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ヨハネ伝講解説教 第21回

――2:17-22によって――

 主イエス・キリストが、公に、ハッキリとご自身を現わされたのは、エルサレムにおける宮潔めが最初の機会であった。彼は神の宮を商売の場にすることを禁じ、少年の日にルカ伝2章49節で一度言われたように、宮を「私の父の家」と呼びたもうた。これは、ご自身が「神の子」であることを宣言し、また、神礼拝を律法が規定する以上に規定し、むしろ根拠付け、したがって礼拝を粛正する権威ある者として、ご自身を示されたものである。
 彼はそれまで限られた人にしか知られていなかった。先ずバプテスマのヨハネ、そしてヨハネから示されて、主イエスの後に従った弟子たち、その弟子らが連れて来た友人たち、ガリラヤのカナにおいて最初の識しを見た人たち、それだけであった。
 これら、限られた人たちは信じたのである。しかし、宮潔めにおいてご自身を公に示したもうた時、信じた人はいなかった。
 多くの人が信じなかった事情について、二つのことを考え合わせて置きたい。一つは、22節に「イエスが死人の中から甦った時、弟子たちはイエスがこう言われたことを思い出して、聖書とイエスのこの言葉とを信じた」とある点である。すなわち、主イエスの復活を力としてまた事実として体験するまでは、この言葉の意味が分からなかったし、信じられなかったのである。だから、我々も復活の主と出会わなければならない。
 第二に、これは次回に学ぶ個所であるが、エルサレムで「多くの人が、その行なわれた識しを見てイエスの名を信じた」と23節に記されている点である。彼らは奇跡を見た時は信じたのである。しかし、奇跡ではない宮潔めの事実を見た時は信じなかった。反発を感じたということでは必ずしもない。むしろ、ある共感をもって見ていた民衆も多数いるはずである。だが、イエスに共感するということと、彼を信じることとは全く別である。
 今日は17節以下を学ぶのであるが、先ず「弟子たちは『あなたの家を思う熱心が、私を食い尽くすであろう』と書いてあることを思い出した」と記されているのを読む。
 これは詩篇69篇の言葉である。弟子たちはその聖句を記憶の中から思い起こした。後日、主イエスから「詩篇69篇にこう書かれているのは私のことである」と教えられて知った、という事情ではないらしい。書かれている通り読むならば、「思い出した」のは、22節に書かれているような後日のことでなく、その場においてであると思われる。――しかし、十分納得出来る説明はつかないのであるが、22節に、「イエスが死人の中から甦ったとき、弟子たちはイエスがこう言われたことを思い出して、聖書とイエスのこの言葉を信じた」と言う時の「聖書」は、17節にある詩篇69篇の聖句を指すように思われる。だから、詩篇を思い出したのは復活の後にも跨がっている。
 「ダビデの歌」とされる詩篇69篇は、苦悩する義人の魂の歌である。ダビデが苦境の中でこの詩を詠んだのである。義人が苦しむという矛盾した現実がこの世にある。人々は義人が幸いを得、罪人が罪の報いを受けるのが当然であると考えている。しかし、実はその逆の場合が多い。聖書はこの現実を積極的に捉えて、義人の苦悩が神の御旨から外れた所で起こるのでなく、むしろ義人が苦しむことこそ神の御旨なのだと教え、数々の例証を示す。詩篇69もその一つである。そして、義人こそが苦難に遭うことの典型として、来たるべき義の僕であるメシヤの苦難を予告する。
 主イエスの弟子教育は、第一に旧約のテキストの本当の意味の解明であったから、この日以後の教育の中で、詩篇69篇について教える機会があったと考えるのは当然である。すなわち、詩篇69篇はキリストの苦難を預言するものだからである。
 ヨハネ伝15章25節を見ると、「それは、『彼らは理由なしに私を憎んだ』と書いてある彼らの律法の言葉が成就するためである」と主イエスは言っておられるが、これは詩篇69篇の4節で、「ゆえなく私を憎む者は私の頭の毛よりも多く、云々」とあるところからの引用である。
 同じくこの詩篇69篇の21節に「彼らは私の渇いた時に酢を飲ませました」とあるのを受けて、ヨハネ伝19章29節に、人々は酸い葡萄酒を海綿に含ませ、ヒソプの茎に結びつけてイエスの口元に差し出したこと、そして主はその葡萄酒を受けて「全てが終わった」と言われ、息を引き取りたもうたと述べている。この最期の場面については、いずれその個所になって詳しく学ぶのであるが、「全てが終わった」という言葉には様々の意味がこめられているが、その一つに、聖書に記されていたことがこれでスッカリ成就したという意味もあると考えられる。だから、旧約聖書のキリストの受難の証言は細部に至るまで重要視しなければならない。
 ところで、弟子たちがどうして詩篇のそれだけの深い意味を思い起こし得たのか。余程深い理解が前からあったのではないかと考える人もあろう。しかし、福音書に記された弟子たちの実態や語る言葉を考え合わせる時、彼らがこの時それほど深い理解力を持っていたわけではないと結論して差し支えない。だから、先に触れたように、主イエスによるこの後の教育の中で、この時に感じたことが整理され、強められたという面があったと考えざるを得ない。しかし、この時に、この場で、聖書のこの言葉を思い起こしたのも事実である。すなわち、彼らの理解力を越えた理解が注入された。
