2004.09.05.

ヨハネ伝講解説教 第200回

――20:23によって――

 復活の主が弟子たちに使命を与えたもうことについて、ヨハネ伝の学びによって、我々にはある程度、道筋が見えて来た。すなわち、第一に、「聖霊を受けよ」と言われ、また息を吹き掛けることによって、神の息である聖霊が、約束通り来たことを分からせておられる。

 第二に、そのすぐ前で、「父が私をお遣わしになったように、私もまたあなた方を遣わす」と言われた。聖霊を送るという約束の実現が先か、使徒の派遣が先か、これはどちらを先にしても良い。

 そういうことを教えられて来たのであるが、派遣されて、行った先で、果たす使命の中味が何であるかについて、主はここまでには、何も教えたまわなかった。――と言うよりは、ヨハネ伝の記者が書かなかったと言った方が適切かも知れない。

 今回学ぶところで与えられるのは、「罪の赦しの福音」を宣べ伝える使命である。ただし、「罪の赦しの福音を宣べ伝えよ」と言われたのでない。もっと短く「罪の赦しを与えよ」と言われたのでもない。「あなた方が赦す罪は、誰の罪も赦され、あなた方が赦さずに置く罪はそのまま残るであろう」と言われる。使徒たちのなす業の結果について、その有効性の約束が語られるのである。

 「罪の赦し」がイエス・キリストの教えの中心であり、最も顕著な特色であることは広く知られている通りである。ところが、ヨハネ伝では、ここまでの所に、「赦し」とか「赦す」という言葉が使われたことはない。――もっとも、「罪の赦し」という言葉はなかったが、顕著な事実はあった。そのことについては暫く後に触れるが、この用語がここまでにないことは確かである。

 ということは、他の福音書記者にとって、「罪の赦し」は非常に大事な項目であったのに、ヨハネにとってはこの「罪の赦し」は重要な教えではなかったということなのか。そのように論じている学者もいる。我々も、これまで学んだところにしたがって理解する限りは、この「罪の赦し」を殆ど見落としてしまうかも知れない。

 しかし、その理解ではいけないということが、今日の箇所からハッキリして来る。ヨハネは福音書を書く時、この大事な項目を、隠したというわけではないが、ここまでは資料集の中にしまっていたのである。主イエスは「罪の赦し」について教えておられたに違いない。しかし、ヨハネは記録の配列を考えて、教えのこの項目をここまでは持ち出さなかったのである。

 何故か。いろいろ難しく論じる人がいるが、複雑に考えるには及ばない。ヨハネは、罪の赦しが、キリストの復活と結び合わされてこそ、的確に把握されるということを知っていたからであろう。そのことを、もう少し詳しく考えて見よう。

 ヨハネ伝以外の三つの福音書を見ると、罪の赦しの重要性を知らず、罪を裁くことばかり真剣に考えていたパリサイ人に対し、主イエスは真っ向から対決したもうた記事が出ている。主イエスはこれまでユダヤの社会の中で見捨てられていた罪人を、排除せず、人間として復権させ、受け入れたもうた。

 我々は、自分自身が罪人であり、しかし、義にして聖なる御子キリストによって、自らも神の子として父からまた御子から受け入れられていることを信じるに至った。福音書において、罪人や、取税人や、罪の女がキリストから受け入れられている場面を読む時、我々は自分自身が受け入れられているということことをこれらの実例によってよく理解するであろう。

 そこからまた、我々は、赦された者が、自分に負い目のある他の人を赦さなければならないことも悟るのである。人から負債を取り立てることに熱心でありながら、自分の負債が免除されていることをまるで忘れていて、赦そうとしない人は、赦しを受ける資格を失なうということも重要な教えである。それらは確かに最も重要な項目である。「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪を赦したまえ」という祈りは欠かすことが出来ないのである。

 ところが、ヨハネ伝ではそれとは一見違った教え方をする。「罪の赦し」は、主が復活の後に初めて語りたもうたかのように書かれるのである。しかし、そのような見掛け上の違いによって我々が混乱することはないはずである。すなわち、復活の主が語りたもうからこそ、「罪の赦し」は、丁度、明るい光りによって隅々までが照らされるように、良く分かるという面があるからである。

 「罪の赦し」という項目は、実行しやすいかどうかの問題は別として、またその本質が本当に理解されたかどうかは別として、比較的分かり易いと見られている。けれども、そのように見るとき、道徳の教えの中でもかなり重んじられている「寛容」とか、「思い遣り」とか「優しさ」と混同される場合が少なくない。それで分かったと思われては、罪の赦しの確かさも、「赦し」が「再生」と結び付いていることも、見落とされてしまう。死人のうちから甦りたもうたお方と共に生きることのうちにこそ、罪の赦しがあるということを把握しなければならない。

