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ヨハネ伝講解説教 第24回

――3:4-7によって――

   前回に続いて「生まれ変わり」について学ぶ。言うまでもないが、キリスト教では生まれ変わりについてこう言っているという知識を学ぶのではない。我々自身の内に新しい生が始まり、もはや古き己れを生きるのではないと確認させられるのである。
 キリスト教では「生まれ変わり」という言葉が頻繁に語られる。しかし、生まれ変わったつもりになっているだけで、実は大事な点ではもとのままで生きる場合が多いのではないか。クリスチャンと言われている人の生き方を検討して見ると、殆ど変わっていないし、自分自身について見ても、事情が同じであると気がつく。「生まれ変わり」という言葉の使い方がうまくなるだけでは意味がない。
 何かが見えて来たように感じる、ということも大して意味がない場合が多い。何かが見えて来たのではなく、神の国が見えて来た、とハッキリ言えるように変わらなければならない。
 さて、ニコデモは「人は上から、新しく、生まれ変わらなければ、神の国を見ることは出来ない」と主イエス・キリストに諭された時、自分はもう高齢に達しているから生まれ変わりは出来ないし、神の国を見ることは出来ない、と絶望感に陥った。「人は年をとってから生まれることが、どうして出来ますか。もう一度母の胎に入って生まれることが出来ましょうか」と嘆息する。
 これは絶望の調子を帯びた慨嘆であるが、別の面から見れば、年を取った者に生まれ変わりを要求するその無理難題に対する開き直った抵抗でもある。さらに、ここには律法の研究に生涯を費やして来た学者らしく、議論によって事柄の核心部に迫ろうとする問い掛けの姿勢も窺える。また、道を求めて夜、主イエスを訪ねたのであるが、予想しなかった主のお言葉にただただ驚いている様子も読み取れる。
 彼は、年を取ってからでは生まれ変わることは到底駄目だと言っているが、年を取らなくても、生まれ変わりそのものが不可能だと考えていたのではないかと思われる。すなわち、人生は一度しかない。やり直しは出来ないと思っているのである。たしかに、聖書はそのような人生を教えているのであって、ニコデモはその教えに従って、これまでの生涯の歩みを一筋に進めて来た。
 パリサイ派では、終わりの日の死人の復活が説かれていたから、その時に新たにされることがあると信じられていたが、誕生から死までの間のこの人生の中で「生まれ変わり」という出来事が起こるとは受け入れられていなかった。これがパリサイ人ニコデモの躓きを理解する上でかなり大事な点ではないだろうか。
 ヨハネ伝11章を思い起こすのである。ラザロが死んで4日して、主イエスはベテニヤに訪ねて来られる。そしてラザロの姉妹マルタに「あなたの兄弟は甦るであろう」と言われる。マルタは「終わりの日の甦りの時、甦ることは存じています」と答える。――語り掛けと応答が食い違うのに気がつく。イエス・キリストは今ひ、現実に起こる甦りの出来事を語っておられるのに、マルタは終わりの日の甦りの教えことを考えて返事している。マルタの言うのは教えられた教理を従順に受け入れているだけの知識であるが、主イエスの求めたもうのは信仰である。「私は甦りであり、命である。私を信ずる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて私を信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信ずるか」。
 マルタが先に「信じています」と答えたのは、終わりの日の甦りの教えを受け入れていますという程度のものであった。しかし、イエス・キリストは、彼方のことでなく、今、私を受け入れて信じ、私において今ここに驚くべきことが起こるのを信じるか、と問いたもう。それに対してマルタが「主よ信じます」と答えた時、彼女の中に新しい現実が始まる。そしてラザロの復活が起こる。ニコデモの場合も幾らか似ていると見るべきであろう。イエス・キリストの前に出る時、これまでどういうふうに学んで来たか、遠い彼方で起こることを信じているかどうか、というような点は殆ど意味をなさなくなる。ニコデモはまだそのことが分かっていない。そして、ついに分からないままであった。
 ところで、「人生のやり直し」という言葉が時々語られ、やり直しが出来るという期待が人々に新しい勇気を起こさせる事例を我々は数多く知っている。しかし、「やり直し」ということは、言葉としては調子よく響いて、喜んで聞かれるとしても、実際にはどれだけ成り立っているのであろうか。「心機一転、新しい人生を始めます」と決意表明した時は本気でそう考えていたとしても、「新しい人生」という空手形を示しただけに終わるというケースが何と多いことであろうか。
 いや、もっと悪いことに、「新しい人生のやり直しをさせてくれ」という約束と願いが、最終決着の引き延ばしの手段として悪用されるに過ぎない場合が多いのではないか。結果的には出来ないことになると予想されているのに、十分起こり得ることであるかのように、自分にも人にも、生まれ変わりの人生があるのだと思い込ませる誤魔化しが少なくない。この点、我々キリスト者は心して、「生まれ変わり」を考えなければならない。すなわち、「生まれ変わり」という教理があるため、その言葉をキリスト教では割合安易に言ってのける。教会の中には「生まれ変わり」という言葉が一般社会でよりもズッと安価に用いられるのが通例ではないか。それによってキリストの約束したもうた生まれ変わりが空洞化していることはないのか。
