するのか。そうではない。むしろ、裁くためでなく救うため、と言われたことの意味の深さをここで読み取らなければならない。
 御子は裁きをなす権能を持って世に来ておられるのである。しかも、「裁かない」と言われる。このことを劇的に分からせるのは、姦淫の女が主のもとに引き立てられて来た時に言われた8章11節のことばである。「私もあなたを罰しない」。これは3章17節の「裁く」という言葉と別であるが、意味は似ている。「私は裁かない」、あるいは「私は罪に定めない」と訳した方が良い。  ユダヤ人は姦淫の女を引き立てて来て、主イエスに「あなたはこれを罪に定めるのか、定めないのか。刑を執行するのかしないのか」と詰問する。主は答えて「あなたがたの中で罪のない者が先ずこの女に石を投げるがよい」と言われた。これを聞くと、群衆は一人去り、二人去り、ついに主イエスと罪の女以外に誰もいなくなった。人々はこの女を裁く資格が自分にないことを悟ったのである。確かに、彼らには裁く資格はない。主イエスだけは裁く資格を持ちたもう。しかし、その主イエスが「私は裁かない」と言明されたのである。今の場合、可哀想だから見逃す、というのではない。人々は裁けないから逃げ出したが、私は裁けないのではない。私は裁かないのだ、つまり赦すのだと言われる。
 今我々の見ているのは「世を裁く」という一般的な問題であって、姦淫の女のような個別的なケースを持ち込んでは、一般と特殊の混同だと言われるかも知れない。その点、注意はしなければならないが、罪の女に「私は裁かない」と言われたことは、今学んでいることの核心に触れるものである。
 「御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではない」。――「御子が遣わされる」という点に注目を促されている。我々は1章17節で「律法はモーセを通して与えられ、恵みとまことはイエス・キリストを通して来た」と聞いたことを思い起こそう。ここでもう一度先の8章の場面に帰って見る。ユダヤ人は姦淫の女を引っ張って来て、中に立たせて、イエスに言う。「モーセは律法の中で、こういう女を石で撃ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。つまり、モーセは裁けと言ったがお前はどうなのか。それに対し、キリストは私は裁かないと言われる。そしてこの女に言われた、「安らかに行け、もう二度と罪を犯してはならない」。裁かないとは罪の赦しと再生のことである。
 「裁くのでなく救う」という言葉は、漠然とした幸福の振りまきでなく、再生した者、すなわち悔い改める者への罪の赦しである。これが福音である。  


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