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ヨハネ伝講解説教 第27回

――3:11-16によって――

   主イエスのご降誕を記念する時、ちょうど3章16節を学ぶことになったのは幸いである。
 主イエスがニコデモに答えて語りたもうた言葉を学んで来たのであるが、そのお言葉がどこまで続いているのか、良く分からない。我々の持っている口語訳聖書では15節の終わりに括弧がつく。キリストの御言葉はそこで終わっているというわけであるが、この括弧は訳者が付けたものであって、原文にはない。15節で終わるとは、16節以後は主の言葉でなく、福音書記者ヨハネの注釈の言葉だという意味になる。だが、そう言い切れるのかという疑問が残る。文章自体、15節までと16節以後とで、内容、文体が異なっていると見ることは困難であるし、16節の初めに「なぜなら」という意味の言葉があるから、新しい文章が始まると見ることはどうしても無理である。
 初めから全部ヨハネの頭の中から出たことで、ニコデモが来たという事実すらなかったのだと割り切るならば、簡単でスッキリするが、それでは一つの解釈であるとしても、御言葉を聞く姿勢は成り立たないであろう。神の言葉を信じ、依り頼み、それに従って行くという意味で我々は聖書の教えを聞くのであるが、これはヨハネの頭の中から出たことだ、これはパウロの頭から出たことだ、というふうに解釈し、納得しているだけでは、信じて依り頼むことも、それに服従することも、救いに至ることもない。
 では、どうなるのか。――長い時代に亘って教会は、聖書本分に直接話法で書かれている言葉にも括弧を入れないで読んで来た。それで分かり難いことがあるから括弧を使うようになったが、果たしてそこに括弧を入れて良かったのかという疑問が生じる場合もある。それなら今も、昔のように括弧なしで読むほうが良い。すなわち、代々の教会は、16節を主の御言葉の続きとして読んでいたのである。ただし、福音書記者ヨハネがその御言葉を纏めた事実を否定することは出来ない。ヨハネは第一の手紙の4章9節に「神はその独り子を世に遣わし、彼によって私たちを生きるようにして下さった。それによって、私たちに対する神の愛が明らかにされたのである」と言うが、これはヨハネ自身の告白の言葉である。しかもこれは福音書の3章16節と内容的に同じものである。だ から、3章16節はキリストの言葉であるとともに福音書記者ヨハネの言葉でもあると言って良いであろう。
 要するに、ヨハネが纏めた主イエスの御言葉を我々は今日聞くのである。これは主の言葉でありながら、ヨハネが殆ど自分の言葉として語っている。我々の聞く言葉がどこから来ているかを見定めて置くことは読む者にとって不可欠である。ヨハネの神学に共鳴しているだけでは、御言葉への服従もなければ救いもない。
 しかも、福音の中心と言うべき纏めがこの16節でなされていることを我々は知っている。ヨハネ伝の学びを始めて以来、毎回のように、一つ一つの言葉に、我々は目の鱗の落ちるような、あるいは幕が開かれるような経験を味わって来たし、時々は大きい衝撃を受けるほどの纏め、ないし注釈、あるいは定義を聞いた。例えば、1章18節「神を見た者はまだ一人もいない。ただ、父の懐にいる独り子なる神だけが、神を現わしたのである」。珠玉のような言葉が至る所に鏤められていた。しかし、今日聞こうとしているのは、ヨハネ伝の中の纏めとしては最大の纏め、注釈としては最大の注釈であって、これ以後にはこれと匹敵する重要な纏めの言葉は出て来ないのではないかと思われる。ただし、この纏めを聞けば、ヨハネ伝の内容が全部分かったことになる、と言うならば、 それは言い過ぎである。むしろ、ヨハネ伝の最初の部分を終わるに際して、全体の纏めを与えるに相応しい段階に来ているので、この纏めがここに挿入されたと受け取った方が良い。つまり、これまで学んだことの纏めと言うよりは、これから学ぶための纏め、方向づけと見た方が適切である。このことをシッカリ心に留めて読んで行けば、誤りなく読み通すことが出来る。
 ところで、ここで纏めをつけるに相応しい段階に来たと言ったが、分量的にこの辺で纏めを入れれば都合が良いという意味ではない。そうではなく、先に14節で「人の子が上げられなければならない」と言われたので、それとの関連からこの言葉がここに入ったと理解すべきである。すなわち、モーセがかつて荒野で蛇を上げた故事との結び付きが指摘されるが、「そのように人の子が上げられる」と言われても、主が十字架につけられたもうたことにはまだ触れていないから、昔あったこととの関連だけでは殆ど意味の取れない言葉である。魔除けのオマジナイではないかと思われかねない。そこで「人の子が上げられる」とは「神がその独り子を賜わる」ということと重ね合わせて読まなければならないという手引きがなされる。
 これはまた、神のなしたもうた業とモーセが行なった業とを対比させている。すなわち、モーセは蛇を上げたが、神は御子を世に与えたもうた、という対比である。モーセのしたことは、やがて起こるべき本当の事の前触れの蔭あるいは象徴に過ぎない。人の子が上げられることによって救いがなるのである。が「人の子が上げられねばならない」という時の「上げる」のは誰か。人々が上げるのか。キリストを十字架につけたのはユダヤ人であった。だが、キリストを上げるのはユダヤ人でもローマ人でもない。神が十字架の上に御子を上げたもうのである。それが「神は賜わった」という言い方によって示される。
