2004.12.05.


ヨハネ伝講解説教 第210回


――21:24-25によって――

 

 「これらの事について証しをし、またこれらの事を書いたのは、この弟子である」。………ヨハネの福音書の結びはこの言葉で始まる。書いた者の責任を明らかにするために、こう言ったのである。誰が言ったか、誰が書いたかは、それほど大事なことではないではないかと言われる。語られ信じられた事柄こそがもっと重要ではないか。それはその通りである。誰が語ったかで有難味が違うというような受け取り方をするなら、信仰の確かさと救いの確かさは伝えてくれた人に依存した不確かなものになる。
 救いを伝えた人が救いの基礎だと思ってはならない。伝えた人は道具に過ぎない。道具であるから、もし、使っている途中で具合が悪くなれば、道具を破棄して新しいのと取り替える。だから、務めを帯びた者は託された機能を果たす責任がある。その責任が明らかにされるために、その名を書いて置く場合が多い。
 口から口へと信仰者の間に伝えられて来たところにしたがって、初めに伝えた証し人はゼベダイの子ヨハネだということが分かるだけで十分かも知れない。また、由緒は分からないが有り難いものだ、と教えられるだけで良い場合もあろう。が、ヨハネ伝は誰が書いたかを明確にする意識を持つ点で福音書の中で際立っている。なお、「これらの事」というのは、ここまでに書き連ねられたこと、イエス・キリストの事実である。
 「これらの事について私は証しをした。そしてこれを書き上げた」と言うのである。証しをしたというのは、人々の前で証言したということである。書く前に、あるいは書きつつであったかも知れないが、証言をした。その証言というのは口でする証言であった。証拠物件という物がある。物でも証しになるが、人による証言は口頭で行なわれる。その証言が書かれたのである。証言された言葉と、書かれた言葉とが一致している。
 おそらく、彼が「証言」と言っているものは「説教」の形で行なわれたと見るべきであろう。(「説教」と言ったが、説教とは何であるべきかという話しをするのではない。普通「説教」と呼ばれ、集会の中でなされる話しについて、その形式について論じるだけである。)ヨハネ伝福音書が説教だったと、これを読む多くの人は感じている。他の福音書も説教の要素、宣教的な性格を備えた文書であるが、説教そのままではないであろう、一回の説教としては短すぎる文章が一つのユニットになっている。それと比べると、ヨハネ伝はもっと長いパッセージが1回の話しになっている。
 今日では説教に先立って聖書のテキストが朗読され、そのテキストに即して説教が語られるという形が決まっているが、初期のキリスト教会においてはそうでなかった。新約聖書はまだなく、せいぜい書かれている途中であった。礼拝の中で読み上げられるのは旧約聖書であった。イエス・キリストがナザレに行かれ、安息日に会堂で先ず聖書朗読をし、それはイザヤ書であったが、それから、「この聖句はあなた方が耳にしたこの日に成就した」という言葉で説教を始めたもうたことを、ルカ伝4章で読んでいる。これが使徒時代の礼拝説教の原型であると我々は考える。旧約聖書が先に読まれ、次に「この約束は、あるいはこの預言はイエス・キリストによって成就した」と宣言し、キリストの事実を解き明かす説教が行なわれた。そういう説教としてヨハネ伝が語られた。
 説教の形は昔と今とでは違う。今日の形は世の終わるまで、変わらず守られるものであるが、初めからこの形式であったと考えては間違いである。基礎はキリストによって据えられたのだが、形はその後で整えられた。その説教を「証し」と呼ぶことは今一般にはしない。今では、「説教」と「証し」とを切り離すのが慣例になっているかも知れない。すなわち、説教をする資格を持つ人がすれば、説教であり、その資格のない人が語れば、証しというのが通例かも知れない。そのことについて今はこれ以上論じない。大事なことは、何と呼ばれるかではない。それが証しとしての機能を持たなければ話しにならない。証しとしての機能というのは、聞く者を信じさせ、信じて救いに至らせることである。思い出話を聞かせられるだけで、それが証しであると言われたり、説教者がどこかの本で読んだことを語っているだけのお話しが説教であると呼ばれることが良いか悪いかの議論で今時間を潰すことはしない。
 今、証しという言葉について、また証しの機能について触れたのであるが、ヨハネ伝でこの言葉が重要な意味をもって繰り返し語られて来たことを、この福音書の説教の最終回に当たって、思い起こし、再確認して置くことは有意義である。
 この福音書の1章、序言が終わって、先ず、6節以下の聖句で聞いたのは、「ここに一人の人があって、神から遣わされていた。その名をヨハネと言った。この人は証しのために来た。光りについて証しをし、彼によって全ての人が信じるためである。彼は光りではなく、ただ、光りについて証しをするために来たのである」ということであった。それが重要な教えであることは言うまでもない。ヨハネ伝は最初にゼカリヤの子バプテスマのヨハネの証しを語り、結びの言葉でゼベダイの子ヨハネの証しについて語っている。
