2004.07.04.
ヨハネ伝講解説教 第193回
――20:1-3によって――
主イエスは死に際して「すべては終わった」と言われた。これは重要なお言葉である。主は死なれたけれども、復活されるまでは終わっていないではないか、と異論を言う人がいるであろう。それは必ずしも間違った解釈ではない。受難で終わっては、いかに感動的であっても、結局、単なる悲劇である。我々に覚醒を与えるものではあっても、新しく生まれさせるものではない。だから、受難よりも復活に重点を置くキリスト理解でないと、窮極の敵である死と対決し、克服する信仰ではない。
それはそうであるが、ヨハネ伝で、主イエス・キリストが「全ては終わった」と言われたことには偽りはない。聖書の言うことが矛盾しているわけではないのであって、今はヨハネ伝の語り方に従って学んで置く。
十字架の死によって全ては完了したのである。キリストの死は罪に対する勝利であった。キリストはそれ以上のことをする必要がなかった。ところが、全ては終わったけれども、そう聞かされるだけでは、我々に勝利感、充実感はないではないか。そうなのである。勝利感でなく、絶望感を持ってしまう人は少なくない。「全てが終わった」と言われた御言葉の内容は、これを聞くだけでは捉えきれなかったのである。その内容が見えて来るまで、なお若干の時間と事件が必要であった。
「全てが終わった」とは、言葉を換えて言うならば、死に対する生命の勝利であり、罪に対する神の義の勝利であった。しかし、神の子が十字架の上で死にたもうたことが、どうして神の義の勝利であるのか。それは、神の義の敗北でしかないのではないか、と問われるであろう。確かに、肉の目で見る限り、それしか見えないかも知れない。けれども、我々は十字架が敗北でなく、それ自体すでに勝利であるということを知っている。それは、三日目の甦りによって、勝利しておられたことが明らかにされたからである。
復活は確かな事実である。しかし、人々に見られ、触られ、確認された事実ではあるが、もっと大きい事実の現われとしての事実である、というほうが分かり易いであろう。全てが終わったというのは、神の義の勝利である。その事実を捉えることが出来るようにと示された事実、それが復活である。
芝居を見ているような感覚で、受難と復活を捉えていてはいけない。受難劇と復活劇によって我々が深く感動し、敬虔な思いをいっそう進歩させられるのは事実である。だが、信仰の確かさという点では、受難劇を見、ついで復活劇を見るだけでは、必ずしも前進しておらず、信仰は堅固のなっていず、勝利してもいない。受難週と復活節を年々繰り返すことが空しいと言うわけではないが、そこで明らかになり、そこで前進させられるものが何であるかが分からなければならない。それを今捉えなければならない。
福音書の伝える復活の事実、それが事実であることは言うまでもないが、ふつうに「事実」と呼ばれている物以上の事実である。そこで、我々は復活の「事実」と言うよりも復活の「奥義」と呼びもする。それは奥深くて、我々には十分に把握しきれないところがあるからである。
イエス・キリストが復活したもうたことは確かである。しかし、主が復活される場面を見た人はいない。それを見ることは誰にも許されなかった。ラザロの場合は、人々のジロジロ見ている前で立ち上がって来た。だが、主イエスの復活の場合は、最も早く墓に行ったマグダラのマリヤも、墓が空になっており、主イエスの死体を包んでいた亜麻布がそこに置いてあるのを見ただけであった。それを見た者は復活を信ずるほかないと主張は出来るが、初めは、マグダラのマリヤも、ペテロも、ヨハネも信じていない。
それだけでは、主イエスの復活を信ずることは出来なかった。だから、主は墓と亜麻布が空になっていることだけでなく、復活の姿をマリヤや弟子たちに現わしたもう。必要によっては手を触らせたもう。「顕現」あるいは「現われ」と呼ばれる事実が付け加えられる。この現われは使徒たちの証言によって全ての信仰者から受け入れられている。それを事実として信じないならば、もはやキリスト者とは言えない。しかし、主イエスの復活を信じるとは、ラザロが墓の中でむくむくと起きて来たように、主イエスが起きて来られるのをリアルに思い描くということではない。
