2004.07.18.
ヨハネ伝講解説教 第195回
――20:11-13によって――
イエス・キリストの復活について語る文書で、今見られる一番古いと思われるものは、パウロのコリントに宛てた第一の手紙、その15章である。「私が最も大事なこととして、あなた方に伝えたのは、私自身も受けたことであった。すなわち、キリストが聖書に書いてある通り、私たちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてある通り、三日目に甦ったこと、ケパに現われ、次に12人に現われたことである。そののち、500人以上の兄弟たちに、同時に現われた」。
年代を論じ始めると時間が掛かり過ぎるので、簡単に済ますことにする。パウロは主イエス・キリストが世を去られた後に回心したのであるが、「私自身が受けた」というのは、ダマスコの門の外で回心し、ダマスコ市内のキリスト者の群れの中で介抱され、群れに受け入れられた時、――それは恐らく、洗礼を授けられた時であると思われるが、その時伝えられた教えの要約、また教えの型として与えられたもの、という意味である。それはキリストの死後とはいえ、まだ教会の世界伝道も始まっていない、ごく初期であった。その時、このような基本的な教えの型が出来ており、語り伝えられていた。福音書が編集されたのはもっと後である。
福音書が編集された時、どの福音書でも、マグダラのマリヤが先ず主の復活に出会ったと述べる。もっとも、マタイ伝では、マグダラのマリヤが会ったのは御使いであって、その御使いが、「ガリラヤに行け、そこで主に会うことが出来る、そう弟子たちに告げよ」と言葉を託する。ここから、復活の主の現われは、エルサレムであったのか、ガリラヤであったのか、という問題が起こるのだが、今日はそのことには触れないで、21章の初めで取り上げることにする。
とにかく、「ケパに現われ、次に12人に現われた」というのと、マグダラのマリヤに先ず現われたもうたというのとの食い違いはどうなのか、という問題がある。どちらかがウソなのか。あるいは両方とも作り話しなのか。実際、これはキリスト教攻撃の恰好の手がかりにされる点である。この点で攻撃されると、しどろもどろの答えしか出来ないため、クリスチャンのある者たちは復活について言葉を濁し、曖昧な言い方をし勝ちである。結果として信仰の力の源泉である復活信仰が弱体化することになる。
すぐ溜息をつく。すぐ息切れする。すぐ投げ出す。こういう欠陥はキリストの復活をシッカリ把握していないから起こるのである。キリストの復活の使信を把握する手続きがシッカリしていないのではないか。
先ず、ケパに現われたもうた。次に12人に現われたもうた。この単純な順序で事実を捉えて行くことにする。それが教会で受け入れられていたもともとの把握の順序であった。マグダラのマリヤへの主の顕現は、その順序を打ち消すものではなく、ペテロへの顕現の補遺として語られ、受け取られる。
ということは、ペテロへの顕現という事実が先ずあったのに、それは記録されず、福音書の記事にならず、聖書に収められもしなかったということなのか。そうではない。事柄を時間的順序に並べて行くなら、マグダラのマリヤが復活の主に会ったことが先であるが、それをペテロが12人とともに主に出会う体験を通して、確認した。聞いただけでは、確認できず、自分も体験して、そうだと分かったのである。
ペテロが先ず単独で主に出会ったという出来事は、福音書にも書かれていないが、そのように、そういう出来事はなかったのであろう。ペテロは他の弟子たちとともに主に出会った。だが、他の人たちがまだモタモタしている時、彼らより先に、主の復活を確認した。それが先ずケパに現われたもうた、と言われる事実である。
ルカ伝では、エマオに向かっていたクレオパともう一人の弟子が、道々主とともに行って、晩餐の場でそれと悟ったので、急いでエルサレムに引き返してみると、エルサレムでは、すでに、「主はほんとうに甦って、シモンに現われなさった」と言われていた、と記されている。すなわち、その時点ではペテロはすでにキリストの復活を確認し、それを語り始めていたのである。
今日与えられている11節からのテキストを辿って行こう。
「しかし、マリヤは墓の外に立って泣いていた。そして泣きながら、身を屈めて墓の中を覗くと、白い衣を着た二人の御使いが、イエスの死体の置かれていた場所に、一人は頭の方に、一人は足の方に座っているのを見た。すると彼らはマリヤに『女よ、なぜ泣いているのか』と言った。マリヤは彼らに言った、『誰かが、私の主を取り去りました。そして、どこに置いたのか、分からないのです』」。
「しかし」という言葉は、ペテロともう一人の弟子に対比されるマリヤの行動と態度を示すものである。二人の弟子はマリヤの報せを聞いて駆けつけた。マリヤも一緒に墓に戻って来たことは確かだ。二人の弟子は意気阻喪して帰って行った。だが、マリヤは帰るにも帰れないで、悲しみに打ちひしがれて泣いていた。