 なぜバプテスマのヨハネのことが初めに出て来たのか。それはこの証言を聞く人々のうちに洗礼者ヨハネのことを知る人、あるいはその感化を受けた人がかなりいたからである。具体的にどうかという説明は、ここでは簡単に済ませる他ないが、使徒行伝18章の終わりから19章にかけて、エペソの教会の初期の事情が語られている。初期の伝道者のうちにアポロがいて、アポロはバプテスマのヨハネの感化を濃厚に受けた人だということが分かる。アポロの教理的偏向はその後パウロが来て是正したということもそこでわかる。このエペソを中心に晩年のヨハネが7つの教会を一団の教会として組織し、指導したことは、黙示録の初めの部分で分かる。その時に、アポロを通じてのバプテスマのヨハネの感化がエペソ付近に残っていたと言うのではないが、ヨハネの感化がキリスト教の初期の伝道の時に残っていたことは十分分かる。
 ヨハネ伝1章に話しを戻すが、ここに証しに関して知るべき最も重要なことが語られている。第一は、神から遣わされて証しをするということである。たまたまそこにいたために、世紀の大事件の目撃証人になったというケースがある。こういう場合、本当の証し人ではないと言うのではない。事件に居合わせたなら証人になれる。しかし、今問題にしている救いに関わる証しとは意味が若干違うのではないか。例えば、裁判の場合、たまたま事件の起こった所にいた人が証人として呼ばれる。初めから一方に傾いた証言をすることがあるかも知れないが、証人に対しては反対尋問がなされるのであるから、偏ったことしか言わないということにはならない。事実を偽りなく証言すれば、その証しは真実の証しである。が、神が明白に証しさせる使命を授けて遣わされる場合がある。
 第二に、この証し人は「彼によって全ての人が信じるため」という目的を持っている。証しによって、事実が事実であることは動かせなくなる。普通の場合、人々はその事実を判断材料に用いる。だから証言よりも、証言を聞いて判断することを上位に置く。しかし、神が証し人を遣わして証しさせたもう時、それは「全ての人を信じさせる」ためである。普通の証言は聞く人の判断を曲げることがないように、中立を保たねばならないと言われる。本当にそれで良いのかと問う余地はあるが、一応、それで良いとして置く。しかし、人を救いに至らせる信仰に関しては、中立的というようなことを軽々しく言ってはならない。神が遣わされた証し人が来ているのである。その証し人は信じさせる言葉を語る。
 証し人が、この証言を聞く人の救われることを願って語るのは当然であるが、証言によって信仰が呼び起こされ、救いに至る、これが確定したコースしかないと考えてはならない。イザヤ書6章のイザヤの召命のくだりで学んだように、預言者が遣わされて語っても、語ることが救いを齎らす道なのではなく、語る事によってむしろ救いの道を閉ざすのである。それと同じように、遣わされた人が証しをすることが、救いの道を断ち切る処置である場合がある。しかし、今その問題は脇に置いて話しを進めて良いであろう。証しによって信仰が立ち上げられ、前進させられることについて我々は教えられている。
 ヨハネは19章34-35節で言う。「しかし、一人の兵卒が槍でその脇を突き刺すと、すぐ血と水とが流れ出た。それを見た者が証しをした。その証しは真実である。その人は自分が真実を語っていることを知っている。それは、あなた方も信ずるようになるためである」。ここでも、見て証しをするのは主の愛された弟子である。彼は見たことを語って、信じさせようとする。そのように証しから信仰に至る道についてだけ今は学べば良い。
 使徒ヨハネは、いま引いた福音書19章34-35節との関連で、第一の手紙の5章7節で「証しをするものが三つある。御霊と水と血である」と言う。「見た者が証しする。それはあなた方も信ずるためである」と19章では言う。これは「私の証しによってあなた方は信仰に至るべきである」という主旨のもとに語られたと取るほかないであろう。ところが、第一書簡では、私が証しするとは一ことも言わない。信仰に至らせる証しは御霊と水と血であると言う。見た者が証しするのは当然であるが、その証しが有効に働くのは御霊が受ける人のうちに働き、水、すなわち洗礼の水であるが、イエス・キリストの潔めに与らせるものがそこに示される。さらに血が証しするというのは、「皆この杯から飲め。これはあなた方のために流す私の血である」と言われたところに示される血である。
 人が証しすることよりも、人をして証しさせるものに重点を置かねばならない。だが、そこからもう一度、力ある証しをなさしめる御霊が、証しをする人に働く力について考えることに戻って来なければならない。これについて使徒パウロの言葉の引用が適切である。ヨハネもパウロも同じことを言っているのである。Iコリント2章の初めで言う、「兄弟たちよ、私もまた、あなた方の所に行った時、神の証しを宣べ伝えるのに、優れた言葉や知恵を用いなかった。なぜなら、私はイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなた方の間では何も知るまいと、決心したからである」。そして、その直ぐ後に、「私の言葉も私の宣教も、巧みな知恵の言葉によらないで、霊と力との証明によったのである。それは、あなた方の信仰が人の知恵によらないで、神の力によるものとなるためである」と言った。
