2004.10.03.


ヨハネ伝講解説教 第203回


――21:1-4によって――

 ヨハネ伝21章は、福音書記者が一旦筆を収めてから、もう一度筆を執って、その補遺として書かれたものである。
 「そののち、イエスはテベリヤの海辺でご自身をまた弟子たちに顕された。その顕された次第はこうである」。
 「そののち」という言葉は、ヨハネ伝にも他の福音書にもよく出て来るものであるが、幾ばくかの時を置いて後、という意味である。続いて起こったというのではない。何日後のことか。それは分からない。非常に長い日数を経て後、ということではないが、主が甦りたもうた感動がまだ続いていたということではない。
 「テベリヤの海」、これはヨハネ伝6章の初めに「ガリラヤの海、すなわちテベリヤの海」と書かれていた通りガリラヤ湖である。ガリラヤ湖のことをテベリヤ湖と呼ぶのは、聖書の中でヨハネ伝だけである。そのように呼ぶことの意味を考えても、余り益はないと思う。ヨハネ伝の記者にとっては、「テベリヤの海」と呼ぶことが最もよく身についていたという単純な理由があるだけである。
 「テベリヤの海」という呼び名は、その湖の周辺に住む人たちにとって、馴染みある名ではなかったのではないかと思われる。すなわち、これはテベリヤという町の名に由来する。そして、この町の名はローマ皇帝ティベリウスの名を貰ったもので、皇帝に迎合しようとしたものと思われる。ガリラヤの国主ヘロデが、王という称号を皇帝から貰おうとして、しきりに進めていた国内のギリシャ化政策の重要な眼目の一つは、テベリヤというギリシャ風の綺麗な都市を建設することであった。だから、この名は新しく聞く名である。湖の西岸、真ん中より少し南寄りのところにあった。
 このテベリヤの町については、ヨハネ伝6章23節に、「数艘の小舟がテベリヤから来て、主が感謝された後パンを人々に食べさせた場所に近づいた」という記事があるだけで、主イエスがこの町に行って伝道されたという記録はない。ヘロデがガリラヤの中心と定めた町であるから、人口も少なくはなかったはずである。ユダヤ人の中では、民族の伝統というようなことに余り囚われない人が集まりやすかったであろう。イエス・キリストの新しい教えに関心を持つユダヤ人がこの町には比較的多かったのではないかと推測される。しかし、主はそこを無視しておられたらしい。同じガリラヤの町でも、カペナウムやベツサイダではしばしば説教されたがそれと大違いである。
 周辺的な事情を話しても、信仰の益にはならないのであるが、今引いたように、このテベリヤにいる人たちが、何艘かの舟を仕立てて、主が5000人の給食を行なわれた場所である、湖の対岸にやって来たということが書かれていた。彼らは湖の北の地方の人々が集まって、ナザレのイエスを立てて王国の旗揚げをしようとしているという情報をつかんで、それに合流しようとして海を渡って、朝、こちらの岸に着いたのである。
 そこに主イエスがもうおられないことを知って、そこにいた人を舟に乗せて、主イエスを捜し求めてカペナウムに行った。そしてカペナウムの会堂で主に会ったのである。彼らが何かを求めて主イエスを追い掛けたことは確かである。そして、主イエスはそれを全く取り合わなかったことも事実である。そういう人たちがテベリヤにいたことも注意しておいて良いであろう。
 「テベリヤの海」という呼び方がヨハネにとっては身に付いた呼び名であったらしいという憶測は、そのような、決して信仰的とは言えない、しかもキリストを或る意味で求めていた民衆と、何かの関係があったのではないかと想像を駆り立てるものがある。しかし。このことをこれ以上論じても永遠の命に関わることは何も得られない。
 イエス・キリストがゴルゴタで処刑されたもうたこと、そのスグ近くの墓に葬られたこと、三日目の朝、その墓が空になっていたこと、これらの出来事は全ての福音書が一致して証言している通りである。しかし、その後、復活の主が現われたもうたことについては、記録は一致しているとは言い難い。復活の主の顕現の場所は、エルサレムなのか、ガリラヤなのか。
 マタイ伝はハッキリ、これをガリラヤの特定された山であると言う。マグダラのマリヤと他のマリヤたちが、朝早く主の墓を訪ねたところ、墓は空であり、御使いが彼女たちに言う、「イエスは死人の中から甦られた。見よ、あなた方より先にガリラヤへ行かれる。そこでお会いできるであろう」。――その直ぐ後、主イエスご自身が彼女たちに出会って言われる。「恐れることはない。行って、兄弟たちに、ガリラヤに行け、そこで私に会えるであろう、と告げなさい」。こうして、弟子たちはガリラヤに行って、示された山に登って命令を受ける。