このように読むのが通例となっているが、10節までと、11節以下とは別の文章、別の文脈であって、繋がっていないと見る人もいる。すなわち、二人とも帰って行ったと10節は言うが、11節は二人とも帰ったのでないことを前提にしていると取る。つまり、ペテロは帰ったけれども、もう一人の弟子は、マリヤと距離を置いてであるが、マリヤとともにここを立ち去ることが出来ず、そのまま留まり、マリヤの言動を逐一見る結果になったと考える。
興味ある仮説である。そう見ればマグダラのマリヤが復活の主イエスの幻覚を見たというような冒涜的な議論は起きる余地がない。しかし、第三者から観察されているところで、キリストとマリヤが語り合うというのも不自然な想像であり、もう一人の人に主が何も声を掛けたまわなかったというのも、この弟子が主の愛した弟子と呼ばれているだけに不自然である。我々は、多くの人が読んでいるように、二人の弟子が帰った続きをここに読むことにする。
ペテロたちは、主の死体がなくなっていて、死体を包んでいた亜麻布は、ほどかれ、くるめられて、ここに残され、死体はどこかに持ち去られたと認めた。が、死体として亜麻布を卷かれていた状態、つまり葬られた状態ではなくなったのだ、ということも当然分かったはずである。主イエスが三日目の復活について語っておられたことを思い出しさえすれば、亜麻布がここに残されたのは、復活の徴しとして捉えられるのである。しかし、彼らはそれに全く思いも及ばなかった。むしろ、死体の盗難を考えたのである。これ以上ここにいても何にもならない。敵がいる。危険なことが起こるかも知れない、と彼らは思って早々に帰って行った。
マリヤは帰れなかった。それは彼女が人一倍主を慕っていたからであろうか。そうだと思う。だから会えたのだと言われて、納得が出来る。しかし、それだけではなかった。何をして良いか分からなかった。身を守らなければならないという知恵も働かなかった。キリストが死なれ、その死体が失われるという二重の悲しみで、ただ泣くだけであった。だから主に会えた、と言われれば、それも納得できる。
彼女は泣きながら墓の中を覗き込んだ。彼女はペテロが墓に入って行った時も、一緒に入らなかったらしい。墓に入ることが恐ろしかったからかも知れない。それでも、気になるから、覗き込む。誰もいないことになっているが、諦め切れないので主の死体を捜す。すると、二人の御使いの姿が見える。この御使いは、先ほどペテロたちが中に入った時には見えなかった。というよりはここにいなかった。御使いはペテロとヨハネにでなく、マリヤにだけ現われたと解釈するほかないであろう。ペテロとヨハネは墓が空になっていることを確かめるだけで引き上げてしまった。
マリヤが覗き込んだ時、彼女にだけ御使いが見えた、とは、これはマリヤの幻覚だったと解釈する人がいる。疑う人には何でも疑わしい。しかし、我々は主イエスの復活について、いにしえから受け継がれて来た「死人の甦り」の信仰を基礎として、この基礎に基づいて、このことを死人の甦りの成就として受け入れているから、マリヤの幻覚症状というような着想はしない。
マリヤは墓の中には入らなかったが、ペテロたちの確認したことは外からでも見ることが出来た。亜麻布だけが残されている空の墓である。しかし、マリヤの場合はそれで終わらない。彼女は御使いの伝えるメッセージを聞かなければならない。ペテロたちは見るだけ見て、それだけでは何もつかむことが出来ないので、失望落胆して帰って行った。マリヤはここで一歩の前進をするが、ただの一歩である。何歩もの歩みを重ねなければ、明るみに出ることは出来なかった。
御使いが出て来たとは、どういうことか。神が二人の御使いを遣わしたもうたのである。そうしなければ弟子たちの不信仰は打破出来なかったからである。キリストの復活のメッセージが、最初は極めて回りくどく幾重にも間接的に与えられたということを見なければならない。
先に見たように、キリストが直接ペテロに現われたもう、というのが、伝えられた正式の現われ方である。ところが、主はこの後に節で見るように、マリヤに直接に語り掛けたもうのであるが、最初は御使いを通して語られる。
いや、順序から言えば、先ず、つかね置かれた亜麻布という物体によって、象徴的に示されたと見るのが良いであろう。これを見た時、ペテロも、ヨハネも、マグダラのマリヤも、この意味を読み取ることが出来なかった。今の我々なら、これだけでキリストの復活をあらわすという理解が出来ているが、初めの時にはこの象徴では何も分からなかったし、見た者の中で何も起こらなかった。
