2004.11.07.
ヨハネ伝講解説教 第207回
――21:16-17によって――
前回見ておいたように、主がペテロに3度にわたって繰り返したもうた言葉の、その都度の言い方の違いと含みの違いは、考慮しないことにする。言葉の響きの違いはあったかも知れないが、情けないことに、我々にはその言葉の微妙な違いを味わい取るだけの理解力や言語感覚がない。だから己れの知恵の貧しさを弁えて、分かったような説明は差し控える。したがって、同じ意味の言葉で繰り返されたと見てきた。
主は先ず「ペテロよ、私を愛するか」と詰問したもう。そしてペテロが何一つ隠すことが出来ないのを、痛みを覚えつつさらけ出して答えた時には、「私の羊を養え」、あるいは「飼え」、つまり「私の羊の群れに対して羊飼いの務めを行なえ」と命令し、務めを委託したもう。では、羊飼いの務めの内容は何か。
「羊飼い」ということにについては、ヨハネ伝10章に語られているのが決定的な言葉である。ここに目を留めるならば、全てのことが明らかに見えて来ると言えよう。すなわち、主イエスは「私こそ羊飼いである」と言われる。これはご自身が何であるかを示すために語りたもうたものであるが、同時にここから聞き取れるのは、主を見れば、羊飼いが何であるかは分かるということである。
羊飼いと言われたのは比喩である。そこで、羊飼いがどういうことをしていたのかを様々な局面に亘って詳しく調べれば、主イエスの「私の羊を飼え」という命令で言わんとされた意図は明らかになると思われるかも知れない。そこで、当時のパレスチナ地方の羊飼いの生態を詳しく調べる人も出てくる。
それによって分かって来ることが幾らかあると思う。しかし、結局、余り意味はないであろう。すなわち、キリストの生きたもうた姿勢、キリストのなしたもうた御業、それこそが、羊飼いという譬えで言わんとされた業なのだ。だから、それ以上の説明は余分である。
羊飼いについて、近代の教会、特にアメリカあたりの教会が普及させた羊飼いのイメージがある。それは、白人で、1匹の小羊を抱いた、ただもう優しいだけの羊飼いの絵である。主イエスとはこういうお方であるというキリスト像が我々の周辺でも人々の心に刷り込まれてしまっている。これはイエス・キリストの語られたことの一端を、しかも多少偏って受け止めたものである。主イエスが迷い出ない99匹の羊をそ
のままにして、迷い出た1匹の羊を捜し出す羊飼いの譬えを語りたもうたのは、決して小さい意義のことではない。これは歴史を書き換えるほどの大きい変革を示したものである。
主イエスはこの譬えと同時に、10枚の貨幣のうちの1枚をなくして、懸命に探し回る女の譬えを語り、続いて2人の息子のうちの1人が失なわれた父のところに、その息子が帰って来る時の父の迎え入れ方を譬えをお語りになった。一連のものである。いずれも一人の失なわれた者が、迷い出ない多数者以上に重視されている。人々の持つ価値観はここで逆転せざるをえない。それを分からせようとされてこれらの譬えが語られたのであるが、主が譬えを語りたもうた相手の民衆が、優しい心根の人であったから頷いて聞いたということではないであろう。
羊飼いの比喩は旧約聖書の中でもよく使われて来た。いずれも指導者、支配者として権威を行使する者という意味での羊飼いである。例えば、エゼキエル書34章23節、「私は彼らの上に一人の牧者を立てる。すなわち、わが僕ダビデである。彼は彼らを養い、彼らの牧者となる」。………1匹の羊をいとおしむ優しい羊飼いのイメージとはかなり違うことに注意したい。
羊は野性を失った家畜であって、本能によって餌を見つけることは出来ない。必ず羊飼いに導かれなければ、食べ物も、飲み物も自分で獲得することは出来ない。神の民がその羊になぞらえられるのは心外なことと見られるかも知れないが、これは救いの秩序を説明したものである。すなわち、人は或意味では一人一人が自立する。集団としては扱えないものがある。しかし、ダビデが「主はわが牧者なり」と歌った時、
これは神の救いを言い表したものであった。主がおられなければ祝福はなく、主の遣わしたもう牧者なしでは救いに入れない。
人間には、ある面では能力があるが、救いを得ることに関しては全く無力である。人間には社会を構成する賜物が与えられており、協力とか、相互扶助を組織的に行う。そして、神の民としての奉仕も組織的に行なうことが出来る。人間の群れは一面では羊の群れに似ているが、自立する性質がある。しかし、羊飼いに導かれなければ命の糧に与ることは出来ないのと同じように、霊的生命のためにも羊飼いのもとで群