 ニコデモは聖書のことに通暁しているはずの学者でありながら、「生まれ変わり」を受け入れることが出来なかったのを、物分かりの悪い頑固なパリサイ人よ、と侮蔑感を抱きながら見る人が我々のうちにあるかも知れない。だが、そういう見方は避けた方が良いであろう。
 4節の言葉で分かるように、ニコデモは「生まれる」とは母の胎から出ることだと考えていた。それでは足りないのであるが、母の胎からただ一度生まれ出ること、本来人生はやり直しのきかない一回限りのものであることを、先ずシッカリ押えて置く必要があろう。つまり、我々の間で「生まれ変わり」が軽々しい合言葉として語られて、実りなしに終わることのないためである。
 ヘブル書9章27節に、「一度だけ死ぬことと、死んだ後裁きを受けることが人間に定まっているように、キリストもまた、多くの人の罪を負うために、一度だけご自身を捧げられた後、彼を待ち望んでいる人々に、罪を負うためではなしに、二度目に現われて、救いを与えられる」と言っている。ここで三つのことを捉えなければならない。
 第一は、我々の人生が一度しかないように、キリストもただ一度十字架に架かりたもうたという、一度限りの人生と一度限りの十字架の相即また結合の関係である。我々の人生は一回きりであるとともに、彼は二度とは十字架につけられたまわず、二度とは罪を負いたまわない。だから、第二に、この一度の人生の中で救い主との出会いをし、この生涯の中で、今日という日のうちに、救いのハイウエイに乗らなければならない。またの機会があるだろうという考えでいては、キリストとの出会い、キリストへの回心が成り立たない。
 もう一つ、我々の信仰の人生の中身が、キリストの唯一度の贖いの御業に相即し、対応していなければならないことである。ヘブル書6章4節以下にある警告を思い起こそう。「一旦、光りを受けて天よりの賜物を味わい、聖霊に与る者となり、また、神の良き御言葉と来たるべき世の力とを味わった者たちが、その後堕落した場合には、またもや神の御子を、自ら十字架につけて晒し者にするわけであるから、再び悔い改めに立ち返ることは不可能である」。
 主イエスは「七度を七十倍するまで赦せ」と命じたもうた。すなわち、我々に兄弟の罪を赦すことを命じただけでなく、むしろその根底にある我々自身の受けた赦し、我々はそれ以上に繰り返し赦されるということをここで学ばなければならない。だから、信仰生活が何度も何度も挫折することがあっても赦される。それなら、ゴルゴタの一度の十字架では足りなかったかのように、キリストを何度も何度も十字架につけることになるのか。それは出来ない。何度も繰り返されねばならないような十字架では、救いの力が不十分だということを考えれば明らかではないか。
 キリスト教は確かに生まれ変わりの教えとその実行なのであるが、この生まれ変わりを軽く考え、何度もやり直しが出来ると甘く見て、一回きりの生を生きるという姿勢を崩してしまっては、謂わば受信機の波長が合っていないのと同じであって、キリストの命と恵みは、本来の命と恵みとしては、私に届かないのである。
 だから、母の胎から出ることによって一たび始まり、死によって閉じられる人生を、ないがしろにしないように生きよう。ただし、今言っているのは、福音以前のことである。ニコデモが我々の模範として示されているわけではなく、彼は矢張り「生まれ変わり」ということを捉え損なった失格者なのであるが、ニコデモほどの真面目さもないまま、キリストの前に現われる者に、本当に救いがあるかどうかは、よく考えて見るべきであろう。
 しかし、ニコデモ以上に真摯な生き方を求めなければならないという意味に取っては、我々が今学んでいる教えは意味をなさなくなる。ニコデモの求めた道と違った所で我々は救いに与る。すなわち、「上より」の生まれ変わりによる救いである。
 そこで、主イエスは上から生まれ変わるとはどういうことなのかを説明したもう。5節
、「よくよくあなたに言っておく、誰でも、水と霊から生まれなければ、神の国に入ることは出来ない」。
 これは、解きほぐして見るならば、霊によって生まれ変わった者となり、生まれ変わったことの識しとして水のバプテスマを受けて固くされる、という二重のことの複合である。霊と水が合作して人を生まれ変わらせるというのではない。まして、霊によって達成出来ない時は水によって補われるという意味ではない。「水から生まれる」ということを文字通りに取るべきではない。水をくぐって立ち上がったところで人間は新しくならない。水は物理的な汚れを洗い流すだけである。その汚れはまた繰り返されるから、また洗わなければならない。しかし、水のバプテスマは一度だけで繰り返しはない。それは水のバプテスマが通常の沐浴と同列のものでなく、一回限りの再生の証しになっているからである。