 このコリント前書の言葉については、詳しい解き明かしを省略しても大意は十分明らかである。信仰に至らせる証しは御霊の力によるのである。先ほど言ったように、それが真実であると証明する物件とは違って、証しは信仰への決断を迫る迫力を持っている。その力は人間の持つ感化力ではなく、御霊の力である。
 証しについてヨハネ伝の中で述べられたことを全部取り上げることは時間的に無理であり、今はそれをしなければならないということではない。だから、ごく一部しか語らない。イエス・キリストご自身が自分の語る証しについて、また御父が御子について立てたもうた証しについて語られたことも重要であった。しかし、今日は人間がキリストにつて立てる証しについてだけに的を絞ることにする。
 バプテスマのヨハネの証しと、ゼベダイの子ヨハネの証しを思い起こす時、この二人とも殺されたことを思い起こすであろう。それが非常に重要なことであったと見るのは差し控えた方が良い。殺されなければ本当の証しを立てたことにならないと言うなら、ここでは確かに間違いである。主イエスは、血を流すことによって証しをせよとは命じておられない。
 しかし、証しのために命を捨てなければならない場合が時としてあったことは確かである。「この人は証しのために来た」とバプテスマのヨハネについて書かれていることは、ヨハネの死を指すのであるという解釈もある。先に21章19節で見たように、ヨハネはペテロの殉教について特別な関心を持っているらしい書き方をしたが、彼自身も殉教した。そして「この弟子は死ぬことがない」と言われる噂が間違っていると言う時、本当は主の愛したもうた弟子も死ぬのだ、と言おうとしたように思われる。つまり、ヨハネが「証し」という言葉を語る時、殉教の意味を滲ませていると読むことの出来る場合が多い。
 彼の最後の書は黙示録だが、その2章13節に、ペルガモの教会に宛てて「あなたは私の名を堅く持ち続け、私の忠実な証人アンテパスがサタンの住んでいるあなた方の所で殺された時でさえ、私に対する信仰を捨てなかった」と書かれている。アンテパスについては全く分からないのであるが、殉教者であることは確かである。ただし、「忠実な証人」と言われた時、これは殉教したから忠実な証人と言われるということなのか、それとも、以前から忠実な証しを立てていたという意味か、その両方の意味を総合している意味なのか確定はしにくい。
 そこは確定しなくて良いのではないか。証しと言うからには血を流さなければならない、と意味を限定するのは問題である。殉教の勧めを言い過ぎるのは間違いである。殉教が強調され過ぎる時、必ず人間の功績、その功績への讃美がなされ、キリストの恵みにより、信仰にのみよる救いが見失われてしまう。それどころか、忌まわしい自己宣伝になって、神の栄光を損なってしまう。
 しかし、殉教ということをもう考えなくて良いのだと言ってしまうと、とたんに信仰は気の抜けたものになってしまう。死に至るまでの忠実さを忘れたキリスト教になる。だから、御旨であれば、キリストのために死ぬこともたじろがないとの覚悟は心に留めて置かねばならない。ただし、それを口に出して言うことは、出来るだけ控えて置くべきであろう。
 証しということは言い表わしである。信仰は言い表されるべきものである。けれども、その言い表わしには思慮深さを伴わせることが必要である。「証し、証し」と言っていては証しにならない場合がある。思慮深さが欠けると自己宣伝にしかならないのである。人に良く思われないことも、必要なら言わなければならないが、人の良く思うことについては、隠した方が良い場合がある。例えば、良き行ない、すなわち愛の業、これは行なわなければならないものであるが、努めて隠して、実行すべきである。後になってから現われでるのは已むを得ないことであるが、自分で意図的に宣伝してはならない。
 信仰の証しのために自分の血を流すことは、聖書に示される多くの例で見るように、自己宣伝としては決して語ってはならない。その決意は自分の心に秘めて置くべきことであって、時が来たならば静かに実行される。誰も知らない所で殺されるかも知れないのであるが、人から知られないことが重大な損失だと思ってはならない。神は知っておられるし、最も良い処置をして下さる。
 証しということについて聞き取って置くべきことを見て来た。その証しがこの福音書によって我々に与えられたのである。それによって我々は信じた。そして、それによって救いに至るのである。

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