2004.08.08.


ヨハネ伝講解説教 第197回


――20:17b-18によって――

 

 復活の主イエス・キリストは、マグダラのマリヤに「私に触ってはいけない」と言われた。このお言葉には、我々がまだ汲み尽くしていない意味が含まれれいるが、とにかく、主は物理的接触を許したまわなかった。触って、確かめて、私が私であることを確認せよ、とは言われなかった。
 マリヤに与えられたのは、いわば伝令の仕事である。見たことを正しく捉えて語れ、と命じられたのでなく、これだけを伝えれば宜しいと言われたのである。「ただ、私の兄弟たちのところに行って、『私は私の父またあなた方の父であって、私の神またあなた方の神であられる方のみもとへ昇って行く』と彼らに伝えなさい」。――この短い御言葉の中に多くのことが含められている。
 「私は……行く」と主は言われた。「昇って行く」という言葉でも同じであるが、この「行く」という一ことについては、すでに14章の初め以来、多くの言葉が語られていることを思い起こそう。14章の初めの数節を取り上げるだけでも、「私は行く」ということの内容が、次々と示されていたのである。「あなた方のために場所を用意しに行く」。「行って、場所の用意が出来たならば、また来て、あなた方を私の所に迎えよう。私のおる所に、あなた方もおらせるためである」。「私がどこへ行くのか、その道はあなた方に分かっている」。
 もう一箇所だけ挙げて置くが、それは16章5節以下である。「けれども、今、私は、私を遣わされた方のところに行こうとしている」。それからしばらく省略するが、7節に言われる、「しかし、私は本当のことをあなた方に言うが、私が去って行くことは、あなた方の益になるのだ。私が去って行かなければ、あなた方のところに助け主は来ないであろう。もし行けば、それをあなた方に遣わそう」。
 すでに学んだところであり、言葉については解説を必要としないほど平明である。読み返してその意味の重大さを改めて悟るのである。
 「行く」ことの意味について、弟子たちは十分教えられたと言うほかないであろう。彼らがそれを本当に理解していたかどうかは別問題である。実際、彼らは理解していなかったと思われる。しかし、主の教えに対する人々の無理解をその都度取り上げていては、学びはなかなか深まらない。彼らの無理解を責めていても、無駄とは言わぬが時間を取りすぎる。こういうことは、「思い起こす」という内なる営みの繰り返しによって、自分を訓練して行けば良いであろう。
 この「思い起こす」ことについても、主は最後の夜の教えの中で何度も言われた。一つだけ挙げて置く。14章25-26節である。「これらのことは、あなた方と一緒にいた時、すでに語ったことである。しかし、助け主、すなわち、父が私の名によって遣わされる聖霊は、あなた方に全てのことを教え、また私が話して置いたことを、ことごとく思い起こさせるであろう」。
 そのように、すでに語って置かれたことが実行されるということを、主はマグダラのマリヤを通じて弟子たちに伝えようとしておられる。
 ところで、「行く」と言われたのであるが、行かれる前に、主は何をしておられたのであろうか。すでに朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリヤが墓に行った時、墓はすでに空になっていた。主は甦ってどこにおられたのか。何をしておられたのか。どういう時間の使い方をしておられたのか。これまでも何度か触れたことがあるが、時間ということを扱うと混乱を起こしやすい。
 甦って、真っ直ぐ、直ちに、父のみもとに昇って行かれるべきではなかったのか。いや、三日目まで待つこともない。ゴルゴタの丘から、直接に天に昇って行かれて良かったのではないか。
 その通りである。十字架の上で「全ては終わった」と言われた言葉は、そのままに受け入れなければならない大事な宣言である。死者の復活のためには、死から命への転換を起こさせる作業のために、時間が必要であったとか、あるいは死からの甦りの時が熟するまで待たなければならなかったからとか、あるいは神の子にこそ備わっている大いなる力を必要としたのであっても、3日目までの時間が必要であった、と考える人がいるかも知れないが、その言い分には殆ど意味がない。
 万事は完了したのである。済んだのである。その後の全てのことは、付け足しであった。すなわち我々のため、悟りの鈍い我々に分からせるためになされたものと理解すべきである。すなわち、キリストが瞬時に成し遂げたもうた御業は、主にとっては一瞬であっても、我々にとっては理解するだけでも歳月が必要である場合が多い。一応分かったことも、それを深め、その確信を固くして行くために、さらに時間を掛けなければならない。それは、我々がしなくて良いことをするのではない。救いの条件として課せられて、果たさねばならないというのではないが、我々にとって意味のある修練である。
