2004.08.22.


ヨハネ伝講解説教 第199回

――20:21-22によって――

 

 「イエスはまた言われた『安かれ』」。
 前回学んだ19節にもこの言葉があった。「安かれ」と先に言われたのは、復活者としての出会いをされた時の挨拶言葉であった。弟子たちが恐れていたのに対し、こう語りかけたもうたのである。「安かれ」平安、という言葉が、その言葉の本来の意味をここで最もよく発揮した形で語られたと我々は感じ取った。
 「平安」という語、それが人と人との間で語られるに相応しい言葉であると我々は十分承知している。けれども、「平安」という言葉にまして、空しく鳴り響く言葉も少ないのではないか、とも我々は感じている。口で「平安」と言っても、心では相手に敵意を抱いている場合があるし、相手の平安を望んではいるが、自分自身平安を失って、到底平安を送る資格がない場合もある。だが、死に勝利したもうた方、しかも我々のために勝利したもうた方が、「平安」と言って下さる。そこには言葉の力を空しくする要素は何一つないのである。
 先に、14章27節で、主イエスは「私は平安をあなた方に残して行く。私の平安をあなた方に与える。私が与えるのは、世が与えるようなものではない」と言われた。そのことを思い起こそう。それはこの世の平安ではない。
 14章で語られた時、それはまだ復活以前、いやそれどころか、苦しみを受けたもう以前であったが、すでに言葉として完璧にその意味を備えたものであった。言葉の意味はそれで十分受け取れる。ただ、受け取る側の弱さの故に、聞いても内容は聞き取れなかったし、認識が出来なかった。しかし、復活の主が彼らの前に現れて、「平安」と語りたもう時、弟子たちは、その言葉を単に聞き取る、単に理解する、というだけでなく、その言葉の力に動かされた。
 そこまでは多くの人が同意して、身につまされて聞いてくれるであろう。しかし、ここからが大事である。ここで足踏み状態になってはならない。主はもう一度「安かれ」と言われる。大きく動き出すのである。それは、同じ言葉であるとはいえ、同じことの繰り返しではない。ずっと前進してキャッチしなければならない。いや、聞き取るだけではいけない。聞いて、そこでまた足が止まってしまうということにはならない。そこから、新しい展開が始まるのである。
 「イエスはまた彼らに言われた、『安かれ。父が私をお遣わしになったように、私もまたあなた方を遣わす』」。
 「父が子である私を遣わしたもうた。それと同じように、私が弟子であるあなた方を遣わす」という主旨の教えを我々は何度か聞いた。それは13章までは出て来なかった。そこまでは、主イエスご自身が遣わされた方であることが専ら語られたのである。別れの時が近づいているので、主が去って行かれた後、彼らは孤児になるのでなく、遣わされるのだと教えたもう。キリストからの派遣は本格的には始まっていなかった。主は復活によって、派遣を開始したもうた、と見るべきであろう。
 我々はすでに気がついているが、4つの福音書が必ずしも同じように主の復活を語っているわけではないけれども、どの福音書にも、復活の主による派遣の実行が記されている。すなわち、マタイ伝では28章18節以下に、「私は、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。それ故に、あなた方は行って、全ての国民を弟子として、父と子と聖霊の名によって、彼らにバプテスマを施し、あなた方に命じて置いた一切のことを教えよ」と言われる。
 マルコ伝では、16章15節で、「全世界に出て行って、全ての造られたものに福音を宣べ伝えよ。信じてバプテスマを受ける者は救われる。しかし、不信仰の者は罪に定められる」と言われた。
 ルカ伝では、命令という形でなく、預言の成就の宣言として、24章46節以下に言われる、「こう記してある。キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中から甦る。そして、その名によって罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。あなた方は、これらのことの証人である」。
 復活によって大団円に達したというふうに聖書を読んではならない。十字架において全ては成就し、復活によって勝利が明らかになり、救いの歴史の新しい段階が開けたのである。派遣の時代である。使徒行伝も使徒の手紙もその新しい段階を描いている。
