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ヨハネ伝講解説教 第25回

――3:7-10によって――

  「あなた方は新しく生まれなければならないと私が言ったからとて、不思議に思うには及ばない」。主イエスはあっけにとられているニコデモに言われた。そして、人が新しく生まれることがあり得るのだと分からせるための比喩を語り出したもう。
 「風はその欲するところに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこから来て、どこへ行くかは知らない」。――これは深遠な原理を語った箴言のように思われるかも知れない。だが、何ら難しく考える必要のない平易な言葉である。我々が日常生活の中で風に吹かれる経験を思い起こせば、説明も要らないそのままを述べたものである。
 風は確かに吹いているのである。しかし、風を見た人はいない。風の実体を捉えて来て、それを見なければ風があると納得しない、という人がいるとすれば、その人の知性は狂っている。目では見えず、手で捉えることも出来ない。では、存在しないのか。そんなことはない。確かに存在する。それは誰もが認めている。
 「見るまでは信じない」と偉そうに言う人がいる。現物を確かめずに、旨い話しに乗せられて危険な場合があるのは確かだ。しかし、見たり掴んだり出来る物だけが実在であると信じる人は不幸である。その人は手に取って見ることの出来る金銭とか、目の前にある欲望の対象物だけが実在だと信じるため、極めて貧困な精神生活を営むほかない。
 手では掴めないけれども、風は実在である。風はある時はこちらから、ある時はあちらから、ある時は強く、ある時は穏やかに、自由自在に吹いて来る。そしてフッと吹き止む。その吹き方は人間の理解を越えている。理解出来ることだけが受け入れられると言っているならば、余りに狭い範囲のことしか知り得ないであろう。
 風のほかにも、手で捉えることの出来ない実在はいろいろある。信仰の領域には、目で見えず、手で把えられないものがたくさんあるが、信仰の事柄を別にしても、人間として生きるに必要で、目で見えないものとして、生命とか、霊魂とか、人格とか、沢山ある。余談であるが、現代の人間は、目に見えないけれども確実に存在するものがあるということに余りにも無頓着・無感覚になり過ぎた。目に見える物のみアレコレ追い求め、身辺に積み上げたが、生活は一向に幸福にならないどころか、ますます惨めになって行く。
 そういうことを思う人なら、主イエス・キリストがここで、風が掴まえようのないものでありながら、確かな存在であると言われるのを、素直に受け入れることが出来よう。
 ところで、主イエスの語りたもうたままの言葉は、聞いた人にとって、今の我々が受け取るよりズッと分かりやすかったはずである。聖書のこの個所を読んで、「風」という言葉が難しいことを象徴的に語っているのではないかと感じる人は少なくないであろう。しかし、これはギリシャ語で「プネウマ」という語であって、同時に「霊」という意味でもある。風、息、魂、霊、これらのことが同一の「プネウマ」で表わされた。聞いた人はここでは風の吹くことだと理解したが、同時に霊という言葉の響きを受け取った。今日の我々に霊と風が同じ言葉であったと解説されれば、それはそれなりに了解出来ても、心にピンと響くものがないかも知れない。ところが、聖書の世界に住んでいた人には、霊は風なのだ。旧約のヘブル語でも「ルーアッハ」という言葉が、風であり、また霊であった。
 また余談になるが、創世記1章2節に「神の霊が水の表を覆っていた」と記されている。ここを「強い風が水の上を吹いていた」と訳したがる人がいる。我々はその訳を採らないが、これが直ちに誤訳であると決めつけるわけにも行かないということは知っている。水と霊の組み合わせは、旧約にも新約にもしばしば出て来るが、先にヨハネ伝3章5節で学んだ通り、イエス・キリストの教えのうちに、我々が今理解しているような意味で明らかになって来たのである。したがって、旧約聖書の初めに還って、そこでも水と風ではなく、水と霊の結びつきを読み取るのが正しいと思う。それにしても、昔の人が霊という意味にこの言葉を受け取ったときにも、風というイメージをなにがしか引き摺って理解していたことは考えておいた方がよい。
 では、風と霊が同じ単語で表現されていない日本語を使う我々には、聖書の言葉の理解に関する重大な不利益があるのか。いや、そう深刻に考えるには及ばない。風と霊は言葉は同じでも、ちょうど同姓同名の別人の場合のように、名前が同じだからといって実体が混同されると考えてはならない。実体は明らかに別である。それを混同することがないように主は教えて下さる。
 風は霊の比喩であると受け取れば良い。主イエスは神の国が芥子種のようなものだと教えられたが、神の国イコール芥子種と取るべきではないと我々は心得ている。芥子種が野菜の種の中で最も小さいものでありながら、最も大きい野菜に成長することは、神の国が最も小さい形で始まって、最も大きく発展することの譬えであると言われたのである。そのように、ここでは風を譬えとして語っておられる。
 今、主イエスは風について語られるのであって、霊について教えておられるのではない。すなわち、霊が一陣の風のように吹き来たり吹き去った後、どこかへ消えてなくなるとか、霊は実体のないもので、それの起こす作用や現象が感じられるだけだ、と言われたのではない。
