2004.10.24.

 

ヨハネ伝講解説教 第206回

 

――21:15によって――

 

 21章における主イエスの顕現は、7人の弟子に対するものであるが、ペテロ一人を相手にしたかのように書かれている。他の弟子は事実の証しのために立てられたと見て良い。ほとんどペテロひとりのために、主が3度目に現われたまい、ペテロにだけ語りかけておられる。ただし、ペテロの一人舞台、というのではない。イエス・キリストこそが中心である。キリストの光りがあって、それに照らされてペテロの姿が浮かび出る、というふうに読みたい。――なお、もう一人「イエスの愛した弟子」が脇役の脇役として登場することが次第に見えて来る。そのほかの弟子は、謂わば舞台の上に上がっている観客である。

 ペテロが際立って重要な役割を演じるのは、これ以後の教会の中で彼が特別に重要な位置を占めることを示すためであったか。そうではないと言って置かねばならない。むしろ、彼の3度の躓きによる落ち込みからの修復、これが主イエスの主眼点であったと考えられる。

ということは、主イエスの弟子に対する思い遣りの深さが主題だということであろうか。そう考えるのも尤もであるが、その解釈では大事なことを見損なう。それよりも先ず、主の愛の力によらなければ、立ち上がれないほど、ペテロが打ちのめされていた実情を捉えなければならない。ペテロの躓きは、人間の弱さという程度のものとして片付けられてはならない重大な背反であるということを読み取るべきである。

こうして、ペテロを立ち上がらせ、修復された彼を用いて12人の弟子団を再建することが主の意図である。イスカリオテのユダの脱落によって、弟子団は消失こそしなかったが、崩壊した。さらにその上、ペテロの躓きによって、弟子一同が失意に投げ込まれた。それの再建である。こういう事情を説明するのが、ルカ伝22章32節の御言葉である。主は「あなたが立ち直った時には、兄弟たちを力づけてやりなさい」とペテロに言っておられるのである。

他の弟子たちを力づける特別な役割がペテロに課せられたということが分かる。だから、彼自身が立ち直らなければならない。ただし、ペテロが他の弟子より一段上というわけではない。だが、最初から彼は12人の先頭であったし、兄貴分であった。名前が並ぶときには、いつも先に書かれている。主イエスも彼をご自身より年長の弟子として立てておられたようである。こういう順序があったことは承認しておいて良いであろう。使徒行伝の初めの頃のことを見ても、ペテロが使徒会議における議長のような指導力を発揮している。

 大祭司の家の中庭において、3度に亘って主を否んだことは、サタンに隙を衝かれた失策と言えるとしても、主を否んだ罪責は消えないから、彼自身を打ちのめしていた。主の復活に接し、個人的信仰は立ち直ったが、使命に関わる公的活動は出来ないままであった。ガリラヤに戻って漁師になったのは、挫折から立ち直って復帰するに至らなかったことを意味するのではないか。

 今日は15節だけを学ぶ、「彼らが食事を済ませると、イエスはシモン・ペテロに言われた、『ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に私を愛するか』。ペテロは言った。『主よ、そうです。私があなたを愛することは、あなたがご存知です』。イエスは彼に『私の小羊を養いなさい』と言われた」。

 これを第一回として、三度、問答と命令が繰り返されるが、言葉としては完全に同じではない。この違いを取り上げて、一回一回別のニュアンスで語られたのだと主張する人がいる。それが当たっているのかも知れない。しかし、そのように論じる人たちは、ギリシャ語になっているものについて主の言葉を受け取っているので、ガリラヤで主が語られたままの言葉について、その解釈が通用するかどうかはかなり無理な問題である。聖書にギリシャ語で記されている主イエスの言葉の一つ一つを、主が実際に語られたであろうと推測されるアラム語に置き換える努力はある程度まで出来るが、その成果に期待し過ぎてはならない。

 我々は、単語の意味や語調の違いを取り敢えず無視して、三度の言葉が同じ主旨であったと素朴に取って置きたい。そして、三度繰り返されたことの重要性を捉えたい。すなわち、三度の繰り返しは確認のためである。ちょうど、三度繰り返して「その人を知らない」と言ったことは決定的な断絶になるのと対応している。

主から「あなたは私を愛するか」と問われたなら、「私はあなたを愛します」と答えるのは、ペテロとして当然である。しかし、当然言うべきことを言っているだけでは、シッカリ言っているようであっても、その答えは、いわば底が抜けた樽のようなものである。実際、ペテロは「あなたのためには命もすてます」と誓って言った。この誓いを、忠実さの見せびらかしのように軽薄なものと取る必要ははない。誓った時には誠実で、真剣であった。しかし、真剣な誓いであっても底が抜けたものは抜けている。

 では、入念に確認を重ねれば、失敗は起こらないのか。そういうものでないことも我々は知っている。確かに、日常性の次元では、確認を繰り返せば繰り返すだけ完璧に近づく。相対的には良くなる。それでも、本質的な不確かさは残る。3回が9回になっても、人間の持っている不確かさが克服されないということを、我々は自分自身の経験から十分知っているであろう。

 だから、日常的な意味の所謂「駄目押し」でないものをここで読み取らなければならない。それは何か。それはもっと厳しいもの、「審判」である。その審判によって一回一回、皮が剥ぎ取られる。それが3度重ねられる。3度目にはペテロは悲鳴を上げる。それで人間が変わるとするのは、本質を外れた言い方になるが、三度の詰問は務めのために人間を坩堝に入れて練り直すようなものである。