 「派遣」ということに関して、他の3つの福音書では、受難以前の段階で、12弟子の派遣が実行されたことが語られていたことを思い起こす人もあろう。ルカ伝ではさらに70人の弟子の派遣についても語っている。しかし、以前の派遣は本格的な派遣でなく、謂わば伝道実習であった。12弟子の派遣は「異邦人の道に行くな」と言われたように、国内伝道の実習であったし、70人の派遣は世界伝道を念頭に置いたものであった。イスラエルを巡り尽くさないうちに終わりの日が来るかも知れないという切迫感はあったのであるが、この実習が終わると、また前のような訓練に戻った。
 主が復活したもうたことと、弟子たちが派遣されることとは確かに別の事柄である。けれども、切り離せないのである。主が甦りたもうたのは、第一に、十字架において完成した勝利をさらに輝かしく示すためであるが、また、弟子たちを派遣するためであったと理解して良いのである。主が栄光を受けたもうて、それで御霊が下り、派遣が実現する。主が十字架の上で「全ては終わった」と確認したもうたこの新しい事態のなかで、弟子たちは以前と違った在り方をするようになっている。それを「派遣」という言葉で総括するのが適切であろう。
 派遣という言葉は旧約にも少なからずある。神は預言者を遣わしたもう。また、御使いを遣わしたもう。イザヤ書52章7節で、「良きおとずれを伝え、平和を告げ、良きおとずれを告げ、シオンに向かって『あなたの神は王となられた』と言う者の足は山の上にあって、何と麗しいことであろう」と言われるのは、派遣される者についての預言である。
 旧約においては、遣わされることは、基本的には来たるべきことの預言として語られるのである。旧約の歴史では、イスラエルの選びは教えられたが、イスラエルの派遣は非常に朧気な形においてしか語られなかった。キリストが肉体をもって世に来たりたもうたことが神のなしたもう派遣の業の初めであって、そこから派遣の時代に入ると聖書は言っているようである。
 では、いよいよ派遣の時代に入ったとして、派遣されるのは誰か。12人の使徒だけなのか。「使徒」という言葉は、遣わされた者という意味であり、彼らは主からじきじきに派遣命令を受けたのであるから、使徒だけが派遣されるという見方は確かに成り立つ。しかし、使徒は初め12人であったが、数はその後増えている。しかし、無制限に増えて行くのでもなく、使徒と呼ばれる資格のある者は限られていた。使徒時代に、使徒とほぼ同じ務めを持つ伝道者として「預言者」と呼ばれる人がいたが、この人たちも主から遣わされた人であった。
 そこまでが遣わされた者なのか。ここで見解が分かれる。遣わされた者とは任命された務めにある者だけであって、それ以外の信者は遣わされた者ではない、という解釈がある。それに対して、全てのキリストの民は、キリストの復活に与っている以上、遣わされた者なのだという主張がある。どちらが正しいかは難しい問題である。
 旧約の中に派遣の時の到来の予告があると言ったが、それはイスラエルの民の派遣として捉えるべきであろう。古きイスラエルは選び出され、大事に囲いの中に入れられていたが、彼らの派遣はなかった。
 論争して決着をつけることとは違うが、信仰者の生きる命を、遣わされて生きる命と意義づけることは許されているという理解がキリスト者の間で強くなっていることが一般に認められる。使徒職を全ての信仰者が受けているという解釈が、単なる解釈として普及するだけでは空虚であるから、理論倒れにならないようにしたいが、遣わされてこの世で生きるという姿勢は重要である。神の民は恵みへと召されるだけでなく、遣わされるのだ。
 ただし、遣わされた者として生きると取る方が積極的人生観にマッチするから、好ましい、というだけであったなら、それは時代の好みには合っおり、それ故、人々から高い評価が得られるかも知れないが、そのようなことで自分自身が真に命に満ちた歩みが出来るわけはない。拡張主義の時代が過ぎ去れば、枠を拡げて解釈するのを好ましく思う流行はなくなるのである。
 好ましいかどうかでなく、自分が遣わされている事実があるかどうか。それは今生きていることをどう解釈するかではなく、主によって派遣されたという事実があるかどうかの問題である。事実の確認なしで、何が好ましいかによって解釈を選ぶならば、神学者や論争家にはなれるかも知れないが、救いに入れるかどうかは別問題である。
 ここで「遣わす」と言っておられる務めの内容が何かを見なければならない。主イエスは「遣わす」ということを教えたもうたあの最後の教えで、先ず、弟子たちの足をお洗いになったのだから、弟子たちも行って、人々の足を洗うべきではないか、と考える人もいるであろう。あるいは、互いに愛し合えと言われたのだから、遣わされて愛の業をするのか。少し違うのではないか。遜ることや愛することは最も基本的な業であって、これを欠かすことは出来ないのであるが、職務として課せられると言うよりも、当然のことまた基本的なこととして実行すべきである。23節には、「あなた方が赦す罪は誰の罪でも赦され、あなた方が赦さずに置く罪は、そのまま残るであろう」と言われるから、罪を赦し、あるいは赦さないことが使命の核心部になるということが分かる。