 つまり、主イエスはエルサレムで死んで、葬られて、甦られた。甦られた姿をエルサレムで見た人はいることはいる。しかし、復活の主が正式に弟子たちにまみえて、世界伝道の命令を与えたもうのは、ガリラヤであると言う。
 ルカ伝には、ガリラヤでの顕現は語られていない。復活と顕現の舞台はエルサレムだけである。「キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中から甦る。そして、その名によって罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まって、もろもろの国民に宣べ伝えられる」。
 ヨハネ伝では、復活の主の顕現は、エルサレムにおいて、またガリラヤにおいて行なわれたように書かれている。20章にあった顕現はエルサレムにおけるものであった。そして、21章では、ガリラヤにおける顕現を描いている。そして、エルサレムにおける顕現とガリラヤにおける顕現の間の開きについては何も言われていない。
 マタイ伝におけるガリラヤでの顕現の場所は山であった。山というのは、マタイ伝5章から7章にかけて記されている有名な山の上の教えのなされたその山ではなかろうかと思われるが、ヨハネ伝におけるガリラヤの顕現の場所は海のそばである。海のそばと言うと、主イエスが海辺で人々に説教されたこともあるが、弟子たちにとって印象深いのは彼らがここで主に召されたことではないか。
 このように、顕現の場所だけでも記録がまちまちである。そのため困惑すると言う人がいるかも知れない。もしそうなら、躓きがないように、もっとジックリ説明しなければならない。ことがハッキリしないまま、何となく分かったような気になり、信じたような気になることで片づけてはならない。曖昧なままに何となく信じることが信仰だと思っていると、そういう信仰は必ずグラつく。
 イエス・キリストの復活は、物語りとして我々に届けられたのではない。素晴らしいお話しとしてウットリと聞くのではない。これは証しとして、また宣言として伝えられた。我々はそれを全存在をかけて受け止めるべき言葉として聞いたのである。そして、次に、復活の主は我々に使命を与えたもうお方として私に顕現したもう。そこでは信仰と服従が伴うのである。
 さて、ヨハネは、主の顕現の場所を先ず20章で、エルサレムであることをハッキリ述べた。主イエスはエルサレムにおいて福音を宣べ伝える使命を与えられた。それは十分確認できたはずである。それに加えて、ガリラヤでの顕現が、補遺として付け加えられた。ガリラヤでもいろいろなことが起こったのだ、とあれこれ書き記すのではない。ペテロを主要な対称にした主の顕現と主の言葉が記される。
 ところで、なぜ補遺が加えられたのか。――それは想像によって捉えるほかない。そして、我々の想像は常に貧困であって、これによって得るものは余りない。ある人はガリラヤにあった主イエスを慕う人たちの群れのために、主が復活後またこの地に来られたことを物語る必要があったのだと想像する。実際、以前から多数の信奉者のいたガリラヤに、イエスをキリストと信じる教会が初期に出来たのである。エルサレム教会程には知られていないが、ガリラヤ教会の働きは無視してはならない。しかし、ガリラヤの教会について考えまた調べても、それで信仰の大いなる前進が起こるわけでもない。
 また、ある人はこの出来事が特にペテロのために必要だったのではないかと考える。主イエスはここで、ペテロに対して、「私を愛するか」と3度も尋ねておられる。また、「この人たちが愛する以上に私を愛するか」と詰問したもう。これは、弟子の中におけるペテロの特別な位置を確認させるための御言葉であると見るべきであろう。
 さらに、これはペテロが3度も主を否んだとこと関係していると理解される。ペテロが使徒の中で特別に高い地位を占めるべきだと考える必要はないであろう。しかし、彼らの間では年長者であったし、12人の使徒の統率者とは言えないが、代表者であったことは事実である。
 神の国が成就した時、誰がキリストなるイエスの次の座に座るか、ということで弟子たちの間に論争が起こったという事件がある。彼らの考えは根本的に間違っているのであるが、誰が偉いかということではなしに、誰が率先して重荷を負うべきか、とか、誰が先頭に立って歩くべきか、という秩序がハッキリしなければならない場合が教会にはしばしばある。それがハッキリしないなら、教会は戦えない。
 主が裁判を受けておられた時、3度も「その人を知らない」と言ってしまったペテロは、弟子たちの間でそれまで持っていた地位を失墜したし、彼自身、激しい自己嫌悪に陥って、殆ど立てないようになった。その彼には一同の先頭に立って歩かなければならない使命がある。彼の地位を回復させるために、3度彼に確認を促したもうたと推測することには意味がある。
