2004.09.19.
ヨハネ伝講解説教 第202回
――20:28-31によって――
福音書記者ヨハネが、20章の30節-31節で、「イエスは、この書に書かれていないしるしを、ほかにも多く、弟子たちの前で行なわれた。しかし、これらのことを書いたのは、あなた方がイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである」と書いた時、ここでヨハネ伝を終わりにするつもりであったようである。しばらく経って後、ヨハネはこれではまだ足りないと感じ、いや、もっと適切に言えば、御霊の導きを受けて、21章を書き足した。そのように、多くの人は推測している。
その理解が良いか悪いかの議論を起こす必要はない。ここでヨハネが一旦筆を収めたと考えて何も不都合はない。これだけの長い文書を一気に書いた、あるいは一気に語ったということでないのは言うまでもない。十何回かに分けて語られたのであろう。そして、どこからどこまでが1回であったかは、読めば大体分かるようになっている。毎回一応の区切りがついていたのである。31節の区切りはかなり大きい意味の区切りであることも分かる。
21章24節に、「これらのことについて証しをし、またこれらの事を書いたのは、この弟子である」と記されている。だから、この福音書が初め「書かれた」のであって、語られたのではないと言うべきであろう。しかし、記された通りに取るなら、それは「証しされた」ことの記録である。そして、「証し」というのは、会衆の前に立って厳粛に語ること、平易な言い方をすれば説教であった。
20章を終わるに当たって31節に「これらのことを書いたのは、あなた方がイエスは神の子キリストであると信じるためであり、うんぬん」とあるから、書かれたことは確かであるが、それは手紙を書いて説得するという方式ではなかった。このように会衆の前で説教されたのである。説教が先になされ、後で文字になったのか、その逆の順序であったかは分からないが、書くことと話すこととは一致していた。
だから、書かれた文書ではあるが、読み物として読むのではなく、語り掛けられる言葉を聞き取るという形で、受け入れられたのである。「あなた方がイエスは神の子キリストであると信じ、そう信じて、イエスの名による救いを得る」と記されているのは、そのような受け入れ方を指しつつ、語られたものである。まことに、ローマ書10章が言うように、「信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉によるのである」。
小さい問題に時間を取ったように思われるかも知れないが、我々が福音書の解き明かしを聞く姿勢に関わることである。これは昔のことではなく、今のことである。それが福音書の締め括りの言葉であるが、締め括られる前の最後の言葉、それが28節であり、29節である。今日は先ずこの2節を学ぶ。これは言うまでもなく、一つに連なった、したがって切り離せない言葉として聞くべきであるが、しかも、その一つ一つがそれだけで取り上げて論じられるテーマでもある。
28節、「トマスはイエスに答えて言った、『わが主よ、わが神よ』」。ここで学ぶのは信仰の告白というテーマである。29節、「イエスは彼に言われた、『あなたは私を見たので信じたのか。見ないで信ずる者は幸いである』」。ここで示される第二点は見ずして信ずる信仰、すなわち、聞くことによる信仰というテーマである。
前回学んだように、トマスの不信仰はすでに腰砕けになっていた。彼が「わが主よ、わが神よ」と言ったのは、単純な感嘆の叫びというよりは、イエスはキリストなりと信じる信仰の告白、吐露であると捉えることが必要であろう。31節にも、厳密を期して「イエスが神の子キリストであると信じる」と言われている。
そのような御方に対して今まで不信仰であったことを悔いる思いがこもっていることは確かである。だが、罪の告白よりも信仰の告白を表に立てるべきであろう。キリストがトマスの心の思いを全部知っておられることへの恐れもあったが、特に強調すべきことではないと思う。
今読んでいるのは、単なる奇跡物語りではない。まして、ただの偉人伝説というようなものではない。さらに、圧倒されたとか、感動したという体験の問題ではない。感心するとか、憧れるとかいう感想でもない。ましてや、分からなかったことがだんだん分かって来たと感じられるようになった思い出ではない。信じること、信じるに至ること、それを告白したことがここでのテーマなのだ。
信仰についての意識が非常に稀薄になっている世界に我々は今生きている。殆どの人は信仰なしで生きている。さらに言うならば、信仰なしに宗教に入っている。そういう時代である。信仰なしの宗教があるのか、と不思議に思われるかも知れないが、実際、そういう宗教があり、結構繁盛している。むしろ、信仰を抜きにした方が宗教は繁盛するのが現代である。言いたくないことだが、キリスト教という宗教の中にも、信仰抜きでやっているキリスト教が相当に力を占めるようになっている。例えば会議である。議論が激烈になっていけない、と言うのではない。お上品な議論をしているが、信仰ぬきで、世俗の知恵で議論をしている。だから、教会の精神が抜けて行くのを取り返せない。