 我々が良く知っているように、主イエスは「もし、あなたの兄弟が罪を犯すなら、彼を諌めなさい。そして悔い改めたら、赦してやりなさい。もし、あなたに対して1日に7度『悔い改めます』と言って、あなたのところに帰って来れば、赦してやるがよい」とルカ伝17章3-4節で教えたもうた。そう教えたもう彼自身「私もあなたを裁かない」と言われるのはヨハね伝8章で読むとおりである。

 これは全くこの通りである。悔い改めても、失敗が繰り返されないことの保証になるわけではないが、その失敗は赦される。ペテロの否認を例外として扱うべきではない。ただ、彼の帯びている務めに関しては、あの失敗はなかったことにして、大目に見逃して置く、というわけには行かない。羊を飼うという務めに関しても、悔い改める限り、羊飼いの失敗は赦され、その損失は主が修復したもうということはあるが、それだけでないものがある。だから、羊飼いが羊を捨てて逃げるということは、あってはならない。

 教会を建てる働き人が、建てるには建てたが、見掛けばかりで、草や藁のような材料しか用いなかったので、火で試される時に焼け失せるようなことでは、その業がむなしくなってしまう。それでも、彼自身は「火の中をくぐって来た者のようにではあるが救われる」とコリント前書3章に語られている。その人個人という面と、務めを帯びた人という面を区別して考えなければならない。

 実は、ペテロが殉教したことを知った上で、ヨハネ伝の記者は福音書を、少なくとも21章を書いたに違いないことが19節から判定できる。今ここで殉教の問題を取り上げるつもりはないが、ペテロに変化があったことは承知して置いて良いであろう。すなわち、「あなたのためには死ぬことを恐れません」と言うことは言えたが、実行が出来なかったペテロは、死ぬことが出来る人になった。こういうことが出来たのは、ペテロが成長したからではなく、変化したからである。その変化を今日学ぶのである。

 「彼らが食事を済ませると」と書かれているが、主イエスは食事が済むまで待っておられた。彼は「さあ、朝の食事をしなさい」と言われたが、ご自身も一緒に食したもうたかどうかは書かれていなかった。主とともに食するということの意味の大きさについて、我々はすでに理解している。また、ご自身の復活が事実であることを示すために、何か食べる物を持って来させ、弟子たちの見ている前で食べて見せたもうたことについても知っている。しかし、ここでは、食べて見せる必要はなかった。だから食べる必要はなかった。それでも、主とともに食する祝福の境地は実現していた。そこで主は、弟子たちが食べ終わるまで待ってくださった。

 そこで言われる、「ヨハネの子シモン」。バルヨナ・シモンと呼び掛けられたのである。かれのことは「シモン」あるいは「シモン・ペテロ」と通常書かれているから、「ヨハネの子シモン」というのは、幾分改まった呼び掛けである。

 「あなたはこの人たちが愛する以上に私を愛するか」。ここに「愛する」という言葉が2度出るが、ギリシャ語では別の動詞である。だから、その意味が違うのだと言う人がいるが、それを強く主張する根拠はない。

 「この人たち」というところは、「これらの品々」、つまり漁師の商売道具である舟や網など一式と取れなくはないが、「この人たち」と訳すのが正しいと思う。漁師の仕事を好んで、そこに戻って行くのか、と尋ねたもうたと考えることは出来なくはないが、そこまで勘ぐる必要はない。ただし、魚をとることと羊を飼うこととの対比がなされ、漁師の仕事に戻るよりは、私の羊を飼う者となれ、という意味があるかも知れない。

 さらに、原文は「この人たち以上に」という言葉であるから、「あなたはこの人たちを愛する以上に、私を愛するか」と尋ねられたようにも取れる。「この人たちが愛する以上にあなたは私を愛するか」と訳したのは、いささか踏み込み過ぎかも知れない。

 ここに一緒にいる「イエスの愛したもうた弟子」も、主から愛されているのだから当然、彼も主を愛していたわけで、ヨハネとペテロとどちらが多くキリストを愛するか、という比較は意味がないかも知れない。どちらがより良く忠勤を励んでいるかという比較に興味を持つことは危険でさえある。

 ただ、起き上がれないほど躓いてしまったペテロの復権に関しては、他の人々以上に主を愛する証しが必要であろうということは考えて置くべきであろう。我々が直ちに思い起こすのは、ルカ伝7章36節以下の罪の女の物語である。その47節で言われる、「この女は多く愛したから、その多くの罪は赦されているのである。少しだけ赦された者は、少しだけしか愛さない」。この御言葉はそのままペテロのこのケースに当て嵌めることが出来るのではないだろうか。ペテロの罪は人一倍大きかったのである。彼自身それを知っていたのである。だから自分は人一倍主を愛さなければならないと思っていた。

 「主よ、そうです。私があなたを愛することは、あなたがご存知です」。「ハイ、愛しています」と胸を張って言うのでなく、「私は取るに足りない者ですが、あなたの知りたもう通りです」と引き下がって言うのである。

 主イエスは彼に「私の羊を養いなさい」と言われた。2度目には羊を飼いなさいといわれ、3度目には養いなさいと言われる。言葉の違いは無視しておこう。3度とも同じく、牧者の任務を負わせたもうた。この務めの重要さについては繰り返し学ぶことになっており、一回では学び尽くせない。

 最も基本的なことは10章で言われたように、主こそが本来の牧者であり、私の羊を飼えと命じられた者はキリストのその務めに与るということである。

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