 この点の理解をさらに明確にするものとして、モーセとキリストの比較を思い起こすことが有益であろう。1章17節に、「律法はモーセを通して与えられ、恵みとまことはイエス・キリストを通して来た」と言われる。また、6章32節に、モーセを通して荒野で日々に与えられたパンとキリストの与えたもうパンとの対比が示されることも重要である。「よくよく言っておく、天からのパンをあなたがたに与えたのはモーセではない。天からのまことのパンをあなた方に与えるのは私の父なのである。神のパンは、天から降って来て、この世に命を与えるものである」。こう言って、ご自身が命のパンであると教えたもうた。
 さて、この3章16節の定義をさらに短く要約するのは無理であろう。割合多く見られるのだが、16節をさらに短くしようとして、「神は世を愛したもうた」というのがキリスト教の教えの要点だと説明する人がいる。神が世を愛したもうたことは一点の疑いも挟めない確実な真実であるが、これで主イエスの教えが示されたかというと、そうではない。「神は愛なり」ということは事実であるが、それに似た教えを説く教師はキリスト教のほかに少なからずいる。結構な教えには違いないし、多くの人がもっともだと感じるのであるが、結構な教えだと感じられるだけでは、確かな救いの保証にはならない。
確かな救いに至るに有効な教えこそが意味のある教えなのだ。したがって、今日学ぶこと以上には要約や縮小をしないで、この節の言葉一つ一つ全部をよく聞き取るようにしたい。
 日本語の聖書には出ていないが、原文には「このように」という語がある。「これほどまで」というふうに程度を示す意味に普通受け取られていて、「独り子を賜わるほどに」と訳される。それで間違いはないと思うが、「このようなやり方で」という意味もある。御子を与えるというやり方によって人類を救いたもうのである。御子を与えるという手段なしには、救いは成り立たない。  だから、与えられる御子をシッカと捉えなければならない。聖晩餐の修練はまさにそのことを悟らせるのである。
 神の愛について語られ・考えられる機会が少ないとは言えないであろう。素直な心で見るならば、あらゆる事柄の中に神の愛を見ることが出来る。しかし、見えたつもりの神の愛が屡々フト見えなくなることも事実である。それは我々の心が定まっていないからであると言えば、それはその通りであるが、神の愛を示す物事の不確かさにもよる。
すなわち我々の不信仰を打ち砕く決定的な決め手、神の愛を確実にまた断乎として示す手段がそこにないということ指摘せずにおられない。
 ヨハネの第一の手紙4章9節10節に「神はその独り子を世に遣わし、彼によって私たちを生きるようにして下さった。それによって私たちに対する神の愛が明らかにされたのである。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して下さって、私たちの罪のために贖いの供え物として御子をお遣わしになった。ここに愛がある」と言われているが、この出来事によってこそ神の愛が明らかにせられる。神の愛はどこでも知られると言って良いのであるが、知られるとしても必ずしも確かには知られない。感銘を受けていたつもりでも、フト消えて分からなくなってしまう。だから、神の愛を知るためには、我々のために遣わされ、我々のために十字架につけられて贖いを果たして下さった御子に目を注がなければならない。
 「神は愛したもうた」。この「愛する」というキーワードと言って良いほどの言葉をヨハネ伝で聞くのはここが最初である。しかし、今、言葉の説明は何もない。「このように愛したもうた」ということで愛の説明を聞くのである。すなわち、独り子を与えるほどに深く大きい。また独り子を十字架につけることによって示される愛である。
 愛の対象はここでは一般的な言い方で「世」と呼ばれる。世界である。広く世界全体を神の愛が包むのである。世という言葉は多様な意味を含んでおり、「世を愛するな」とも言われることがある。神が世を愛したもうなら、我々もそれに倣って世を愛すべきではないのか。しかし、世には愛して良い面と、愛してはならない面とがある。この意味の拡がり多様性については今日は触れておられない。
 愛は良いことなのだから我々も愛さなければならない、と思われる。ヨハネの第一の手紙から先に引いた続きとして、4章11節に「神がこのように私たちを愛して下さったのであるから、私たちも互いに愛し合うべきである」と言われる。そのように、神の愛について学ぶだけで、兄弟愛の実践をしないままで終わるようなことはあり得ない。ただし、今日は愛の実践の勧めには入らないで、神から愛されることの理解を深める学びだけをする。
 「神はその独り子を賜わったほどに、この世を愛してくださった」。独り子を賜わることは愛の真実さ、確かさ、その深さ、その歴史的現実性を示すものである。
 「独り子を賜わる」という御言葉について重要な注解は、パウロがローマ書8章32節に言うところである。「ご自身の御子をさえ惜しまないで私たち全ての者のために死に渡された方が、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか」。独り子を賜うことは、神のもろもろの賜物の先端と言うか、焦点と言うか、神の愛が最もリアルに示される所である。それとともに、ここには一切の祝福の伴うことが捉えられる。
