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ヨハネ伝講解説教 第22回

――2:23-25によって――

 今日学ぶ要点は「イエスご自身は彼らに自分をお任せにならなかった」というところと、それに付け加えて、理由をあげるところである。ユダヤ人たちが主イエスを信じたにも拘わらず、主イエスはその信仰を黙殺したのである。我々が「信仰、信仰」と得意になって歌っていても、主がそれを拒絶したもう場合があるかも知れない。そうでないことを、どうすれば確かめることが出来るかを学びたい。
 我々の信ずる主は、イザヤの書に「傷ついた葦を折ることなく、ほの暗い灯心を消すことなく」と記される通り、我々の信仰が折れた葦、消えかかった灯心のような、極めて脆弱なものである時にも、これを受け止めて下さる、と教えられ、我々は慰められている。これは確かな教えであるが、今日教えられることもそれに劣らず真実であって、我々が「主よ信じます」と言っていても、主は「私はお前を知らない」と答えたもう場合がある。
 第一に、我々が主導権を握るのではないということを弁えたい。我々に決定権があって、「われ信ず」と言えば、大転換が起こって、何もかも解決するかのように安易に空想してはならない。我々が「われ信ず」と言うとき、主が我々を受け入れて下さらないなら、滑稽というよりは悲惨である。
 6章の37節に「父が私に与えて下さる者は皆、私に来るであろう。そして私は私に来る者を決して拒みはしない」と言われる。同じことを、6章65節には「父が与えて下さった者でなければ、私に来ることは出来ない」と言われる。主導権が神にある。神の側で決定し、それ故、神の定めたもうたように成って行く、ということを忘れてはならない。
 第二に、「信ずる」という言葉について、考えてみよう。24節の「自分を任す」というところに「信ずる」という動詞が用いられている。23節の「多くの人がイエスの名を信じた」というところと同じ動詞である。人々はイエスを信じたが、イエスは彼らを信じたまわない、というのである。新共同訳ではここを「信用されなかった」と訳している。人々は彼を信じても、彼は人々を受け付けず、信じたまわなかったというのか。 そうではない。「信仰」と呼ばれ、本人も信じたつもりであっても、本当の信仰ではなく、主がそれを信仰とは認めたまわない場合があるのを今日学ぶのである。
 ここで、我々が普段あまり考えなしに使っている「信じる」という言葉について、やや掘り下げた考察を加えることは無駄ではないと思う。
 先ず、初歩的な言葉の問題であるが、我々は普段、日本語で「私が何々を信ずる」という言い方をする。日本語ではこうとしか言えないのだから、この言い方が間違いだと決めつければ、我々は信仰を言い表わす言葉を失ってしまう。だから「何々を信じる」という言い方を取りあえず使うほかない。しかし、この言い方では言い表し切れていないものがあるということに今気付き始めているのである。
 「何々を信ずる」という言い方は、「何々を考える」、「作り出す」、「選択する」、「壊す」、「疑う」などと同列の姿勢を我々に取らせることに成りがちではないか。つまり、私が主体で、だからシッカリしなければならない。私が信ずるもの、神は客体である、という思い込み、またそこから来た思い上がりの姿勢があるのではないか。
 聖書の原語で言っている「信じる」の対象、所謂「目的語」は、「何々を」ではない。日本語には成りきれないのであるが、「何々に」、「神に」である。
 「神に信じる」とは言えないから、その場合は「神に自分を任せる」という言い方になる。実際、キリストを信じるとは、自分の持つ全てと自分自身の存在の一切を、キリストに「任せる」ことである。キリストを選ぶことも出来れば、捨てることも出来るという立場にはないのだ。
 ところが、このことが分かっていない場合が多い。一切を任せるどころか、何も捧げず、神を利用し、利用価値がなくなると神を忘れ、神を捨てる。これが平然と行なわれるのは、「神を信じる」という言い方以外を知らないところから、自分が主体であり、神が客体であると何となく思い込んだところに由来したのかも知れない。神が主体なのである。
 もっとも、我々の不信仰を日本語のせいにするのは、卑怯な責任転嫁であるだけでなく、理論としても間違っている。「信ずる」ことに関して、日本語よりもう少しキチンとした言い方をする言語の国民の中にも、信仰についての全く好い加減な態度が沢山見られるからである。そういうわけで、日本語の「何々を信ずる」という言い方をめぐる議論はこれで打ち切る。
 それよりは、「信じる」という言葉で表わす事態、在り方、生き方、これが何であるかを考えよう。信ずるとは精神的な事柄であると一般に言われ、それは必ずしも間違っていないが、単に精神や知性の領域のことと思ってはならない。「信ずる」という言葉は、場合によっては「信用する」、「任せる」、「預ける」と訳した方が良いのである。つまり、人生をそこに預けるのである。それだけ身を打ち込む関わり、これが信仰である。