 風は霊の譬えだと今言ったが、もっとキチンと論じると、風の譬えが何を意味するかについて、主ご自身は8節の終わりでハッキリ解き明かして、「霊から生まれる者も皆それと同じである」と言われる。「霊から生まれる者」については、6節で「肉から生まれる者」と対比して語られたが、それをさらに詳しく論じたもう。
 「霊から生まれた者」、それは我々キリスト者のことであるが、我々の生き方がどうあるべきか示されるのであろうか。そう考えて良いのであるが、もっと細かく整理した方が分かりやすいと思う。すなわち、風が自在に吹くのは、霊から生まれた者の譬えだと言われたが、先ず、霊そのものが新しく人を創造する御業について語られたと取ると分かりやすい。「霊から生まれる者も、皆それと同じである」。そのように霊によって人が新しく生まれることが出来るのだ、と主は言われる。風そのものが霊という言葉なのであるから、風が自由自在に吹くこと、風の姿は見えないけれども、音で確かめられること、これは霊から生まれた人よりも、霊の働きについて言われたと取って良い。使徒行伝2章の初めに、「激しい風が吹いて来たような音が天から起こって来て、一同が座っていた家一杯に響き渡った」と書かれるのは、音によって聖霊の現臨が捉えられたという趣旨である。
 風がどこから吹いて、どこへ去って行くか、分からないのと同じように、霊もどこから来るか分からなくても、事実として我々に臨む。我々の理解を遥かに越えた方式で、御霊は我々に対して作用するのである。「どうしてそんなことがあり得ようか」と疑う人がいるとしても、現実に霊によって新しい人が生まれるのである。そのような霊の働き、霊によって人が新しく創造されることを学んだ上で、霊によって生まれた者の自由な生き方を考えるという順序を取るべきである。
 風がどこからか吹いて来て、どこかへ去って行くように、我々も飄々と掴みどころのないものなのか。これは譬えであるから、何から何まで風の吹き去った後のようであると見なくて良い。何をしても何を語っても、そのあと、あたかも水に流されたかのように、何もなかったかのようでなければならないと考える無責任はむしろ問題であろう。 しかし、ある意味では、霊から生まれた者は、風が吹き来たり吹き去るように、軽やかに生きるのだ。第一に自由である。「風はその欲する所に吹く」。これは上で見たように、霊から生まれた者のことと取るより先に、霊そのものについて言われたと見た方が分かりやすいのであるが、霊そのものに見られる自由さ、それが霊によって生まれた者にもある。霊によって生まれた人は他から操作されず、自ら判断して行動する。肉によって生まれた者にはこの自由はない。
 ここに物が置かれているとする。この物体は外から力を加えなければ、動かすことが出来ない。また、外から力を加えるためには、その力を行使する意志がなければならない。しかし、「風は自分の欲する所に吹く」。風は他のものの力や意志によって動かされるのでなく、自らの意志と自らの力で動くのである。霊も自らの意志と自らの力で地上に臨み、新しく人を生まれさせるのである。霊から生まれた人も他に依存せず自立する。
 風が自由に吹く譬えを、あらゆる点で良い意味に言われていると取る必要はないであろう。風が勝手に吹くために災いが起こる場合も少なくないのだ。我々の自由もあらゆる点で良いものだと見てはならない。場合によっては、自由を自ら制限しなければならない。すなわち、私の自由が他の誰かの躓きになるなら、私はその自由を進んで放棄、あるいは制限しなければならない。また、キリスト者は自由に生きるとはいえ、十字架を負わない自由があるとか、キリストを否む自由があると考えてはならない。そのような自由は肉の自由である。ただ、今は、自由の制限についてはこれ以上触れなくて良いと思う。
 主イエスがこのことをニコデモに向けて特に語りたもうたのは、ニコデモが新しく霊によって生まれることについて理解出来ないままに、理解出来ない事柄は起こり得ないのだと思い込んでいる点の間違いを糾すとともに、彼が上から生まれた者でなく、したがって自由がないことを指摘するためではなかったかと思われる。彼は当代随一の律法学者で、彼の説くところ為すところは権威あるものと仰ぎ見られている。しかし、彼自身は自由でない。例えば、人に知られないように、夜ひそかに主イエスを訪ねる。人の目を憚らなければならないのは自由でないからである。また例えば、年を取ってしまったから生まれ変わりを考えることが出来ないと思い込んでいる不自由さがある。御霊の働きの自由さを考えることが出来ない不自由さがあるのである。
 「あなたはその音を聞く」。風の実体は捉えられないから、それはないのだと言う人がいるとすれば、明らかに間違っている。目に見えなくても、風は音によって存在を示す。風の強さの度合いも音によって判別出来る。霊によって生まれた者も、自己宣伝はしないが、黙々と良き業をして、生きている証しを立てるのである。風のようにサラッとしている。重油の流れ着いた海岸のように痕がベトつかない。それがキリスト者の生き方だ。
