2004.08.01.


ヨハネ伝講解説教 第196回


――20:14-17aによって――

 

 「そう言って、後ろを振り向くと、そこにイエスが立っておられるのを見た。しかし、それがイエスであることに気がつかなかった」。
 復活の主がご自身を現われしもうた時、これを見たほとんどの人は、それが主イエスであることに気付かなかったと報告されている。ルカ伝によるとクレオパたちはエマオへの道をずっと一緒に歩いていながら、一緒にいて、しかも聖書を解き明かしていて下さる方が主イエスだと気がつかなかった。そんなことがあるだろうか。長年ともにいたお方を、スグにそれと判断できなかったのはおかしいではないか。それであると分かるまで、時間が掛かるはずはないではないか、と言う人がいる。それでも、事実は書かれている通りであったと見るべきである。
 クレオパたちが主を主として認めることが出来なかったのは、「彼らの目が遮られた」からであるとルカ伝24章16節は言う。遮られたとは、全く見えなくなったということではなく、見えているけれども見えていないのだ。そこに神の特別な御意志が働いていたことに我々は思い至る。
 主ご自身がそこに立っておられても、直ちにそれとは分からなかったことに意味があると考えなければならない。我々は主イエスの復活について、繰り返し教えられているので、見ればスグそれであると判断できたはずだと思う。しかし、在りし日の主と出会うことと、復活の主と出会うこととを、同列の事として扱わない方がむしろ大事なのではないかということも考えたい。
 17節で、主は「私に触ってはいけない。私はまだ父のみもとに上っていないのだから」と言われた。この言葉は、後で見るような意味で語られたものであるが、そのことと一応別に、復活前の主イエスと、復活後の主イエスと、立ちたもう境域が違うということことを示している。彼を信じ、慕っている者といえども、踏み込めない境域に彼はおられるのである。距離としては近いと言えよう。目の当たり見ることが出来る。しかし、次元が別なのである。
 甦られた主は、弟子たちが戸をみな閉じている所に、自在に入って来ることが出来たということも思い起こさなければならない。閉ざされた部屋であれば、そとからノックして、戸を開けさせて、それから入るのである。主もまたそのようにして我々を訪れたもう。しかし、この時は違うのである。常識の次元を越えなければ、理解することは出来ない現実である。
 もっとも、今見たのとは違う面も同時に把握しておかねばならない。もう少し後、24節以下で学ぶことであるが、復活の主が現われたもうた時、その場にいなかった弟子トマスは、復活の証言を聞いても信じなかった。「私はその手に釘痕を見、私の手をその釘痕に差し入れ、また、私の手をその脇に差し入れて見なければ、決して信じない」と彼は言い張るのである。8日の後、主はトマスを含む弟子たちのいるところに来られて、トマスに言われた。「あなたの指をここに着けて、私の手を見なさい。手を伸ばして私の脇に差し入れて見なさい」。
 これも大事な点である。二つのことを同時に受け入れることは、人間の理性には矛盾としか言えない。神の助けなしでは受け入れることは不可能であるということを悟らなければならないのである。復活の主は、以前の主と次元が違うと言ったが、しかも、十字架につけられた主の肉体と同一の肉体なのである。古い、傷つけられ、辱めを受け、めちゃめちゃになった肉体は、廃棄されて、新しい肉体をもって現われたもうた、というのではなく、十字架の上で、掌には釘を打ち込まれ、脇腹も槍で刺し貫かれた、その傷だらけの肉体が復活したのである。ここには驚くべきことがあると見るだけでなく、あり得ないことがあるのを信仰によって受け入れねばならない。したがって、信じられないことを信じる信仰がなければ、拒否するほかないのである。
 伝えられたことを伝えられたままに受け入れなければならないのはその通りである。けれども、信じられないことを信じるために、素直になる修練を重ねなければならないと考えては正しくない。信仰を持つとは、ある意味で馬鹿になることだと説明されることがあり、我々もそれを有益な勧めとして受け入れている。けれども、この説明には不十分な点がある。信仰とは何かを捨てることではあるが、もっと適切に言うならば、新しく与えられる恵みであるということを見忘れてはならない。それを頂くためには、祈らなければならない。