 言葉としては、今見たように意味が展開するが、神との関わりにおいては、信ずるとは献身であり、服従であり、神と共に生きることであり、全生活を挙げての告白であり、讃美であり、御旨にかなう務めのための修練である。また、これらのことの意味がバプテスマの中にこめられることも見て置く必要があろう。
 さて、今日与えられている聖句から学ぶことの第一は、信じるには信じたが、不適切な信じ方であった実例である。
 22節、「過ぎ越しの祭りの間、イエスがエルサレムに滞在しておられたとき、多くの人々は、その行なわれた識しを見て、イエスの名を信じた」。――ユダヤのしきたりを忠実に守って、主は過ぎ越しの祭りの間、一週間エルサレムに留まっておられた。
 主イエスが識しを行なわれた実際の状況はここに書かれているだけでは分からない。エルサレムにおいてであったこと、過ぎ越しの祭りの期間であったこと以外は分からない。滞在というのは祭りの期間と同じことを指すとも考えられるが、祭りに来ている群衆のうちにあってという意味だと解釈する人もいる。そうだとすれば、宮に来ている群衆の中で識しを示したもうた。その「識し」とは、病を癒す奇跡であったと取るのが自然であろう。癒しの奇跡としては、5章に、38年間寝たきりになっていた病人のベテスダの池における癒し、9章に生れながら目の見えなかった人のシロアムの池における癒しが詳しく書かれているが、それ以外では識しがあったことだけしか記録されていない。この二つは特別な例であったらしい。そしてヨハネ福音書は奇跡の模様を描くことに興味を持たなかった。
 3章に主イエスを夜訪ねて来るニコデモの記事があるが、この老学者は奇跡を見て非常に感動した。4章45節には「ガリラヤに着かれると、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した。それは、彼らも祭りに行っていたので、その祭りの時、イエスがエルサレムでなされたことを悉く見ていたからである」と書かれているが、これは今23節で読んでいる識しのことである。
 3章の22節には「こののち、イエスは弟子たちとユダヤの地に行き、彼らと一緒にそこに滞在して、バプテスマを授けておられた。……(中略)……人々が続々とやって来てバプテスマを受けていた」と書かれているが、過ぎ越しの祭りの後、主イエスはエルサレムを去ってユダヤのどこか水のある場所に行かれた。人々は奇跡を見たから、追って行ってバプテスマを受けたのであろう。エルサレムで、奇跡に接して、イエスの名を信じ、ついて行ったのであるから、受けたバプテスマはイエスの名によるバプテスマであったのではないかと思うが、ここは良く分からない。
 「イエスの名を信じた」。これはどういうことであろうか。1章12節に「しかし、彼を受け入れた者、すなわち、その名を信じた人々」という言葉があったのを思い起こせば、「名を信じる」とは彼を受け入れることである。「名」を信じるとは、聖書にしばしば読むように、「それ自体」を信じることである。簡単に言えば、イエスを信じた。
 エルサレムで先ず宮潔めをされ、指導層と真っ向から対立されたが、祭りにきていた群衆は識しを見て彼を信じ、彼を取り巻いて守ってくれたということかも知れない。
 では「名」という言葉には意味がないと見て良いのか。「その名によってバプテスマを受ける」という言い方がキリスト教会にある。これはキリストの主権のもとにという意味を表わすとともに、キリストの支配のもとに入って行く、キリストを主と唱えてバプテスマに与るということを意味している。つまり、奇跡を行なう霊能者を見て、驚き、感服するという以上の、もっと本格的な信仰に近いものであったであろう。エルサレムで信じた人たちが、その場でキリストの名を告白して、バプテスマを受けたということではないが、名を唱えることはあったのではないか。要するに、ここにはいかがわしい信仰ではなく、本物のように思われる信仰が表明されたと取るべきである。
 実際例から考察すると、信じた多くの人の中に、パリサイ派の指導者ニコデモも含まれると考えるほかない。そのニコデモは3章2節で言う、「先生、私たちはあなたが神から来られた教師であることを知っています。神がご一緒でないなら、あなたがなさっておられるような識しは、誰にも出来はしません」。つまり、「この方は神から来た教師である」と信じた。したがって、この教師から教えを受け入れよう、という意味のようである。
 ただ、それ以上のことは信じなかった。3章12節に主イエスはニコデモに「私が地上のことを語っているのに、あなたがたが信じないならば、天上のことを語った場合、どうしてそれを信じるだろうか」と言われ、ニコデモが本当の信仰に参入出来ていないと指摘しておられる。ニコデモはある程度信じて訪ねて来たが、結局去った。信じるには信じたのだが、曖昧なものを多く残したままで、そこを越え出ることが出来なかった。エルサレムで信じた人のうち、最も進んでいたのがニコデモであったが、彼も本当の信仰に達していない。他の多くの人はましてそうであった。名を信じることがいけないという意味ではないが、キリストの名を唱えたとしても、この場合はそれが一時的なものであった。死に至るまで貫く信仰でなく、その時だけ信じた信仰であったということが指摘される。