御使いが現れる事件は、聖書では珍しいことではない。神からの伝達が、人を通して来ることは稀ではないし、むしろその方を神は宜しとしておられる。しかし、最初に告げられる場合、人間を通して伝えられていては、聞く者の心に届きにくいことが多いので、普通の人間でなく、御使いが伝えるのである。例えば、約束されたキリストが生まれたもうた日、預言者が現れたのでなく、御使いが現われて、「今日、ダビデの町で、あなた方のために救い主がお生まれになった。これが主なるキリストである」と告げたのである。このことが一たび告げられると、それで謂わば回路が繋がって、次からは御使いでなくても通じるのである。
主の降誕の場合、それがベツレヘムにおいてであると告げた人は何人かいたのである。マタイ伝に記されているが、東方の博士たちが星の出現によってキリストの降誕を知り、礼拝を捧げるためにユダヤに来た。ところが、その方がどこにおられるのか分からない。そこでヘロデの王宮に行って尋ねたところ、ヘロデは律法学者たちに諮問して、答えを得た。律法学者らはそれがユダヤのベツレヘムであると告げた。しかし、律法学者がキリストはユダヤのベツレヘムで生まれると言っても、その言葉は福音にならない。単なる学説であるに過ぎない。律法学者自身、ベツレヘムに生まれたもうたキリストを礼拝しに行こうとはしなかった。このときも、福音が鳴り響くためには、やはり、御使いを用いる必要があった、と理解すべきである。
同じように、キリストの復活の時も、例えば園の番人が来て、「主は甦られた。ここにはおられない」と言っても良かった。だが、それを聞いた人たちは恐怖の余り心を閉ざしてしまうであろう。だから、初めは御使いが必要であった。御使いが立てられたということは、次回からは御使いが来なくても用が足りるという意味である。毎回、毎回、「主は実に甦りたもうた」という御使いの声を聞かなければ信じられないというようなことはあってはならない。
マグダラのマリヤのもとに御使いが二人遣わされた。二人ということには、その語ること、遣わされることに、威厳を持たせる以外、それほど重要な意味はない。白い衣を着ていたことも、この職務に相応しいというだけで、特に深い意味があると考えるには及ばない。
この御使いは、主イエスの頭のあった所と足のあった所に座っていたというが、ここを立ち去られた主イエスに代わって、その場所を占めて、ここからここまでに主の御体が置かれていた、ということである。
御使いから聞いたのはマグダラのマリヤだけであった。そして彼女がそれを伝えた。この女性が弟子たちの間で決して高く評価されていなかったことについてはこれまでに語られた。そのことは説明しなくても分かるが、ここでは、そのような器が大切なメッセージを運ぶために選ばれたということを見なければならない。
これ以後、キリストの喜ばしいおとずれを告げる者は、つねにこういうような、世で卑しめられる人物でなければならない、ということか。そうではない。伝えられることが世の人のそしりを招かないだけの人柄であることは大事だと思う。しかし、主は貧しい器も用いられる。
御使いは先ず、「女よ、なぜ泣いているのか」と尋ねる。これは15節で主イエスご自身が尋ねておられる言葉と同じである。つまり、キリストのお言葉を御使いが先に語ったと見ても良いであろう。マグダラのマリヤは主が近づいておられる先触れをこの言葉のうちに感じるべきであった。少なくとも我々はその心得をもって読んで行く。
「女よ、なぜ泣いているのか」。まだ喜びのおとずれには至っていない。しかし、その方向に少しずつ進んでいることは分かる。喜びは悲しみから始まったので、今はその始まりの悲しみ泣くところを確認させている。
「マリヤは彼らに言った、『誰かが、私の主を取り去りました。そして、どこへ置いたのか分からないのです』」。
この答えそのものは、解決に少しも近づいていない。泣いている理由を述べただけであるが、その理由は理由になっていなかった。すぐ次の節に見るように、主はおられるのである。彼女の後ろにおられるため、彼女には見えていない。振り向きさえすれば見ることが出来たのであるが、振り向かねばならないということにもまだ気がついていない。あらぬ方向ばかり見ている。
「誰かが私の主を取り去りました」。朝早くマリヤがペテロたちに告げたのも同じ言葉であった。死体が盗難にあったとしか彼女は受け取らなかった。キリストご自身が起き上がって、ご自分で亜麻布を畳んで、墓の外に出て行きたもうたというのが真相であるのに、そこに目を向けないために、死体の盗難事件としか受け止めることが出来ず、ただただ泣いた。
向き返りさえすればたちどころに解決するのに、向き返ろうとしない。それは愚かだと言って良いのだが、その簡単なことが出来ないという問題は決して簡単ではない。我々も振り返ろうではないか、と呼び掛けるのは簡単だし、そう言えば、聞く人はハッとして聞いてくれる。しかし、何も起こらない。振り向くのでなく、心を翻さなければならない。