 ところで、我々が「復活の主を信ず」と言う時、それは通常、いちいち触って確認しているのではない。29節で、主はトマスに向かって「あなたは私を見たので信じたのか。見ないで信ずる者は幸いである」と言われたように、見ないでも、聞いただけで、その現実性を確認しているのが信仰であるということを我々は知っている。はじめに見た証人たちが証言したならば、その証言が信じられ、見なくても、聞くだけで信じられるのである。別の言い方をすれば、御体を伴ってでなくても、御言葉と御霊において、主は現臨したもう。我々はガリラヤやユダヤを歩いておられたそのままの姿の主イエスと出会うことを期待する必要はないのである。
 「イエスは女に言われた。『女よ、なぜ泣いているのか。誰を捜しているのか』。マリヤは、その人が園の番人だと思って、言った、『もしあなたが、あの方を移したのでしたら、どこへ置いたのか、どうぞ、仰って下さい。私がその方を引き取ります』」。
 マリヤの言葉は、我々の持つ聖書では訳されていないが、「主よ」という呼び掛けに始まる。その言葉が省略されたのは間違いではない。これは、マリヤが相手に丁寧に願って教えを請うために言った言い方であって、それが主だと認識していたと取られないようにしたのである。
 「女よ、なぜ泣いているのか」。――この言葉はマリヤにとって二度目である。一度目は御使いによって語られた。泣く理由はないということに気付かせようと、語りかけたもうたのである。その言葉は繰り返されたけれども、マリヤにとって効果がなかった。
 次の問い掛けがなされる。「誰を捜しているのか」。――悲しんで泣いているだけでなく、ある人を捜して、その人が失なわれたことを嘆いている。しかし、その方はいなくなったのではなく、ここに来ておられる。求めているお方が誰であるかを良く考えなければならない。そのお方は求められるお方であるよりも、まずご自ら失なわれた者を尋ね出すお方であることをシッカリ捉えなければならない。
 マリヤの想像力では、そこにいる人は園の番人であるとしか考えられなかった。その番人に死体の在処を教えてもらい、死体を引き取って、もう一度香料をたっぷり塗って葬り直そうということであろう。彼女は死人のうちにしか主を尋ね求めなかった。そこでは、どんなに尋ねても生きておられる主に会うことは出来ない。
 16節、「イエスは彼女に『マリヤよ』と言われた。マリヤは振り返って、イエスに向かってヘブル語で『ラボニ』と言った。それは先生という意味である」。
 先に「女よ」と呼び掛けられた主は、ここでは名指しで呼びたもう。「マリヤよ」。ここにいたって、呼んでおられるお方が誰であるかがハッキリしたのである。それは彼の呼びたもう声に覚えがあったということではない。声を覚えていたことはその通りであるが、彼女の記憶が甦ったということではなく、名を呼びたもうお方がそこにおられるということに目覚めたのである。
 我々がここで思い起こすのは、10章の初めで聞いた御言葉である。「よくよくあなた方に言って置く。羊の囲いに入るのに、門からでなく、ほかの所から乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者は、羊の羊飼いである。門番は彼のために門を開き、羊は彼の声を聞く。そして、彼は自分の羊の名を呼んで連れ出す」。
 ただの行きずりの人でも困惑したマリヤに同情して、「女よ」何か手助けすることがあるか、と呼ぶことは出来る。しかし、彼女の目はそれでは開けない。真の飼い主が彼女の名を呼んで下さる時、彼を知ることが出来る。ここにはマリヤだけの体験が記されるのであるが、それは我々も共有出来るものである。もっとも、先も触れたが、クレオパたちは聖書の解き明かしを主から聞いていたのであるが、目が開けなかったのであって、つねに羊飼いの呼び掛けで呼び起こされるわけではない。
 さて、次にまた重要な言葉が続く。「イエスは彼女に言われた、『私に触ってはいけない。私はまだ父のみもとに上っていないのだから』」。
 語られた言葉自体は単純・平明であって、解釈を必要としない。これが重要聖句だとは誰も思わない。これは特徴ある言葉ではない。だが、聖書に親しんでいる国民の間では、一つのフレーズとして引用されることも稀ではない。気になる言葉だからであろう。
 主イエスはマグダラのマリヤに対して「私に触るな」と言われた。彼女が縋り付こうとした、いやむしろしがみついているのを拒否し、引き裂かれたと思われる。もちろん、縋り付こうとするような、感情に駆られたのでなく、もっと淑やかで控え目な態度であったと取っても良い。彼女の態度が何であれ、近寄って触ることを禁じたもうたという点が大事である。
 その理由が添えられている。「私はまだ父のみもとに上っていないのだから」。我々の間では、復活の主が40日に亘ってご自身を弟子たちに示し、その後、天に昇りたもうた、と理解するのが通例になっている。確かに、この時、復活の主はまだ父のみもとに昇っておられなかった。