 「あなたはそれがどこから来てどこへ行くかは知らない」。そのように霊から生まれる者は、良き業を行なうが、それが何に由来するかは説明も主張もしない。また、霊によって生まれる者は、良き業を行なった後、風が吹き去ったように消えて行く。ちょうど、良きサマリヤ人が良き業を行なった翌朝には立ち去って行ったようにである。 肉から生まれた人は自分の名前を残そうと躍起になる。支配者は多くの奴隷を働かせて、陵墓を築かせる。それで辛うじてその名前が残る場合があるが、その名前は博物館の説明文の中に残るだけである。
 虚栄心のある人たちは、自分の行なった良い行ないを記念に残そうとする。つまり偽善であるが、動物が自分の領域に自分の体臭を染み込ませて残そうとするのと同じ本能によるのかも知れない。しかし、霊によって生まれた者は誰がしたか分からない良き業をし、自分の体臭を残すようなことはない。風の吹き去った後と同じであって良いのである。
 「ニコデモはイエスに答えて言った、『どうして、そんなことがあり得ましょうか』」。ニコデモはますます分からなくなった。上から生まれ変わらなければならない、と言われた時は、生まれ変わりということはあるとしても自分には適用出来ない、という意味の答えをした。今度は、霊によって生まれて、風のように生きることは自分に無理であるばかりでなく、誰にも出来るはずはないし、そんなことが起こるはずはない、と答えるのである。礼儀を失ってはいないが、強く反抗しているのである。
 そこで主は言われる、「あなたはイスラエルの教師でありながら、これぐらいのことが分からないのか」。これは強い調子の叱責である。その叱責の強さは、次の節に行くとさらに高じて「あなたがたは私たちの証しを受け入れない」、「あなたは信じない」という決めつけになっている。
 我々はニコデモが信仰的には肝心の点が欠けているが、それを別にすれば、人間として尊敬すべき多くの美点を持つ老人だと見て来た。今、主イエスが叱責されるからといって、いっしょになって彼を非難するには当たらない。しかし、主イエスが彼に対して厳しくしておられる点はよく理解しておかねばならない。
 「あなたはイスラエルの教師である」。この「教師」には定冠詞がつくので、特定の人という含みがあると考えられる。代表的教師という意味であろう。神の民たるイスラエル全体に対する筆頭の教師という趣旨である。教師とはイスラエルにおいては神の言葉を教える務めであるから、神の言葉について最も良く理解出来ている者である。
 「どうして、これぐらいのことが分からないのか」。分かって当然だし、分かってそれを人々に教えるのが義務ではないか、と言っておられるように思う。
 事柄をハッキリさせるため、あのバプテスマのヨハネと対比させれば良いであろう。バプテスマのヨハネは、イザヤの預言した「荒野に呼ばわる声」の役が自分であると自覚していた。だから、その務めを果たすために、イエスの歩いておられるのを見た時、「見よ、世の罪を負う神の小羊」と証言したし、自分の弟子をイエスのもとに送り込んだ。つまり、彼は預言者の務めを継承し、最後の預言者となって、キリスト預言を全うした。
 ニコデモはどうか。彼はイスラエルにおける律法の教師である。律法という言葉は旧約の御言葉と言い換えても良い。律法は来たるべきキリストを指し示していたのではなかったか。それなら教師の代表者であるニコデモは、バプテスマのヨハネがしたように、「見よ、世の罪を負う神の小羊!」と証言すべきではなかったか。その使命があったのではないか。ヨハネに出来たことがニコデモにどうして出来なかったのか。
 ニコデモを責めても始まらぬ話しであるが、今述べたような比較をするならば、ニコデモの限界と低さがかなりハッキリ見える。彼は2節にあるように、イエスが神から来られた教師であるとまでは認識している。しかし、神からの決定的教師、メシヤであると信ずるには至っていない。結論的に言えば、11節に言うように、「あなたがたは信じない」と決めつけられるほかない。学者としては最高であったが、キリスト証人にはなれなかった。
 今、「あなたがたは信じない」との11節と12節のお言葉に言及したが、複数で「あなたがた」と言われたのはニコデモの仲間がいることを示す。それは2節に「私たちは知っています」とあるのに対応している。パリサイ派の中に、ナザレのイエスをかなり高く評価し、その教えを聞くべきだと主張する学者たちがいたと考えられるのである。彼らはある所までは近付いた。けれども、キリスト信仰へは無限の距離があった。
 11節は次回に学ぶが、「あなたがたは私たちの証しを受け入れない」とも言っておられる。「私たち」とは誰なのか。ここにはキリスト教会とパリサイ派との対立が暗示されているのか。そうとも読めるのだが、「私たち」の証しとはバプテスマのヨハネの証しとキリストの御業の証しを併せたものではないだろうか。1章19節以下で見たようにヨハネとパリサイ派の接触は始まっていた。パリサイ派に対してヨハネが1章26節以下で証しをした点は重要である。さらにヨハネは霊によるバプテスマも証言していた。しかし、ニコデモを含むパリサイ人はそれを受け入れなかった。だから、霊によって新たに生まれることが信じられなかったのである。我々はここで信仰の姿勢を正さなければならない。ニコデモの道を進める限り、目標に到達出来ない。霊によって生まれ変わる道だけが救いの道である。1999/11/29

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