彼らが名乗っている名称、それはキリスト教である。制度から言っても、行なわれている行事から言っても、教えから言っても、奉仕的な活動から言っても、人々の真面目で穏やかな物腰から言っても、キリスト教という宗教に違いない。信仰によって始められたものが受け継がれていることは確かである。だが、それが今信仰をもって営まれているかということになると、かなり違う。
教会に集まって営む行事は、一定の型にしたがっているから、型通りに行なわれていると、本物と見分けがつきにくいかも知れない。しかし、バラバラになって暮らしている時には、クリスチャンとしての生き方をしているのかどうか。表に表していなくても信仰を持っている場合はあるだろうが、そうでないケースの方が多いのではないか。
では、宗教に入るということと、信仰を持つこととはどう違うのか。難しく論じるには及ばない。今日学ぶところで聞く、「あなた方がイエスは神の子キリストであると信じるため、またそう信じて、イエスの名によって命を得るためである」と教えられるところにすでに答えがある。すなわち、信じて命を得る。信じないなら命がない。ただし、命があるとは、後で言うが、見かけたところ生き生きしている、ということとは違う。
「命を持つ」、あるいは「命を得る」ということ、これはヨハネ伝を通して一貫して学んで来たものである。例えば、3章で学んだが、ユダヤ教の神学者として高名なニコデモという人がいた。彼は権威ある学者と認められていたのであるが、ナザレのイエスという無名の民間説教者の偉さを理解し、尊敬して、ある夜、訪ねて来た。
その人に対して、主イエスは、「よく来た、よく来た」と丁寧に迎え入れたかというとそうでなく、「誰でも、新しく生まれなければ、神の国を見ることは出来ない」と言って、はねつけたもうた。「あなたはまだ新しく生まれていない」と言われたのである。主イエスがここで「新しく生まれる」と言っておられることと、20章の終わりで「命を得る」と言われていることは、意味の上では同じと見て良い。6章47節では、「よくよくあなた方に言っておく。信じる者には永遠の命がある」と言われたが、同じことである。
その「命」、あるいは「生きる」、あるいは「生まれる」とはどういうことか。聖書が「命」と呼ぶものと、人々が日常的に「命」と呼んでいるものとは別であることに留意したい。聖書の言う命は本来の命で、それは死に飲まれるものではない。むしろ死を飲み干す。しかし、この本来の命を人は罪によって失なった。それでも、人は本来のものではないが、一応、命と呼ぶことの出来る命を持ち、それによって生きている。が、その命は死に飲まれてしまう命である。
本来の命と、そうでない、見せ掛けの命がどう違うかを、譬えで説明しよう。光りと闇の対比と対応するのが命と死の対比である。光りは闇がどんなに厚くても、その闇を追い払うことが出来る。それと同じように、命は死を追い払うものなのだ。それが本来の命であって、一般に命と呼ばれているものは死に飲まれてしまう
ここで「命を得る」と言われることは、「永遠の命を得る」と言われるのと内容的に同じである。本来の命は死に飲み込まれないのであるから、永遠なのである。また、本来の命を得ることは、死すべき命が死んで甦ることであるから、命を得ることと甦ることとは同じだと捉えて良い。
さて、人がこの命を取り戻すのは信仰によってであるが、確かに、信仰によってでなければ取り戻せない。昔から洋の東西を問わず、不死の生命を獲得する薬はないかと尋ねまわった人がいる。あるいは、永遠の生命を褒美として神から賜わるだけの良き行ないはないものかと探求した人がいる。そういう人たちは真摯な探求した果てに疲れはてて死んだ。
生きる道は何かの薬品によって、あるいは何かの術や修行の努力によって獲得されるのではなく、聖書が言うように、信仰によって神から与えられる。では、信ずる人は一心に信ずれば永遠の命に入るのか。そうではない。それは魔術師が呪文を唱えるのと同じく迷信に他ならない。信じて生きるとは、神が我々の「命の君」として与えて下さったイエス・キリストを信じ、それによってキリストにある命に与ることである。キリストは「私のおる所にあなた方もおらせる」と言われたが、彼の復活の命に与って我々も生きるのである。31節に「そう信じて、イエスの名によって命を得るためである」と言うのはこれである。ただもう一心に求めて行けば、その信念の力によって道が開けるというようなものではない。どんなに真剣に努力しても何も開けない。神から遣わされた御子が我々のために死に、我々のために死に勝つ命を復活によって勝ち得て下さったから、それに与って我々も生きるのである。永遠に至るにはこの道しかないのである。