 この朝、すでに甦られた主が、なおもグズグズしておられたように見えたとすれば、それは、人間の理解の遅さに合わせるために、待っておられたのである。なぜ待つのか。なぜサッサと事を進めたまわなかったのか。それは、人間に行なわせる証言を、ご自身の御業の間に挿入しようとされたからである。人間が出て来て協力しなければ、主の御業が出来上がらないということでは決してない。人間の協力は全然要らないのである。しかし、主は人間が関わる余地を設けたもう。
 そういうことであるから、人間は、主のなしたもうた御業について、時間を掛けて思いめぐらすことが許され、それを自らの益として喜ぶことが出来る。人間が関わったとて、それで主の御業が捗るというものではない。また一方、人間が深入りして行けば、その分だけ主の御業が減らされ、尊厳を損なうというわけでもない。人は何の功績も挙げられない者でありながら、ある場所を与えられ、ある業に携わり、充実した歩みを許されるのである。それを空しい生涯であったと言うべきではない。
 主は言われる、「ただ、私の兄弟に伝えなさい」。……「私の兄弟」という呼び方がここでは決定的な重さを持っている。思い起こすのであるが、主は先に、15章15節で、「私はもう、あなた方を僕(しもべ)とは呼ばない」と言われた。僕でなければ何であるかというと、それはこの文脈のなかに明瞭に示されている通り「友」なのだ。その場合と似たような状況があることに思い至るのである。
 「友」というのと、今日学ぶ「兄弟」とは別の言葉であるが、ある観点から見るならば極めて近いものである。友ということの本領が発揮される場合について、主は15章12-13節で語っておられる。「私の戒めはこれである。私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」。もちろん、友でない者、あなたを憎む者をも友であるかのように愛さなければならないのであるから、友であるかないかの区別は結局は問題にならないのであるが、今ここではその議論はしない。
 友と兄弟の区別は、相互の親しさや真実な関わりという観点からはつけられない。ただ、同じ父との関係が指摘されているかどうかが違うだけである。そして、今、父との関係が決定的に大事なのである。すなわち、キリストとの繋がりの故に、キリストの父がまた我々の父でありたもうという関係が指摘されている。
 「私の兄弟に伝えなさい」。……「あなたの兄弟に伝えなさい」でもなく、「私の弟子たちに伝えなさい」と言われたのでもない。弟子、また僕、また子と呼ぶならば、間違いになるというのではない。それはそれで意味を持ち、我々は事実キリストの弟子であり、僕であるが、その呼び方では、ここでいわんとする肝心の意味が殆ど伝わらない。復活の主が弟子たちを兄弟として扱っておられるのである。
 先に見たように、主は15章15節では「僕」と「友」との違いを十分味わわせたもうたが、ここでも兄弟と呼ぶ関係の意味を味わわせたもう。「あなた方をもう僕とは呼ぶまい」。これは新しい関係になっていることの指摘であった。大変動が起こったのである。今回もそれと同じような大変動を見るべきであろう。彼が先に、新しい戒めを与え、互いに愛し合えと命じたもうたことも思い起こさねばならない。そして、そのことと密接に結び付いているが、僕として、課せられた戒めを、恐れ戦きつつ守ることはなくなったのである。今や、キリストの死によって解放された者として、己が身を神の喜びたもう聖き生ける供え物として捧げるようになった。その変化が指摘されている。
 「私の兄弟」……、これは同格の関係を表わすものであって、必ずしも新しい呼び方ではない。神の子である者同士は同格の兄弟である。1章9節以下にこう語られていたのを思い起こそう。「全ての人を照らすまことの光りがあって、世に来た。彼は世にいた。そして、世は彼によって出来たのであるが、世は彼を知らずにいた。彼は自分のところに来たのに、自分の民は彼を受け入れなかった。しかし、彼を受け入れた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである」。
 神の子となることによって、お互いは兄弟になり、キリストとの関係も兄弟となったのである。
 福音書の初めの章に記されている教えであるから、主はこういうことを初めから弟子たちに教えておられたであろうと推測して良い。しかし、ここに書かれているような意味での「兄弟」、すなわち、同じ親から生まれた子どうしという自然的関係でない、信仰的な意味の兄弟関係については、この福音書には、これまで一度も書かれていなかったことを、思い出せば分かるであろう。もっとも、ヨハネの福音書には書かれていなくても、他の福音書には例があることであるから、ここで初めて教えられたというふうに取るならば、正しくないであろう。けれども、ヨハネ福音書では、これまでこの意味での「兄弟」という語が使われることはなかったのであるから、ここで一つの変化が起こっていることに気付かなければない。兄弟という呼び方は、父と子の関係に結び付いている。
