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ヨハネ伝説教 第2回

――1:1-3によって――

 3節に「全てのものは、これによって出来た。出来たもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった」と述べられている。
 「出来た」とは、「造られた」、「創造された」という動詞と同じ単語ではない。だが、ここではそれらと同義語として用いられている。言葉についての議論は今は省略して良いだろう。ここで言われている意味が我々にどう関わっているかを考えて見よう。
 全てのものは造られたのである。それ自身によって初めからあったものは神のほかになく、初めより前には何もなかったのである。無だったのである。無から全ては造られたのである。我々も造られたものであるが、我々の目の前に聳え立つ山々も、我々を呑み込む大海も、我々を威圧する権力も、みな造られたものである。それらに対して畏敬の念を持つには及ばない。造り主だけを恐れれば良い。
 全てのものは被造物であるが、初めに神と共にあった言葉、この言葉によって造られた。すなわち、偶然に出来たものではない。造り主の意に反してトンデモナイものによって出来たのでもない。詩篇33篇6節に「もろもろの天は主の御言葉によって造られ、天の万軍は主の口の息によって造られた」と讃美されているが、御言葉から離れたところに天や地があって、動いているのではない。創世記1章では、天地創造が御言葉によるという書き方はしていないと思われるかも知れないが、先ず、「神は『光りあれ』と言われた。すると光りがあった」と光りの創造を語っている。神が言われると、その通りになる。それが創造である。神の御手が造った、というような表現もあることはある。それは人間になぞらえてそう言ったのであって、言葉によって造ったという方が本来の言い方である。
 今、詩篇33篇から引いた聖句の中で、「天の万軍は主の口の息によって造られた」とも言われたことに一言だけ触れておく。これは前段後段が対句になっていて、同じ意味の言葉を繰り返したものであることは言うまでもない。前段で「天」と言ったところを後段では「天の万軍」と言う。万軍は天の御使いの軍勢と取って置いて良いであろう。前段で言葉と言ったところが後段では「口の息」と言われる。これは「言葉」と同じと見て良いのであるが、「息」には「命」また「霊」という意味があることを思い起こしておこう。今これ以上詳しくは触れないで置くが、神の言葉と神の霊とは結びついている。
 言葉によって万物が造られたことは、創造の説明であるだけでなく、我々の信仰の支えである。一つには、造られた万物は御言葉から離れられないということが確かであるから、我々は天と地が神の意志に反して何かをしでかすかも知れぬと思い悩むことは要らない。もう一つ、万物は御言葉によって造られたのであるから、それの存在意味を御言葉から読み解くことが出来るのである。すなわち、信仰によって万物を捉えるのである。ヘブル書11章3節が「信仰によって私たちはこの世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現われている物から出て来たのでないことを悟る」と言う通りである。
 コロサイ書1章16-17節に「これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである。彼は万物よりも先にあり、万物は彼にあって成り立っている」と言っていることを思い起こさねばならない。万物の意義付けが出来る。 神が世の初めに、ご自身の知恵である御言葉によって全てを造りたもうたことは、前回見た通り、箴言8章で語られているところであって、聖書に親しんだ人ならば、素直に受け容れるであろう。しかし、聖書に親しんでいる人には、イエス・キリストの己れを低くされたみ姿が直ちに思い浮かぶために、彼によって全ての物が創造されたと信じるに非常な困難を覚える場合がある。
 すなわち、我々が福音書によって捉える主は、おおむね、謙りの姿を示しておられる。彼は最も小さいものの側に立っておられる。「人の子が来たのは、仕えられるためではなく、仕えるためである」と言われる。その教えが我々にとって分かりやすかったとは言えない。これを受け容れるまでには抵抗があった。それでも、とにかく抵抗を乗り越えて、低くなりたもうた主を受け容れ、己れもまた低くなることを学んだのであるが、今また新しい困難に出会っている。「彼によらないでは何一つとして造られなかった」。これを素直に受け容れるに困難を感じる向きがあるに違いない。
 主イエス・キリストは「人の子は枕する所がない」と言われ、「我かわく」と言われ、「私は悲しみの余り死ぬほどである」と言われ、ローマの兵士とユダヤの民衆から嘲弄され、鞭打たれ、唾を吐き掛けられた。そういう方が万物の創造者の側に立っておられると信じられるか。