れをなしていなければならない。つまり、教会である。1匹の羊の譬えが頭にこびりついて、教会を牧する、つまり牧者には教会を建ててそれを導く務めのあることに思い至らない場合がある。忘れないように警戒しなければならない。
ペテロは、キリストの群れである教会の牧者とされたのである。だから、教会という名が廃れさえしなければ、少数の者が失われても構わない、というのでなく、その1人も失なわないようにしなければならなかったことは確かである。しかし、良き羊飼いは、1匹も失わないように、大事に囲いのなかに入れていたと想像するならば間違いである。羊飼いは良い草のある所、良い水のある所を知っていて、そこに羊を連れて行って大きく育てるのである。導きに従わない羊がいたならば、杖で叩いて、正しい道に導き返すのである。
10章では、羊の檻の番人の譬えも同時に使っておられるのだから、番人と羊飼いの区別は承知していなければならない。そして、羊飼いが責任を持つ範囲は広いことも知っていなければならない。
勿論、羊飼いには一人一人への配慮が必要である。だが、チャンとした牧草を食べさせないで、ただ見詰めて可愛いがっているだけではいけない。信仰の養いはひとえに神の生ける言葉によるのであるから、羊飼いの第一の務めは、真実の御言葉を聞かせることである。
教会ではよく宣教と牧会を区別して、牧会を軽んじてはならないとされる。それは正しいが、その人たちの言う牧会は往々にして信者を減らさないための心遣いに過ぎない。信仰者をスポイルするだけのことが牧会と呼ばれ、それによって教会が無力化されることも少なくない。
真実に御言葉を語るとともに、それがシッカリ聞かれるように導くこと、御言葉を聞いている者に相応しい、よき実を結ばせること、試錬に遭っても崩れず耐え抜く教
会を建て上げること、これが牧者の使命である。実際、ペテロは迫害に耐える堅固なローマ教会を建設した。
さらに、ペテロがどういう死に方をするかも主イエスは19節で暗示しておられたが、この死に方も羊飼いの職務、すなわち、教会指導者の職務に関係したものであることを読み取って置かなければならない。羊飼いが必ず羊のために命を捨てなければならないとは言えない。しかし、その覚悟は必要である。主は、良き羊飼いは、羊のために命を捨てる、と言われたからである。
さて、第二の質問に移る。16節、「また、もう一度彼に言われた、『ヨハネの子シモンよ、私を愛するか』。彼はイエスに言った、『主よ、そうです。私があなたを愛することは、あなたがご存じです』。イエスは彼に言われた、『私の羊を飼いなさい』」。
二回目には、「私を愛するか」とだけ問われ、「この人たちが愛する以上に……」という言葉はつけ加えられていない。三度目の時も「私を愛するか」と問われただけである。この違いを今は取り上げないが、人一倍主を愛するという意味は主を愛する個人にとって、生涯忘れ得ないことではあるが、人との比較は本質的に重要なものではない。確かに、己れの人一倍大きい罪が赦された有り難さを身に沁みて感じている者にとっては、確かに無視出来ない意味を持つのである。ペテロは実際、人一倍大きい失敗を犯してしまった。だから、人よりもいっそう主を愛さなければならない。それでも、主がそのことに触れたもうたのは、一度だけであったから、重要視し過ぎることは避けたい。
主を愛するということと、主の羊を飼うこと、すなわち教会を建て上げ、これを守り抜くことの結び付きに注目しなければならない。主を愛することは、主から命じられるあらゆる任務の忠実な遂行に関して必要であるが、特に、主の群れを主が養いたもうように飼うことに関して必要であることを見たい。主の群れが世界にいるのは、主のみこころであって、主の群れがその使命を行なうことが出来るよう強める務めは重要である。今日、このことが軽視されている。
「羊の群れを愛するか」と問われ、「羊の群れを愛します」とペテロが答え、「愛するなら、私の羊を飼う仕事を任せる」と言われたのではない。羊飼いが羊を愛するのは当然である。良き羊飼いが羊のために命を捨てるのも、1匹の迷い出た羊を追い求めるのも、羊を愛するからである。それは当然のことであるが、主は「私を愛するか」と確認したもう。羊飼いと羊との関係に視野を狭めてはならない。キリストへの愛が優先しなければならない。それは、優先すべき愛の故に付随的なものを切り捨てる場合があるという意味ではない。キリストを愛する故に、羊のために命を捨てることが起こる、というふうに理解すべきである。キリストへの愛が他の人々への愛の原動力となり、それを支えて実践させるという意味である。