 これまでは、この呼び方は、実態はそうなっていないのに、将来を先取りして、特権的にこう呼んで良いと許されたから呼んでいる、という含みで用いられたものである。ところが今や、いわば前倒しとして使うのでなく、実質化したものとして、堂々と呼んでよいようになったという変化がある。すなわち、復活の主が天に昇り、天に我々の居場所をしつらえて下さったから、我々はキリストと共に天にすまいを確保する者、神の子、神を父と呼ぶ者、キリストの兄弟となったのである。
 「私は私の父、またあなた方の父であって、私の神、またあなた方の神のであられる方のみもとへ昇って行く」。
 「昇る」ということについてはすでに触れた。何のために昇るのかということについても学んだ。このことについて二通りの言い表わしの型があることに前回も少し触れた。天に昇り、父の右の栄光の座につき、そこから終わりの日に再臨されると言われている型は使徒信条にあるが、それとヨハネ伝は若干違う。とにかく、いよいよその昇天が実行されると言われる。そういうことをマリヤを介して弟子たちに伝える必要があったのか。特に必要だったとは言えないかも知れない。マリヤを通じてこのことが伝えられたけれども、弟子たちのうちには、この報せを聞いた反応が19節以下の下りにあるようにも思われない。
 しかし、この伝えられた言葉の意味は、ジックリ噛みしめるべきで、聞かされたから即座に効果が現れたというふうには行かない。我々も地上に生き長らえる日の間、この言葉を少しずつ噛みしめるのである。
 「私の父、またあなた方の父」、同じように、「私の神、またあなた方の神」――この呼び方はヨハネ伝では初めて聞くものである。すなわち、ヨハネ伝では、主イエスが神のことを「父」と呼ばれる場合は頻繁にあったが、弟子たちに対して、神を「父」と呼べとハッキリ教えたもうた実例は書かれていない。神を父と呼んではいけないと言われたのでは勿論ない。神を父と呼ぶことは旧約にもあるし、やがてそのように呼ぶ日が来ることはヨハネ伝にも書かれている。しかし、主イエスのご在世中に神を父と呼べと教え、「天にまします我らの父よ」呼ぶよう命じたもうた記録はない。復活節の朝までこういう言い方はなされなかった。
 ただし、誤解がないように言っておくが、そういうことは教えられていない、したがってそういう呼び方をしてはいけなかったのだ、というふうに取るべきではない。今こそその呼び方をするに相応しい状況になったということがハッキリした、という意味に受け取って置きたい。
 「私の父またあなた方の父」……こういう呼び方を聞いて、弟子たちが混乱を起こすことはなかったのである。すなわち、この言葉を聞き取る用意は出来ていた。
 もともとキリストの父が私の父であったが、そのことは知られないままに今にいたり、今それがハッキリ分かった、ということではない。もともとそうだったのではなく、今こそそうなったという意味が強い。この点をシッカリ抑えて置くことは重要である。では、どこで転換があったのか。十字架において起こったのだ。十字架において起こったことが、やや遅れてハッキリして来た。
 神が我々の父であると教えられ、それが好ましい教えのように思われ、何となく受け入れてクリスチャンになるということでは、信仰に入りやすいかも知れないが、信仰の確信にはついに到達しないことになる。主イエスが私の父またあなた方の父と言われたこの言い方は、我々の確信および信頼に関わることである。
 神から遣わされた御子が、遣わされた者としての課題を地上で悉く果たしたもうた時、彼を信ずる者も神の子となる。だから、父よと呼ぶここが出来るようになった。
 「私の神、またあなた方の神」、この解釈も先の段と同様である。私の神がまたあなた方の神であることが今やハッキリしたのである。それがキリストの死、復活、昇天の力である。
 18節の言葉に簡単に触れて置く。「マグダラのマリヤは弟子たちの所へ行って、自分が主に会ったこと、またイエスがこれこれのことを自分に仰せになったことを報告した」。
 マグダラのマリヤの報告が弟子たちにどのように聞かれたかについては、結局よく分からない。拒否されたのではなさそうである。しかし、積極的に受け止められたのでもなさそうである。つまり、この時は殆ど聞き流しのように聞かれたが、弟子たちはそれを忘れることが出来ないで、ズッと心に留めていたということであろう。
 我々の主は行きたもうたのである。そこに我々の家が確保された。

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