 それともう一つ、ヨハネ伝では「信じる」という言葉を、最も大事な言葉ではあるが、警戒して使っていることに注意したい。すなわち、信じたとしか言いようのない姿勢でありながら、一時的なものとして終わり、持続せず、救いに結びつかない場合があるのだ。それでは、「信ずる」よりももっと確かなものは何か。それは「知る」こと、「とどまる」ことである。6章68-69節のペテロの告白は、「主よ、私たちは、誰のところに行きましょう。永遠の命の言葉を持っているのはあなたです。私たちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています」となっている。「信じる」ことを「知る」ことによって強化しなければならない。17章3節、「永遠の命とは、唯一のまことの神でいますあなたと、また、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです」と言われる。「とどまる」と言ったのは口語訳聖書では15章4節に「繋がる」と訳しているが、1章39節で見たように、キリストに留まることである。留まらなければ本物でない。
 「信ずる」ことのこのような不十分さは、奇跡を見て、これを「識し」として受け入れているに過ぎない実情と関係がある。4章の48節に「あなたがたは、識しと奇跡を見ない限り決して信じないであろう」と言われるが、これは非難の意味を含んでいる。本当は、言葉を聞いて信じるのであるが、彼らは言葉を聞かない。識しを要求する。したがって、識しを見ると、信じないわけに行かないから、信じる。信じて知ることはここにはない。
 また、その信仰は持続しない。信じているつもりの今、信じて心は大いに昂揚しているが、続かないのである。
 そこで言われる。「しかし、イエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった」。 本来なら、人々が彼の名を信じたのに対応して、彼も人々にご自分をお任せになる。だがそうでなかった。先程も言ったように、「信ずる」という言葉が、我々からキリストに向けてと、キリストから我々に向けてと、両面で用いられる。本来はこの両面があるということをヨハネ伝のこの個所は示唆している。
 もっと簡単に言うならば、私がキリストに自分自身を差し出し、キリストが私にご自身を与えたもう、という相互の交わりがなければならない。ところが、これがなかった。信じたつもりの人々がいただけである。謂わば、天に届かない梯子を掛けたようなものである。高い所に上ったつもりであっても、天国には行けなかったのである。
 主イエス・キリストがご自分をお任せにならなかった理由が次に述べられる。「それは、全ての人を知っておられ、また人について証しする者を、必要とされなかったからである。それは、ご自身、人の心の中にあることを知っておられたからである」。
 人々が信じたことは嘘でなかった。偽って、信じたかのように振る舞ったのではない。偽って、信じた振りをするという場合があるのを我々は知っているが、これがそうだと見るのは当たらない。彼らは、この場に関する限りは、本気で信じたと言うほかない。それにしても、彼らの信仰は「一時的」であった。それを主イエスは見ておられる。
 ここに、彼が「神の子」、「全能者」であられることが示されている。我々もある程度経験を積めば、本物と偽物の区別をつけることが出来る。つまり、微かであっても、偽物であることを示す識しがあって、見破ることが出来、欺かれないからであろう。口で言うことと、実際の振る舞いが食い違っているならば、偽物ではないかと疑うのは当然である。エルサレムで信じた人々の中にこういう人もいたであろう。
 しかし、信仰が本物か偽物かが、見たところでは分からない場合が多い。人間には見抜けないのだ。だから、その人が「信じる」と言い、誓約する時、本当に信じたのかどうか検討を加えてみて、言葉に偽りがあると思われないなら、その人を信仰者として、したがって兄弟として受け入れるほかない。後日になって、その人の偽りが露になることもある。人間の能力の限界は超えられない。本人もその時には信じていると思い、人を騙すつもりではなかった。我々の間ではそうなのだ。だから我々は謙遜でなければならない。主に代わって判定を下してはならない。明らかに本物でないと分かっている時でも、こののち本物に変わる機会がないとは言えない。だが、キリストはそうではない。彼は人の内にあるものを見ておられる。外側が真実であっても、内側が真実でない場合がある。この後どうなるかも見ておられる。それを見抜くのは神である主だけなのだ。
 「あなたがたは信じると言っているが、あなたがたの信仰は偽物だ」と、ハッキリ厳しく申し渡すことはなく、ただ、ご自身を任せることはされない。それを弟子たちは見ていた。それ故に、我々は主が我々にご自身を任せておられる事実を掴まなければならない。実際、我々が繰り返し見ているように、主はご自身を我々に差し出しておられる。だから、我々も彼に己れの一切を差し出すのである。こうして、昨日も今日もとこしえまでも変わることなき主によって、我々も昨日も今日もとこしえまでも変わらない信仰の歩みを貫き通すのである。

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