第二の答えも第一と同じであった。「主よ、そうです。私があなたを愛することは、あなたがご存じです」。私を愛するのか、と問われて、主は全てを知っておられるのであるから、「主よ、そうです」と答えるほかない。主は知っておられる。ペテロ自身が知る以上に知っておられる。取り繕った言い方をしても全部見抜かれている。しかし、これはウソが言えないという程度のことではない。主が知りたもうもと
において、一切が行われることに委ねるという信頼と服従また自己放棄までがある。
さらに、一回目の答えの時には見ていなかったので、「あなたは知っておられます」と言ったときの「知る」、このことの意味を考えて見なければならない。これは、長い付き合いですから何でもご存じですという意味で言われたものではない。主が知りたもうのは、死にも勝利したもうた、神の子、超越者としての力によってである。
次に、第二の命令、これも同じである。先には「私の小羊を養え」と言われた。ここでは「私の羊を飼え」と言われる。使われている言葉は別である。主イエスの口から出た原語も別であったと思われる。しかし、主旨から言えば同じであると思われるから、言葉の違いについては論じないでおく。ここには、個々人に対するとともに、全体教会への配慮、指導の意味がある。
ペテロは、後年書いた書簡の中で、群れの長老たちに勧めを与えている。それは第一の手紙、5章の初めであるが、「そこであなた方のうちの長老たちに勧める。私も長老の一人で、キリストの苦難についての証人であり、また、やがて現われようとする栄光に与る者である。あなた方に委ねられている神の羊の群れを牧しなさい。強いられてするのではなく、神に従って自ら進んでなし、恥ずべき利得のためではなく、
本心からそれをしなさい。また、委ねられた者たちの上に権力を振るうことをしないで、むしろ群れの模範となるべきである。そうすれば、大牧者が現われる時には、凋むことのない栄光の冠を受けるであろう」。
ペテロは自分に対して主の言われたことを、忠実に釈義しながら、離散し寄留している教会の長老たちへの勧めに当てはめる。私の羊を飼えとの主の御言葉の解説でこれに優るものはない。
次に進もう。17節、「イエスは三度目に言われた、『ヨハネの子シモンよ、私を愛するか』。ペテロは『私を愛するか』とイエスが三度も言われたので、心を痛めてイエスに言った、『主よ、あなたは全てをご存じです。私があなたを愛していることは、お分かりになっています』。イエスは彼に言われた、『私の羊を養いなさい』」。
三度目の御言葉はもっと長く続くが、続きは次回にまわすことにして、前の二回と共通な部分について先ず学ぼう。言葉の違いはここでも取り上げないが、これまでになかった挿入がある。「ペテロは、私を愛するかと、イエスが三度も言われたので、心を痛めた」という言葉である。
心を痛めたのは当然のことである。心を痛めずにこの時が過ぎ去るはずはなかった。主がペテロを痛めつけられたというのは意外だと思う人がいるかも知れない。しかし、主はこのことが必要であると見ておられた。彼の立ち直りのためには、慰め、励ましだけでなく、悲しみ、苦しみ、痛み、それを経ての再生が必要であった。
三度同じ事を問われたので痛んだのであろうか。そうではなく、初めの一回ですでに十分痛かったのである。主はペテロの一番痛いところを衝いて来られた。彼は痛み入って答えた。二度目に問われた。ペテロの痛みはもっときつかった。三度目目に問われた時の痛みはもっとも苛烈である。その痛みは人柄が変わってしまうほど厳しい痛み、いわば皮を剥がれる痛さ、人間が脱皮する辛さであった。三度主を否んだペテロは、それほどの脱皮を経なければならなかった。
ただし、これは刑罰の苦痛ではない。ご自身を裏切ったペテロに対する主の報復というべきものではない。主がペテロに与えたもうた再起の機会を通り抜ける苦痛である。痛いけれども再生の機会であった。
「私があなたを愛していることは、お分かりになっています」。自分の確認によって、或る意味で強烈な自己主張として、「私は愛している」と言い張る人もいるであろう。その自己主張の故に、主から光栄ある職務を頂こうとする人もいる。しかし、ペテロの場合はそうではなく、あなたが知りたもう通りです、と言う。初めからそうであったが、三度目には完膚無き砕かれようであった。主はペテロが主を愛することを認めたもう故に、「私の羊を愛しなさい」と命じたもうたのである。