 今述べた解釈の他に、「水と霊」の「水」とは「御霊」のことである、という解釈がある。7章38節に「私を信じる者は、聖書に書いてある通り、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」と言われ、その注釈として次に「これはイエスを信じる人々が受けようとしている御霊を指して言われたのである」とあるところが根拠になる解釈である。これが正しいかも知れない。しかし、ここでは水と霊は同一物と見ない方が良いであろう。創世記1章2節に「神の霊が水の面を覆っていた」と言われるところにあるように、水と霊とは別である。ヨハネ伝でも、1章の29節から34節までのところで、バプテスマのヨハネが自分の行う水のバプテスマと、キリストが授ける霊のバプテスマとの対比を示しているから、水すなわち霊という解釈には無理がある。
 「上から生まれる」と先に言われたのは「御霊によって生まれる」と言い直される。6節に「肉から生まれる者は肉であり、霊から生まれる者は霊である」と言われるように、肉における生まれ変わり、例えば、母の胎に入って生まれ直すというような出生は、生まれ変わっても肉である。そして肉に属している限り神の国を見ることは出来ない。 肉から生まれることと、霊から生まれることとの絶対的な違いが示されるが、霊と肉が相反するものであると考える必要はない。我々は肉によって生まれた一つの生を生きながら、霊によって生まれ変わったもう一つの生を生きるのである。この二つは混同されない。
 では、御霊によって人が生まれるとはどういうことか。御霊の力によって新しい人間が造られることである。これについては旧約聖書が豊富な約束の例を示す。例えば、エゼキエル書37章の有名な骨の谷の幻である。枯れた骨に向けて御言葉が語られると、骨が連なって肉がつき、皮がはり、人間の形が出来る。しかし、まだそこに息はなく、命はない。そこで、預言者は息に預言して、「息よ、四方から吹いて来て、この殺された者たちの上に吹き、彼らを生かせ」と言う。すると息が体に入って、人々は立ち上がって大群衆となる。この息は御霊の息吹である。
 これはエゼキエル書の少し前の36章25節以下に「私は清い水をあなた方に注いで、全ての汚れから潔め、またあなた方を全ての偶像から浄める。私は新しい心をあなた方に与え、新しい霊をあなた方の内に授け、あなた方の肉から石の心を除いて、肉の心を与える。私はまたわが霊をあなた方の内に置いて、我が定めに歩ませ、我が掟を守ってこれを行なわせる」と言われているのと趣旨は同じである。イザヤ書44章3節には「私は乾いた地に水を注ぎ、干からびた地に流れを注ぎ、わが霊をあなたの子らに注ぎ、わが恵みをあなたの子孫に与える」と約束される。
 創造の時に働いた全能者にして創造主なる御霊が、新しい人を造るということを我々は素直に受け入れることが出来るであろう。だが、我々がここで学ぶのは、御霊による生まれ変わりだけであろうか。そうではない、すでにヨハネ伝1章17節に「律法はモーセを通して与えられ、恵みとまこととはイエス・キリストを通して来たのである」と証言された。イエス・キリストによって新しい人間になるのである。
 人が新しく、上から生まれるのは、上から与えられる御霊によるのであるが、13節に「天から降って来た者、すなわち人の子」という言い方がなされる。すなわち、上から来たキリストによって新しく生まれるということを読み取らなければならない。IIコリント5章17節に「誰でもキリストにあるならば、その人は新しく造られたものである」と言われる通りである。生まれ変わりを理解する鍵はここにある。
 ヨハネ伝6章51節に「私は天から降って来た生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。私が与えるパンは、世の命のために与える私の肉である」と言われる。上からのパンであるキリストを受け入れ、それを食べることによって人は新しく生き、キリストによって養われる。では、御霊によって新しく生まれることとキリストに生きることとはどういう関係になるのか、それは、御霊によってキリストと結びつき、キリストによって生きるのである。御霊がなければキリストは遥か彼方に留まっておられる。御霊によって、キリストが我が内に住みたもうことが起こる。
 神の国に入ることに関する限り、キリストによって、また御霊によって、新しく生まれるということが肝心の点である。それと比べるならば、水のバプテスマを同等の重要事として教えられたのではないと理解して良いであろう。しかし、ニコデモのような入門以前の人にも「水と霊とによって」と教えられたのであるから、我々が水によってというくだりを無視することは正しくない。
 先にヨハネ伝6章から引いた、「私は天から降って来た生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。私が与えるパンは、世の命のために与える私の肉である」という言葉でも、直接に聖晩餐の制定ではないが、聖晩餐の礼典に大いに関係があることは容易に分かる。我々はキリストの肉を食べ、それによって生きることをこの聖礼典の中で確認することが出来る。バプテスマもそれと同じである。「生まれ変わり」ということが空しい慣用句にならないために、我々には確認と修練がこの識しによって課せられているのである。1999/11/14

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