 では、いつ昇られたのか。昇られたことは確かであるが、その時のことは、ヨハネ伝には書かれていない。だから、分からないと言うほかない。ルカによって使徒行伝1章3節に書かれた記事によって、復活後昇天まで40日だったと教えられているが、40という日数は他の福音書には書かれていない。教会暦では、毎年復活節後40日目を昇天日として記念し、その10日後のユダヤの祭りであった五旬節を聖霊降臨の記念日して守ることが定着している。しかし、40日目の昇天と50日目の聖霊降臨に関しては、キリスト教会でその日に守るように早くから定着していた訳ではない。
 ということは、主イエスの復活後の昇天が、事実であって、非常に重要な意味のあることであるのは確かであるが、40日後と確定することはさほど大事ではないということであろう。
 話しを混乱させる恐れがあるので、これから言うことは注意して聞いてもらいたいのであるが、この8日後に、主イエスは不信仰なトマスに「あなたの指をここにつけて、私の手を見なさい。手を伸ばして私の脇に差し入れて見なさい」と言っておられる。そこでは「触って見なさい」と言われたのではないが、そういう意味で言われたと見るべきであろう。
 では、マグダラのマリヤには拒否し、トマスは受け入れたもうたのか。どうしてなのか、という疑問が出て来る。マグダラのマリヤは問題のある女性であったからいけないのか。それなら、復活の報せを聞いて信じなかったトマスの問題は、ズッと小さいということなのか。それも釈然としない解釈である。
 ある人は、こう解釈する。マリヤが触ろうとした時には、まだ天に昇っておられなかったが、8日の後、トマスに会って「触って見よ」と言われた時には、主イエスは既に天に昇って、ご自身に属する者たちのために場所を用意され、用意が出来たので、また来られたという意味である、というのである。
 主は告別の説教の中で、14章3節に「行って場所の用意が出来たならば、また、来て、あなた方を私の所に迎えよう」と言われた。また来る、と言われたのは、再臨のことなのか、御霊において来られること、すなわち聖霊降臨のことなのか、それとも昇天の後は随時現われると言われたのか、どれか一つの解釈を選び取るのは極めて難しい。ここでは再来するその来方が問題なのではなく、用意された所に受け入れられることの確かさが重要であるから、一つだけの解釈にしなくて良いと言うのである。
 では、いつ天に昇って、それから、いつ降りて来られたのか。福音書記者の意中にあった粗筋は、主がマリヤに、17節までの御言葉を語った後、すぐに天に昇られ、その夕方には、天における用意が出来たので、再来したもうた、ということでなかったであろうか。そして、「父が私をお遣わしになったように、私もまたあなた方を遣わす」と言われし、さらに、「聖霊を受けよ」と言われたが、これはルカの記述の筋の上で言えば、使徒行伝2章で、五旬節の出来事として書かれているのと同一の真理を示そうとしたのではなかったか。
 この問題にこれ以上深入りしようとは思わない。「私に触ってはいけない」という御言葉について思い巡らすことが重要であろう。
 「私はまだ父のもとに昇っていないのだから」と言われたのは、人間が触っては汚れるからであろうか。そういうふうに受け止め、それで納得している人もいるようである。確かにキリストは人々に代わって汚れなき供え物を神に捧げたもうた。だから、まだ捧げられていないうちは、汚さないようにしなければならない、と考えるのは当然だ。しかし、ただちに異論が出る。主は十字架の上で全ては完了した、と宣言された。彼がご自身を捧げたもうたのは十字架においてであって、復活し、死に勝利した体を捧げたもうたのではない。
 マリヤが触るのを禁じたもうたのは、この地上の者は汚れているからであると解釈するのは、自らの罪に思い悩む者にとっては分かり易いかも知れないが、もっと単純に受け取った方がよいのではないか。我々の理解では、復活があり、それに顕現が伴い、顕現の期間が終わったので天に昇りたもうた、というふうに段階を一段一段分けて考える。それでいけないとは言えないが、復活して、先ず天に昇って、弟子たちに約束しておいたことを先ず果たし、それから戻って来て復活の体をお示しになって、顕現の期間が終わって、天に行きたもうたのである。先に果たさなければならないことがあるから、マリヤに足を留めさせられてはならない。
 主が貴いお方であることは十分承知しなければならない。しかし、ここでもう一つ思い起こすべき御言葉がある。彼はご自身の記念の仕方を制定する時、パンを割いて、「取って食べよ。これは私の体である」と言われた。「私の体に触るな」ではなく、「私の体を取れ」と言われるのである。

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