 では、「赦す」、あるいは「赦さない」とは、どうすることか。審判者の代理人として、人々の条件を査定し、一人一人に対して、「あなたは赦される」、「あなたは赦しの条件が整っていないから赦されない」というような判決を申し渡すのか。――そうではない。罪の赦しを現実ならしめる力は、福音によって与えられ、その福音を信ずる信仰によって獲得される。したがって、遣わされるのは福音のため、福音を宣べ伝えて信じさせるためなのである。
 そういう解釈はキリストからの派遣を限定し過ぎではないかと言う人もあろう。だが、「父が私をお遣わしになったように、私もまたあなた方を遣わす」と限定して言われるのであるから、父がキリストを遣わされたのが何のためであったかを確定すれば、我々が遣わされて行く目的が何であるかは明らかになる。父なる神は救いを地上に確立するために御子をお遣わしになった。御子も、そのようにご自身に属する者らを世に遣わしたもうのである。
 これは、ご自身の御業にその民の奉仕が参画することを許したもうたということであって、これは人間の事業の発展という意味に取ってはならない。
 13章20節に主イエスはこう教えられた。「よくよくあなた方に言って置く。私が遣わす者を受け入れる者は、私を受け入れるのである。私を受け入れる者は、私を遣わされた方を、受け入れるのである」。20章で今学んでいる聖句と主旨が深く関わるということに気付くのである。なお、17章18節でも似た言葉を語っておられる。父に向けて「あなたが私を世に遣わされたように、私も彼らを世に遣わしました」と言われる。
 この13章20節でも、17章18節でも、主イエスは弟子たちを他日福音の宣教に遣わそうとしていることを前提に語っておられる。その使いを受け入れる人は、彼を遣わした私を受け入れるのだと言われるのである。
 「そう言って、彼らに息を吹き掛けて仰せになった、『聖霊を受けよ。あなた方が赦す罪は、誰の罪でも赦され、あなた方が赦さずに置く罪は、そのまま残るであろう』」。
 息を吹き掛けたもうたとは、聖霊を授けるのがご自身であることを象徴している御業であると思われる。聖霊は神の息吹であると言われ、霊という言葉は息また風という意味の言葉である。
 ここで主イエス・キリストがこのような所作をなしたもうたことによって、弟子たちは即座に聖霊を受けたのであろうか。彼らがこの時聖霊に満たされたならば、21章で見るように、ガリラヤに帰ってしまうということはなかったのではないかと考えられる。すなわち、ガリラヤに帰って魚とりをしているとは、福音宣教のために全世界に出て行くことと一致しないからである。
 ではあるが、弟子たちが使命から全く脱落してしまったと取ることも適切でない。要するに、主の言われたように動き出すには時間が掛かったのである。
 大事な点は、聖霊が送られることと、弟子の派遣が結び付いていることである。主は14章16節で、「私は父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って下さる」と言われた。ご自身が去った後、もう一人の助け主が送られて来る、と言われたのである。「もう一人の助け主」と言われたのは、ご自身が第一の助け主であって、私が地上にいなくなった後に、私に代わる第二の助け主として、聖霊が、民らを完成に導くという含みで言われたのである。
 14章26節では、「父が私の名によって遣わされる聖霊」と言われた。父が遣わされるのであるが、ご自身が世を去って行かれるのと引き替えに、自動的に聖霊が下るのではなく、私の名によってしか聖霊は来ないと言われる。
 20章22節では、聖霊の降臨がご自身からのものであることを、息を吹き掛けるという所作によって象徴したもう。これはまた、罪の赦しの福音が語られるところに、御霊が注がれていなければならない、ということを我々に思い起こさせるのである。御霊を注がれていない者が、勉強して、罪の赦し福音の言葉を間違いなく語っても、罪の赦しは起こらないのである。だから、罪の赦しのための派遣に先立って、御霊を注がれることが必要であった。
 7章37節以下に主は「私を信じる者は、その腹から生ける水が川となって流れ出る」と言われる。このことの註釈として、福音書記者は「イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊がまだ下っていなかった」と説明する。その説明通りであって、主は栄光を受けたもうたから、聖霊を下す者として聖霊降臨と派遣とを実行したもうたのである。
 

目次