 赦しという言葉は出て来ないけれども、顕著な事実がある、と先に言ったが、どの事件を指しているかに気付いている人は少なくないと思う。それはヨハネ伝で言えば、8章の初めから11節までの、姦淫の女の事件である。ヨハネ伝の中でも特に感銘深く読まれている箇所である。主は「赦す」という言い方ではないが、「私もあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」と言われた。

 「今後はもう罪を犯さないように」という御言葉は、単なる助言ではない。「あなたを罪に定める資格を持つのは私だけであるが、その私はあなたを罪に定めることはしない」。これは力ある宣言として受け取らなければならない。

 「七度を七十倍するまで赦せ」と言われた御言葉が胸に残っているため、我々は罪が繰り返し犯され、繰り返し赦される、それが当然なのだ、と考えやすい。これが赦しの一面であることは確かで、特に他の人の罪を我々が赦す実践にキチッと適用しなければならないのは確かである。しかし、罪の赦しの本質がそのようなものであると理解しては、大きい間違いである。なぜなら、「罪の赦し」は、イエス・キリストがご自身の死をもって我々のために勝ち取りたもうまでは、我々にとって無縁のものであった、そのようなものだからである。

 罪の赦しの本質は、義と認められることであって、義でない者が神の真実とキリストの義に与ることによって義とされるのであるが、これには「今後はもう罪を犯さないように」という御言葉に結び付いている。薬を飲めば症状が収まるが、薬が切れるとまたおかしくなる鎮静剤のようなものとして罪の赦しを理解してはならない。そのようなことのためにキリストがただ一度死にたもうたのではない。

 だから、主が「七度を七十倍するまで赦せ」と言われたことは確実に守らねばならないのであるが、本来の赦しがダラダラと無際限に繰り返されるべきものであると理解してはならない。「罪の赦し」は「再生」、「生まれ変わり」、すなわち、一たび死んで新しく生まれることと、全く同一だと思ってはならないのであるが、両者の間には確かな結び付きがあって切り離さない。

 すなわち、我々の再生は始まったのである。まだ完成していないから、時として罪がたけだけしく荒れ狂うことは繰り返され、赦しも繰り返されるのであるが、これは健康な肉体がしばしば病気になり、それがまた癒されるのと似ている。ただし、病いと癒しの繰り返しの果てについに死んで行く、その肉体をモデルにしたものではない。罪の赦しは永遠の生命の賦与の始まりなのである。それを確かめるためには、イエス・キリストの復活に行かなければならない。

 罪の赦しを理解する一つの道として、イエス・キリストが生前、人々の間に生き、彼らと交わりを持ちたもうた場面を聖書から読み取ることは有益である。だが、それだけでなく、このお方が死んで甦りたもうたお方であること、そのような彼の存在から罪の赦しが本来来ていることを読み取らなければならない。したがって、罪の赦しについて教えられる機会が、復活の後まで延期されていた理由を悟らなければならない。

 ヨハネ伝8章の記事に戻るが、この記事については、やや面倒な説明を語らなければならない。かなり常識化していることであるが、ヨハネ伝の古い写本の中には、この部分が欠けているものがある。それも、写本としては最もランクの高い写本であって、書き写す時に落としたというようなことではない。文章の続き具合を考えて見ても、もともとのヨハネ伝にはこの部分はなくて、7章52節から8章12節に続いていたらしいのである。

 我々の間には、この姦淫の女の記事は信憑性がない、などと言う人はいないであろうから、複雑な釈明を加えることは却ってマイナスかも知れない。また、罪の赦しが主題である出来事の記事が8章に入って来ても、人々は違和感を持たずに受け入れていた事実があるから、我々も全く問題を感じなくて良い。こういう込み入った話になって来たのは、罪の赦しを復活の光りのもとでこそ理解しなければならないと示すためであったのだから、ヨハネ伝8章のテキストがもともとどうだったかの問題に触れる必要はないのである。ただ、この部分は、由来を明らかにすることが誰にも出来ず、しかもこの本文そのものは資料としての信憑性がかなり高いということは確かであるから、この部分を黙殺することは出来ないのである。

 今日学ぶ「罪の赦し」について、もう一つ重要な点を考えなければならない。すでに見た通り、他の福音書の記事では、我々が赦されることと、我々が赦すこととが結び付いているという実践的側面が重要であった。今日学ぶところはどういう視点から見た罪の赦しなのであろうか。