だが、「これしかない」と言われても、この道もまた架空のものではないのか、と恐れる人がいるかも知れない。自分では一心に信じて疑わないから確かだと言い張っても、自分でそう思っているに過ぎないのではないか。いや、そうではない。この道の確かさについては我々が自ら確かめることの出来る証拠がある。ヨハネは手紙の中で言っている。「私たちは、兄弟を愛しているので、死から命に移って来たことを知っている。愛さない者は死のうちに留まっている」。これは第一の手紙の3章14節に記された言葉である。
だが、愛があるかどうか点検されると、失格するのではないかと心配する人があろう。そこで、愛が神から来るということもシッカリ捉えて置かねばならない。我々にはないけれども、神から来るのである。それを受け止めるのは信仰である。
主イエスは福音書の13章34節-35節で、「私は新しい戒めをあなた方に与える。互いに愛し合いなさい。私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによって、あなた方が私の弟子であることを、全ての者が認めるであろう」と教えられた。この言葉のように、弟子たちが互いに愛し合うならば、彼ら自身、死から命に移っていることを自分で確認し、人に証しすることが出来る。
さて、信じるとはどう信じることなのか。人々はいろいろなことを、いろいろに信じ、自分は一心に信じているから、この信仰は間違いないのだと自分に言い聞かせている。しかし、何を信じようと、一心籠めて信ずれば良いのか。そうではない。ひたすらに信じたけれども、何にもならなかった例も多い。これが正しい道であると信じて疑わなかったなら、正しい道になるのか。間違った道は、どんなに真剣に歩んでも、間違いは間違いでしかなく、滅びに到達するほかない。信じ方が真剣であればよいというのでなく、信じられている事柄が正しくなければならない。
すなわち、偽りなき神が差し出したもう唯一の道にしたがって信じなければならない。それは31節で言われるように、「イエスは神の子キリストである」と信ずる信仰である。キリスト教会の信仰告白の最も基本的な型として、このほか、「イエスは主なり」とか「イエス・キリストは主なり」という形である。本質的に同じである。
ヨハネ伝で、このことをずっと学んで来たのを思い起こそう。第1章で先ず、エルサレムのユダヤ人が、バプテスマのヨハネのもとに祭司とレビ人を派遣して、「あなたは何者なのか」と問わせた。その時、ヨハネは「私はキリストでない」と答えたと記されている。つまり、ヨハネが大きい影響力をもって活動を始めた時、ユダヤ人の中の権威者はヨハネがキリストではないかと心配し、動揺したのである。
このバプテスマのヨハネはイエスを見た時、同行する弟子たちに「見よ神の小羊」という聞き慣れない象徴的な言い方をする。これがキリストを意味することはヨハネの弟子には分かった。だから、そのスグ後、アンデレは兄弟シモンに会って、言った。「私たちはメシヤに今出会った」。次の日、ピリポが弟子となり、ピリポが友人のナタナエルをキリストとの出会いに引き入れる。ナタナエルは、「あなたは神の子です。イスラエルの王です」と告白する。ここでイエスを神の子キリストと告白する信仰共同体が結成されたとはまだ言い難いのであるが、初めからその方向に向けて歩み出していることが分かる。
途中のことを全部語っている時間はないが4章のサマリヤの女の物語りには触れた方が良いであろう。彼女は主イエスに言う、「私はキリストと呼ばれるメシヤが来られることを知っています。その方が来られたならば私たちに一切のことを知らせて下さるでしょう」。イエスは女に言われた、「あなたと話しをしているこの私がそれである」。この女性がイエスはキリストなりと信じて告白したとはまだ言えないが、門前まで来たのだ。したがって、弟子の中で一番グズグズしていたトマスの告白をもって主イエスの弟子教育は完成したのである。
ところで、キリスト、あるいはメシヤ、これを信じると言う人は非常に多いのである。メシヤ教という名の宗教はあちこちに看板を掲げている。それは今取り上げない。聖書の民の中には、来たるべきメシヤを待ち望む人が当然多くいた。そこでキリスト、メシヤと呼ばれているものは、いろいろあった。主イエスご自身、マルコ伝13章21節に、「誰かがあなた方に、『見よ、ここにキリストがいる』。『見よ、あそこにいる』と言っても信じるな」と警告しておられる。キリストという名を唱えておれば信頼して随いて行って良いということにはならない。キリストだと名乗る者のうちにも紛い物が沢山ある。
ナザレのイエスだけがキリストなのである。そのお方だけが「私は道であり、真理であり、命である。誰での私によらないでは、父のみもとに行くことはできない(14章6節)」と言い得たもう。
「イエスはこの書に書かれていないしるしを、ほかにも多く、弟子たちの前で行なわれた」。だが、多くのしるしの記録は省略された。必ずしも多くを書き連ねなくても良いからである。見ないで信じる者は幸いだと言われる時代が始まったのである。あなた方がイエスは神の子キリストであると信じ、告白し、このキリストによって永遠の命に入れば良いのである。