 さて、「独り子」について、聖書の歴史は一つの特別な物語を伝えている。それは創世記22章に記されるが、アブラハムが「独り子」イサクを神の求めに答えてモリヤの山で捧げた事件である。これは簡単には説明出来ない重大な衝撃的事件であった。兎に角、独り子を捧げることは神に対する徹底した愛と信仰と希望の証しである。
 神はアブラハムにとって最も大切な独り子イサクをいけにえとしてモリヤの山で捧げよと命じたもう。アブラハムには深刻な葛藤があったに違いないがそれに触れることは今は差し控える。兎に角、アブラハムは神に服従して我が子を伴ってモリヤの山に登って行く。イサクは子供であっても、燔祭を捧げに行くというのに、薪はあるが小羊がいないのを不思議に思って父に尋ねる。アブラハムは「神が備えたもう」と答える。
 山の上の祭壇に薪を並べて、イサクを殺そうとするまさにその時、神はそれを差し止め、イサクを殺してはならないと命じたもう。アブラハムが振り返って見ると、角を薮に引っ掛けた小羊があったので、それを捧げた。アブラハムの言った通り、神が燔祭のいけにえを備えておられた。
 このことの後、神はアブラハムに呼び掛けて、16節に言われる、「私は自分を指して誓う。あなたがこの事をし、あなたの子、あなたの独り子をも惜しまなかったので、私は大いにあなたを祝福し、大いにあなたの子孫を増やして、天の星のように、浜辺の砂のようにする。あなたの子孫は敵の門を打ち取り、また地のもろもろの国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう。あなたが私の言葉に従ったからである」。神はアブラハムの信仰を顧みたもうた。このことについてヘブル人への手紙11章17節から19節は「信仰によってアブラハムは試練を受けた時、イサクを捧げた。すなわち、約束を受けていた彼が、その独り子を捧げたのである。この子については『イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるであろう』と言われていたのであった。彼は神が死人の中から人を甦らせる力がある、と信じていたのである。だから彼は、いわば、イサクを生き返して渡されたわけである」と言う。
 アブラハムにとっては約束の子を神に捧げ、子に対する愛と執着を断念することによって、神に対する信仰と愛と希望を最も真剣に表明したのであるが、神にとっても独り子を差し出すことは、我々に対する神の愛と真実と義を最も確実に示すことであった。
 「独り子を賜わった」とは、先にローマ書から引用したように、独り子とともに一切の祝福を我々のものとして与えたもうという意味である。だから、御子を賜わったからには、全ての恵みを既に受けたのであり、まだ見える形になっていないとしても、必ず得られると確信することが出来るのである。
 「独り子を賜わる」という言葉には、こういう意味の他に、というよりもこの奥に、もう一つ、犠牲にするために渡す、見捨てる、苦しみに遭わせるという深刻な意味があり、そしてさらに、その犠牲によって勝ち取られた恵みに与らせる、すなわち罪から贖う、という意味がある。モーセが荒野で蛇を上げたように人の子も上げられる、と14節で言われたことと独り子を賜わることとは深い繋がりがあると先に言った。16節の内容をはめ込むことによって14節の意味は生きて来るのである。
 「それは御子を信ずる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。この部分も前段に劣らない、これまた大きい意味を持つ言葉であって、ここで初めて聞く重要な事項が幾つかある。先ず、「御子を信ずる」という言い方はヨハネ伝ではここで最初に使われるが、我々の神信仰の特色を的確に言い表わしている。神は御子を世に遣わして、御子を信じさせたもう。神を信じるのではあるが、神は見えない。神は我々の五感でも想像力でも捉えることが出来ない。そこで信じたくても信じることが出来ないと感じている人のために、神は御子を世に遣わし、肉体を纏わせ、この御子を見、御子に触れて、これを信じることが出来るようにしたもうた。このことについては1章18節に「神を見た者はまだ一人もいない。ただ父の懐にいる独り子なる神だけが神を顕わしたの である」と言われた。我々はこの御子を信じ見上げるのである。御子を信じるとは御子を遣わされた父なる神を信じるのと同じなのである。モーセが荒野で蛇を上げ、人々が蛇を仰ぎ見て禍いを免れたように、十字架に上げられた御子を仰ぎ見れば罪に勝つことが出来るのである。
 救いをなしたもうのは父なる神であり、神を信ずる者に祝福が与えられるのであるが、神は信仰の対象を御子に移させ、御子を信じることによる救いの道を開きたもうた。
ただし、唯一の神の他に御子を信ずる新しい信仰が始まったと解釈するのは適切ではない。
 次に、御子を信じる者は救われ、信じる者は「一人も滅びない」。一人も滅びないのは何故か。信じるからか。それもある。しかし、もっと大事なのは御子が良き牧者としてご自身に属する者が一人も失われないように守りたもうからである。10章で学ぶことである。
 こうして、彼らは「永遠の命」を持つ。これは直ぐ前で、15節において語られたことである。すなわち、主イエスの持ちたもう命に、信じる者は与るのである。
1999/12/19

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