 それは何か。今、このことに深入りするゆとりはないのであるが、主がヨハネ伝14章26節で「助け主、すなわち、父が私の名によって遣わされる聖霊は、あなたがたに全てのことを教え、また私が話しておいたことを悉く思い起こさせるであろう」と教えたもうたところに問題を解く鍵がある。聖霊が弟子たちに降ることはこの後の出来事であると教えておられるのであって、受難、復活、昇天に先立って宮潔めの場で聖霊が降ったと言うのは、差し控えなければならない面があるが、聖霊は初めの時から自由にあらゆる機会に働いておられる。この時も働いたのである。
 纏めて言うならば、主イエスが宮潔めをなしたもうた時、弟子たちは18節以下にあるユダヤ人のような躓きはしなかったし、一般民衆のように無理解ではなかったが、自分自身の能力や、宗教的素質や、熱心さや、勉学のゆえに御言葉を思い起こすことが出来たのでなく、主イエスによる教え、旧約聖書の教え、聖霊の働きによる理解を考え合わせなければならない。
 「あなたの家を思う熱心が私を食いつくすであろう」と言う所は、詩篇本文では「私を食い尽くした」となっていた。このように書き直されたのは、弟子たちがこの詩篇を思い起こしたとき、過去形で言われていた言葉を未来形に捉えたからである。
 我々が「主の家を思う熱心」によって自分自身を破滅させねば本物でない、とここで強調する必要はないが、首なるキリストにおいて起こったことがその肢々において起こるのである。そして後でいよいよハッキリするように、主は滅ぼされても甦りたもうた。そのように、我々も神の家を思う熱心によって身を滅ぼすことがあっても、滅びの中に留まることはない。だから、熱心になり過ぎて身を滅ぼすことを恐れるには及ばない。
 さて、18節、「そこで、ユダヤ人はイエスに言った、『こんなことをするからには、どんな識しを私たちに見せてくれますか』」。
 「ユダヤ人」という言葉が主イエスに対する敵意を持つ者という含みをもって用いられていると以前に語って置いた。その含みが良く読み取れる最初のケースがここである。これがさらに露骨になったのを、5章18節で読むことが出来る。「このためにユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうと計るようになった。それは、イエスが安息日を破られたばかりでなく、神を自分の父と呼んで、自分を神と等しいものとされたからである」とある。
 ユダヤ人たちは「識しを求めた」。我々はここでIコリント1章22節の「ユダヤ人は識しを請い、ギリシャ人は知恵を求める」という言葉を思い起こさずにおられない。すなわち、識しがあればあなたが神の子であると信じるが、識しなしでは、あなたの言うことは冒涜である、というのである。この場合、後でヨハネ伝2章23節に出て来る「識し」と、18節にユダヤ人の求めた「識し」とを区別する必要があろう。主はエルサレムで多くの識しを行なわれた。しかし、それはユダヤ人らを満足させなかった。
 ユダヤ人の求めたのは、彼らが「天からの識し」と呼ぶものであった。思い起こすのはイザヤ書の一つの個所である。7章10節から12節に言う、「主は再びアハズに告げて言われた、『あなたの神、主に一つの識しを求めよ、陰府のように深い所に、あるいは天のように高い所に求めよ』。しかし、アハズは言った『私はそれを求めて、主を試みることをいたしません』」。アハズは識しを求めると、主を試みることになると知っていた。それは慎ましい態度のように思われるであろう。しかし、イザヤが叱責するように、この王は慎ましさの装いのもとに不信仰を誤魔化したのである。神が識しを差し出そうとしておられるのに、不信仰によって拒もうとしているのである。神は必要と見たもう時には識しを用いたもう。信仰を固くするためである。例えば、士師記6章でギデオンは二度に亘って識しによる確認をしている。
 今、見ている所では「識し」によって信仰を固くしようというのでなく、キリストを試すために識しを要求するのである。マルコ伝8章11節に「パリサイ人たちが出て来て、イエスを試みようとして議論を仕掛け、天からの識しを求めた」とあるのもそれである。
 彼らが「天からの識し」という言い方によって何を言おうとしたかは明らかではないが、病人を癒すとか、悪霊を追い出すという程度のものではなく、天上的な識しである。例えば、天に現われる異象、あるいは天使が栄光を伴って現われ、主イエスの宮潔めをなす正当性と権能を証しするというような種類のものであろう。あるいは天からマナが降って来る奇跡の再現であったかも知れない。6章30節に、「私たちが見てあなたを信じるために、どんな事をして下さいますか。私たちの先祖は荒野でマナを食べました。それは『天よりのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてある通りです」と記されているのと状況が似ている。ユダヤ人たちはしばしば主イエスに識しを求めている。
 このような求めに対して、主イエスはいつも「不信仰な今の時代は識しを求める。しかし、今の時代には識しは与えられない」とキッパリ答えておられるのであるから、我々もこの答えに従わねばならない。すなわち、パウロがコリンと人に言うように、識しではなく十字架の言葉によって立つのである。