 2節に進む。「シモン・ペテロが、デドモと呼ばれているトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子らや、他の二人の弟子たちと一緒にいた時のことである」。
 ペテロたちはガリラヤに帰ってしまったのである。世界伝道に乗り出すに先立って、故郷に一旦帰って、用意を調える、ということか。どうも、そうだとは思われない。どちらかと言うと、意気消沈していたように思われる。これはどういうことか。主の復活を知り、その復活にあずかっていることを知って、自分が召されたということが確認できたのだから、もはや何物も恐れない勇者になったのではないのか。召された前のガリラヤの漁師に戻って良いのか。
 人間が何度も何度も躓いて、もとの黙阿弥に戻り、そこからまた出直すという例証の一つであろうか。そうかも知れない。しかし、出直しという意味を読み取って良いとは思うが、福音書記者がそういう意図をもってテベリヤの海のほとりのペテロたちを描いたのではないであろう。
 ペテロたちがもとはガリラヤ湖の漁師であったことはよく知られている。ヨハネ伝以外の3つの福音書は、ガリラヤの漁師であった彼らの召しを語っている。しかも、一晩網を打って労したのに何もとれなかったその後で、主イエスの指示に従って網を下ろすと、網が破れんばかりの大漁になり、その経験の後に網を捨てて主に従ったというのが、共観福音書の弟子の召しであった。その出来事を福音書記者ヨハネは知っていたが、福音書の中で弟子の召しを語る時には、この材料を使わなかった。ヨハネ伝では、名が上がっている限りでは、弟子たちはみな、以前バプテスマのヨハネの弟子であった。彼らは家を出てヨルダンのほとりのベタニヤというところに来て弟子になった。そして、その教師に促されて、彼らはヨハネを離れて、ナザレのイエスの後についていった。
 だから、彼らの召しの出発点に帰って出直したということをここで讀み取るのは、信仰の勧めにはなるとしても、著者の意図の解釈としてはかなり無理である。
 さて、ここに述べられているのは、ペテロがトマス、ナタナエル、ゼベダイの子ら、すなわちヤコブと福音書記者ヨハネ、ほかに名前を上げない2人の弟子と共にいたということである。一緒にいた、とは同じ家に寝泊まりしていたということである。ここには7人いたことになるが、それ以外の弟子はどうしたのか。それは分からない。彼らが仲間割れしたと想像する理由は何もない。
 ここに名前の上がる弟子の一人一人について考察することには余り意味がないと思う。だから、他の名前でも良かった。ペテロ以外の人たちは主がペテロに語りたもうた言葉を聞いた証し人である。
 一緒にいたとは、ペテロの家にいたということではないか。そして、その家はカペナウムにあったのだと考えて良い。もっとも、ヨハネ伝ではペテロはカペナウムでなく、ベツサイダに住んでいたことになるから、町がどこであったかにこだわる必要はない。
 3-4節、「シモン・ペテロは彼らに『私は漁に行くのだ』と言うと、彼らは『私たちも一緒に行こう』と言った。彼らは出て行って舟に乗った。しかし、その夜は何の獲物もなかった。夜が明けた頃、イエスが岸に立っておられた。しかし、弟子たちはそれがイエスだとは知らなかった」。
 ペテロが「漁に行く」と言うと、後の人たちも賛成してついて来た。退屈していたのか。あるいは、生活費がなくなったということかも知れない。主がおられた頃は弟子たちは生活の苦労はしなかった。今は働かなければならない。この時、ペテロが命令したわけではない。他の弟子は自発的について行ったのである。
 そして何も獲物はなかった。これは彼らの感じていた空しさをあらわしているのみでなく、彼らの存在そのものが空しいことを示している。すなわち、主の復活をすでに知ったけれども、喜びに満たされたけれども、その喜びの充満はどんどん薄れ、空しくなって行くのである。これがキリスト者と言っている者らの実情と言うべきかも知れない。何という情けない実情であろうか。
 我々もそれと異ならない。ひと晩労したけれども、何も得るものはなかった。いや、二晩も、三晩も努力したが、何も得られない。悪の渦巻く今日の世界にいる我々はそういう思いを抱いて生きている。
 しかし、その時、岸に主イエスが来ておられる。そして、弟子たちはそれに気付かなかった。だが、それに気付く時がまさに来ようとしている。主が来ておられることに気付いたなら、彼ら自身が空しくも貧しい者であることは意に介さなくて良いであろう。彼らは敗北者であっても、勝利者がそばにいて下さるからである。

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