 「あなた方が赦す罪は、誰の罪でも赦され、あなた方が赦さずに置く罪は、そのまま残るであろう」。

 「あなた方が赦す罪は、誰の罪でも赦される」とイエス・キリストが言われたのは、どういう赦しであろうか。「あなた方から借金をして、その借金を踏み倒して行く人がいても、許してやりなさい。この世では、借りた物は返さねばならない、損なった物は償わねばならない、というのが原則になっているが、あなた方の間では、償いを求めないで、惜しみなく与え合いなさい」。そういう主旨の教えを与えたもうたのであろうか。一顧の余地もない無意味な解釈だとは言わないが、ここで主がそのように命じたもうたと解釈するのは無理である。

 「あなた方が赦す」と言われたのは、あなた方が私から託された務めとして「罪の赦しを宣言する」ということである。私人として惜しみなく赦しを与えよ、という意味ではない。ヨハネ伝ではここに至るまでは殆ど聞かなかったのであるが、記録として書かれていなくても、イエス・キリストが罪の赦しを宣言しておられたのは事実であると我々は考えている。マルコ伝2章のはじめに書かれている中風の人の癒し、これは癒しの奇跡として理課されている場合が多いと思うが、この奇跡の前に、主イエスは「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることが、あなた方に分かるために」と前置きされた。すなわち、「罪の赦し」こそがここでは主題であり、中風の癒しはそのことを分からせるための徴しなのである。

 今や主は、ご自身こそが持ち得る「罪の赦し」の権威を、使徒たちにも持たせ、これを行使させようとしておられる。それが、先に見た、息を吹き掛けて「聖霊を受けよ」と言われたことの内実なのである。

 では、罪の赦しはどのようにして行使されるか。――ある王が国のうちに何か目出たいことがあった場合、あるいは何か然るべき理由があった場合、恩赦を実施する。囚人たちは解放される。また、旧約の律法の中には「ヨベルの年」の規定がある。安息の年を7回数えた次の年、50年目の7月10日、ラッパが吹き鳴らされ、奴隷は解放されてそれぞれのふるさとに帰って行く。こういうことが来たるべき神の国の、徴し、予兆、象徴として規定されていた。その約束の成就はイエス・キリストの来臨によって始まったのである。だから、主イエスは「時は満ちた。神の国は近づいた。あなた方は悔い改めて福音を信ぜよ」と宣言された。神の国の到来は、福音の宣教によって告知される。それはまた、悔い改めよ、という宣言や、あなたの罪は赦されたという宣言に置き換えても良い。

 ヨハネ伝で「キリストが栄光を受けたもう」と言われているのもこれを同じことである、キリストは十字架の上で全てを全うし、栄光を受けたもうたが、そのことは彼の復活までは知られていなかった。彼の復活によって、約束の成就は明らかになった。そこで、使徒たちの派遣による宣言が始まる。

 ただし、それは無造作に把握された解放の宣言ではない。全き完成に向けての最終段階が始まったのであるが、終わりの終わりはまだ来ていない。その時が来るまで、福音が語られ、それが信じられて、悔い改めが起こる、という形で神の国の成就は進んで行くのである。

 今や福音を宣べ伝えるのは、使徒たちである。主イエスの肉声はもう聞くことは出来ない。彼らが主に代わって、「福音を信ぜよ」と呼び掛けるのである。これは信ずべき言葉であることを裏書きするために、主は「あなた方が赦す罪は誰の罪でも赦される」と言われる。

 これと良く似た言葉を思い起こそう。マタイ伝16章19節で、主イエスはペテロにこう言われる。ペテロがあなたはキリストですという告白を捧げたのに応えての御言葉である。「私はあなたに天国の鍵を授けよう。そして、あなたが地上で繋ぐことは天でも繋がれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」。

 似ているというよりは、同じ主旨の言葉である。主はペテロだけでなく、全ての使徒に天国の鍵を授けたもうた。天国の鍵とは人を天国に入れる権能である。これは、その人が天国に入るかどうかを決定する裁判権のことであると主張する人がいるが、その解釈は間違っている。この権能は福音そのものにある。

 地上において福音を聞いて受け入れた人は、地上にいながら、謂わば天国の鍵を開けてもらったのである。その逆に、福音を信じない者は天国の鍵を閉じられたのである。福音そのものに地上で解くことは天でも解き、地上で罪の赦しを宣言すれば、それが天における赦しとなる権能がある。その福音が使徒に委ねられたのである。

 

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