 福音書に示される主は、識しを示すことを拒否したもうたが、今の時代に与えられるのは「ヨナの識し」だけである、と言われる。ルカ伝11章29節その他である。ヨナの識しとは、ヨナが3日の間魚の腹の中にいて、そこから出て来たこと、すなわち主イエスの三日目の甦りである。これは、識しを求められても十字架の言葉で答えるのと同じことである。
 ヨハネ伝においても同じ趣旨のことが語られる。19節に言う、「イエスは彼らに答えて言われた。『この神殿を壊したら、私は三日のうちにそれを起こすであろう』」。それ以外にはないと言われるのである。これがご自身の復活を指して言われたものであることは21節から明らかである。
 キリストの復活が信仰の重要項目であることを我々は知っているが、それは「識し」なのであろうか。「識し」という言葉は、本来は、目に見えぬ事柄を目で見て分からせるための象徴、記号という意味で語られている。だが、キリストの復活は何かのことの象徴ではなく、事柄そのものである。これが宣べ伝えられるのである。
 20節、「そこでユダヤ人たちは言った、『この神殿を建てるのには46年も掛かっています。それだのに、あなたは3日のうちにそれを建てるのですか』」。
 この神殿はヘロデの神殿と呼ばれている。初めに建てられた神殿はソロモンの神殿と呼ばれた。父ダビデの遺志を継いでソロモンが建てたからである。これはバビロン軍によって破壊され、バビロン捕囚が帰還して建てた第二神殿、あるいはエズラの神殿である。これは民族の窮乏の中で建てられたものであるから、第一神殿の壮大さを記憶している老人たちには涙が出るような貧弱な建築であった。
 第三のものは第二のものの改造であって、ヘロデの神殿である。大王と名付けられたヘロデはエドムの子孫であって、イスラエルには属さないが、ユダヤを支配するものとなってユダヤ人の歓心を買う必要上、自らユダヤ教に改宗するとともに、エルサレム神殿を堂々たる建築に建て直した。着工したのが紀元前20年であることは確かである。主が宮潔めをしたもうたのはそれから46年経過した時の過ぎ越しの祭りの機会であった。工事はまだ続いていたのである。
 工事に46年を要したことは、他の福音書では記していないが、ヨハネ伝は年代を正確に捉えている。もっとも、この46年というのが史実を指すのでなく、象徴的な意味を持つ数字だと考える人々がいる。すなわち、ある人は46という数字はギリシャ文字ではアダムとなるのだと主張する。神の宮であるアダム、人間について言われたのだと言う。また、ある人はイエス・キリストのその時の年齢が46だったと考える。しかし、これらの説を取り上げる価値はないであろう。
 主イエスの弟子となった者も、エルサレム神殿が立派に作られていることに満足し、これを殆ど讃美せんばかりの態度を取っていた。それに対し、主イエスは、神殿の壊れる日が来る、と言っておられる。ここで言われる神殿は、ご自身の体のことであると弟子たちは後日悟った。しかし、この神殿それ自体も滅亡する日が来る、と言っておられると読んで良い。これも後日分かった。今日学んでいる個所に特に深く結びつくとは言えないであろうが、主イエスが紀元70年のエルサレムの滅亡を預言しておられることは福音書の多くの個所から分かる。
 21節、22節は弟子による注釈である。「イエスは自分の体である神殿のことを言われたのである。それで、イエスが死人の中から甦ったとき、弟子たちはイエスがこう言われたことを思い出して、聖書とイエスのこの言葉とを信じた」。
 「死人の中から甦った」という聖書的な言い方に注意して置く。「死人たちの中から」という言葉である。死人は十字架につけられた彼のことだけでなく、全て主にあって眠った者たちである。その中からキリストが先ず立ち上がりたもう。他の死人はその後に続くのである。死人の復活の先駆けとして彼は復活された。
 ご自身の体が神殿であるとは、どういうことであるか。第一は、前回も少し触れたが、4章21節以下で教えておられるように、大転換が起こって、エルサレム神殿による神礼拝は廃止されるという意味である。それはローマ軍によってエルサレムが壊滅させられるからだけではない。むしろ、キリストの体による犠牲の成就である十字架の出来事のゆえに、獣の犠牲によって成り立っていた旧約的礼拝は廃止されるという意味である。
 第二に、キリストの捧げたもうた全き犠牲のゆえに、それに基礎付けられて、我々は、獣の犠牲の繰り返しであり、且つ犠牲を捧げる者の良心を全うし得ない礼拝を離れて、獣を屠って祭壇に捧げるのでなく、自分自身の体を生きたまま捧げる礼拝を行なう、という意味である。
 弟子たちがイエスのこう語られたことを思い出して、聖書とイエスのこの言葉とを信じたというのが、今日の学びの結びになっている。「イエスのこの言葉」とは「私は三日のうちにこれを起こす」との御言葉である。その成就を見て信仰が固くされたのである。我々は復活の光りのもとでこの言葉を聞くのである。そこで我々も己れの体を宮として礼拝を行なうのである。


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