 お伽話の世界に浸っているのではないのだ。お伽話に入り込めば、心が休まるかも知れないが、それは一時のことで、人はその世界を出て現実世界に戻って行かなければならない。そこではお伽話は全然通用しない。それでも良いではないか。ひとときのくつろぎも意味があるではないか、と言う人はいる。もっともらしく聞こえる。だが、それが福音の意味であろうか。それでは、憂さ晴らし、あるいは現実逃避に過ぎないのではないか。現実と違う世界を作り上げて、時々そこに息抜きに逃げ込むことが信仰生活であろうか。信仰生活をそのようなものと捉えている人が少なからずいることは事実である。そういう人を相手に成り立っているのが現代のキリスト教であるかも知れない。しかし、イエス・キリストの教えはそういうものではなかった。教会の外に一歩出れば役に立たなくなるものを教会の中だけで観賞しているのではない。
 「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、仕えることをなし、全ての人の贖いとして自分の命を与えるためである」という御言葉も、お伽話めいたものと感じる人は多い。しかし、ここでは抵抗は比較的容易に崩れる。何故なら、我々自身の現実の弱さ、哀れさ、醜さ、罪深さを見詰めるならば、これは現実離れしたお話しではなく、この者の救いのために、キリストが低くなって悲惨さを共有して下さることがまさに必要だと説得されてしまうからである。
 ところが、「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。この言葉は初めに神と共にあった。全てのものは、これによって出来た。出来たもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった」と聞く場合は違う。これをお伽話として受け容れるというなら、それほど困難ではないであろう。お伽話として、あるいは哲学者の講義として、評価して納得するのも、困難ではない。しかし、今、お伽話の世界に遊んでいるのではない。
 ヨハネがその福音書の冒頭で宣言した言葉は、現実離れした神話や哲学ではない。哲学として感心して聞く人はあろうが、救いを求める我々とは縁のない理解である。「初めであり、終わりであるもの」、これは我々にとって極めて現実性のある御方なのだ。その現実性をシッカリ捉えなければ、ヨハネ伝に入って行くことは出来ない。問題はイエス・キリストをどう捉えるかである。
 主イエスがマタイ伝25章31節以下で語っておられる最後の審判の教えが感銘深く思い起こされる。「人の子が栄光の中にすべての御使いたちを従えて来るとき、彼はその栄光の座に即くであろう。そして、全ての国民をその前に集めて、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らを選り分け、羊を右に、山羊を左に置くであろう」。
 彼はここで、ご自身を裁きの座につく王として描きたもう。最早、謙った、十字架を負った、鞭打たれても黙っている「苦難の僕」の形ではない。人の子が栄光の中に全ての御使いたちを従えて来臨し、裁きの座につく、それはお伽話として、夢として語られたものではない。彼を信ずる者はこれを来たるべき日に必ず成就する現実として把握する。ところで、この最後の審判の説話において我々が注目するのは、彼がご自身を二つの姿で示しておられることである。一つは、王として栄光のうちに裁きの座につき、裁きを遂行したもう姿である。もう一つは「最も小さいもの」それが私であると示しておられる点である。
 人々に蔑まれ、あらゆる苦難を負わせられた彼が、逆転して王座についておられることが一つの驚きである。それとともに、「よもや」と思われる最も小さい、目に留めるに価しないとされる者が彼であるということも驚きであろう。そしてこの二つの地位が一つに結びつけられていることも、ここでは重要なのである。
 栄光のうちに御使いを引き連れて来て、裁きたもうこと、それだけでも絶大な意味を持つのであるが、それだけを、切り離して取り出してはならない。また、最も小さい者の一人にしたことが私にしたことであり、最も小さい一人にしなかったのは私にしなかったのである、と言われた点も忘れてならないのだが、これだけを切り離して強調してもならない。この二つは一つのものの両面として同時に把握しなければならない。
 「私は初めであり、終わりである」という主ご自身の宣言が黙示録に記されるが、今マタイ伝25章で見た裁き主は「終わり」の主の栄光を指す。彼は終わりの日に全てのことに決着をつけたもう。人は何事によらず、たとい自分自身に関する最も小さい事柄についても、最終決着をつける権限を持たない、ということを思い知らなければならない。それと並んで「初め」の主の栄光が捉えられねばならない。今日ヨハネ伝の初めで学んでいるのはそのことである。
 「初めにあったもの」、「万物がそれによって造られ、それなしでは何も造られなかったもの」、この初めのことを理解しようとする時、我々は先に「終わりの日」の裁きについて学んだことをここに当て嵌める。すなわち、最も小さいものとの関わりである。小さいものを無視して、大きいものにだけ目を注ぎ、それだけを受け容れる態度では、初めにあったものは掴めない。
 それでは初めにあったものとの関わりで見なければならない最も小さいものとは何か。最も小さい被造物か。そのように解釈して、最も小さい被造物における創造の御業を考えるのも適切である。また、最も小さいのは私自身だと捉えるならば、創造の理解はさらに深くなる。しかも、最も小さい者となりたもうた人の子を考えるならば、さらに深い把握になるであろう。最も大いなるものと最も小さきもの、さらに言えば、最も大いなる最初のものでありながら、最も小さき者となりたもうた御方を捉えなければならない。
 聖書は、我々にキリストを教えるが、キリストの一面だけを教えるのではない。一度に幾つものことを教えるわけには行かないから、たいてい、一回に一面だけを学ぶに終わるが、我々の学びは一回で完結するのではない。回を重ねて我々はキリストの全体、その満ち満ちた充満の把握に到達するのである。聖書の中から好きなところだけを拾い読みする人は、キリストの全体像を捉えていないかも知れないと謙虚になって、自己吟味しなければならない。
 今回のところで大事なのは、キリストの栄光であるが、第一に、彼が世の初めに持ちたもうた栄光を見るということである。第二に、14節にヨハネは「そして言葉は肉体となり、私たちのうちに宿った。私たちはその栄光を見た」と言うが、これは肉体となる以前の栄光でなく、肉体となった形においてその栄光を見たと言うのである。
 旧約聖書の中には、神の栄光が現われたとの記録が屡々あるが、それらは昔の記録である。例えば、イザヤはエルサレムの宮の聖所で神の栄光を見た。エゼキエルはバビロンの囚われの地、ケバル川のほとりで、神の栄光を見た。それらの事実はこの人たちの救いに関しては重要な要素であったが、我々の救いに関しては、肉体をとりたもうたイエス・キリストにおいて神の栄光を見るのでなければ現実性を持てない。
 福音書に書かれているキリストは、おおむね栄光を隠しておられた。しかし、全く隠し通されたのではなく、時にそれを示しておられる。これは福音書を読んで行く時の大事な心得である。例えば、ヨハネ伝2章11節、ガリラヤのカナで婚宴の場を最初の奇跡によって祝福して、栄光を顕わされた。そして、受難と復活において栄光を示したもうた。その栄光の現われを見落とさないで読み取って行こう。
 さて、キリストの栄光が最も分かりやすく示されているのが、死んで三日目の復活においてであることは多くの人の同意するところであろう。だから、主の復活の栄光を我々は物語りとして記憶しているだけでなく、心に刻んでいなければならない。栄光の主を受け容れて初めて、我々は世の初めからいますキリストを信じたと言えるのである。この「栄光」がヨハネの福音書の最も大事なキーワードであって、これを読み取らなければ、ヨハネ伝を読んだことにならない。
 「栄光」という言葉は聖書の至るところにあり、全ての福音書にもあるが、他の福音書では栄光は必ずしもテーマになっていない。むしろ、栄光を隠されたことがテーマだと言う方が適切であろう。栄光を隠されたことも大切であるが、今はヨハネ伝でキリストの栄光の輝き出ているのを読み取らなければならない。
 ところで、復活はキリストの栄光を分かりやすく示したものであるが、復活において初めてキリストの栄光が顕わされたと取ってはならない。カナの婚宴においてそうであったように、幾つかの機会に栄光を見ることが出来たのだ。12章23節に、主イエスが「人の子が栄光を受ける時が来た」と言われる。これは数人のギリシャ人がピリポを介して主イエスに会いたいと申し入れた時に言われたものである。ギリシャ人もキリストの福音を求めて来ている。今こそまさに、キリストの栄光の顕わされる日なのだ、という意味であろうか。それもある、しかしまた、ヨハネ伝では十字架に挙げられることを栄光の顕われであると捉えているので、ここでは、受難の時になった合図だという意味があると取るべきであろう。
 さらに、今の聖句の続きに、12章28節であるが、天から声があって、「私はすでに栄光を顕わした。そして、さらに顕わすであろう」と聞こえた。これは御父が御子の栄光を顕わしたもうことを言うのであるが、「すでに顕わした」とは、これまでの幾つかのこと、特に、少し前のラザロの甦りの事件を指すと考えられる。そして、「さらに顕わす」とはこれから後の、十字架と復活を特に指す。
 12章16節に、「弟子たちは初めにはこのことを悟らなかったが、イエスが栄光を受けられた時に、このことがイエスについて書かれてあり、またその通りに、人々がイエスに対してしたのだということを思い起こした」と記されている。これは過ぎ越しの5日前に、ロバの子に乗ってエルサレムに入城された時の記事であるが、主がロバの子に乗ってエルサレムに入られた時、弟子たちはそのことの意味を悟らず、栄光を見た後で思い起こして悟った。そこで言う「イエスが栄光を受けられた時」とは、復活の時、あるいは復活がハッキリ捉えられ、信じられた時であるとしか言えない。
 キリストの栄光の顕わされた時点がどこであるかは、必ずしも単純・平明ではない。というのは、栄光が顕わされていても、信じなければ、顕わされていないのと同じだからである。11章40節で主イエスはベタニヤのマルタに語りたもう。「もし信じるなら、神の栄光を見るであろうと言ったではないか」。これはご自身がラザロを甦らせて、栄光を顕わすが、あなたは先ず信じなければ栄光を見ることは出来ない、と言われたのである。
 栄光が顕わされ、栄光に打たれて信じないではおられなくなることも一面の事実であるが、信じて仰ぎ望む目に、栄光が顕わされることも確かである。我々は天地の創造に関わりたもうたキリストの栄光を見る
1999.04.18.

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