死者として墓の中に横たわっておられたイエス・キリストが、起き上がりたもうたことは確かであるが、時刻がいつであったかは分からない。三日目の甦りという言い方を我々は通常する。それで良いと思うが、甦って御姿を現わしたもうたのが三日目の朝であるということである。三日目の朝は、墓が空になっているのが確認された時なのだ。本当の復活はもっと早かった。しかし、それが何時何分であったかを詮索することは出来もしないし、意味もない。復活そのものは我々の感覚では捉えきれないのである。
「全てが終わった」と言われた時、すでに復活が始まっていたと考えることも出来る。ただし、このことについて余り考え過ぎて、そのために信仰がほしいままな一人歩きをするようになるのは健全ではない。我々には分からないことが沢山あるのだ、ということで満足する慎みも大事である。以上のような弁えをもって、聖書に示されたことを読んで行こう。
「さて、一週の初めの日に、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリヤが墓に行くと、墓から石が取り除けてあるのを見た」。
墓に石の蓋をしたという前提があるわけだが、それについては前の章には何も書かれていなかった。すでに注意を促されたように、キリストの死について、ヨハネの福音書はあれもこれも書き記すという書き方でなく、幾つかのことに絞って書いた。そのために、他の福音書と違う点がいろいろ目につくことになった。
ユダヤの墓は横穴式か、一旦地下に降りて行く式かの違いはあるが、入り口が閉ざされている必要があることは言うまでもない。墓に入り込む泥棒もいるのである。その入り口の蓋は大きい石であった場合が多いようである。それをどうやって開けるかが、訪ねて行った女たちの心配事であったことも良く知られる通りである。
復活節の早朝の記事で、ヨハネ伝は他の福音書と特に違ってはいない。使徒たちが共通に持っていた伝承を資料として用いたのであろう。20章の初めの部分については、我々が他の福音書との関連で知っている知識を生かして理解することが出来る。
先ず目を留めるのは、マグダラのマリヤという女性の登場である。彼女は朝早くやって来る。彼女に出来る最も早い時刻に来た。マグダラのマリヤの名前は他の女性の名とともに19章25節に一度だけ出た。他の福音書には良く出る名であるが、ヨハネ伝ではそこだけである。女たちは12弟子の数に入れられていない。だが、最後まで主イエスについて行ったのは女たちであったということを我々は知っている。
19章に書かれていなかったが、金曜日の夕方、彼女たちは主の死にたもうた後、墓までついて行った。埋葬はアリマタヤのヨセフとニコデモが行ない、彼女たちの手を出す余地はなかった。彼女たちはこの日は場所を確認して置いて、日を改めて来るつもりであったと思われる。
ところで、マグダラのマリヤだけが、朝早く行ったのであろうか。マタイ伝では、マグダラのマリヤとほかのマリヤが行ったと言っている。マルコ伝では、マグダラのマリヤ、ヤコブの母マリヤ、そしてサロメの名を挙げている。ルカ伝では、マグダラのマリヤ、ヨハンナ、ヤコブの母と言っている。ヨハネ伝だけは、マグダラのマリヤ一人の名を挙げるのであるが、ほかの女弟子たちも一緒にいたと受け取って支障はないのではないかと思う。彼女たちはガリラヤにいた時から一緒に行動していた。エルサレムでも一緒であったと思われる。
ただ、11節以下、それはマリヤ単独の場合の体験であったと読むほかない。その点についてはその時に改めて学ぶことにする。今日学ぶ箇所では、主要なラインは、マリヤあるいはマリヤたちの報告によって、ペテロともう一人の弟子が墓に駆けつけて、それが空になっているのを確認したという証言である。これは二人の弟子である。二人の証言でないと正式の証言として採用されない、というユダヤの慣習にしたがって、二人の証言を伝えるのが1節から10節までの主要内容である。
しかし、その証言者の手引きをした人について、無視して良いとは言えないから、先ず手引きをしたマリヤのことに触れる。
マグダラのマリヤはガリラヤのマグダラ出身である。彼女が「七つの悪霊」を追い出された女性であったことは多くの人によって指摘されている。これは19章25節を学ぶときに触れた通りである。七つの悪霊に憑かれていたとは、ルカ伝8章2節に書かれていることであるが、現代風に言えば、特別にひどい精神病だったかも知れないし、徹底的に堕落した女性であったという意味かも知れない。詳しいことは分からないが、特別に呪われた、また汚れた女であって、その境遇からイエス・キリストによって救われたのであるから、人一倍主イエスを愛したことは容易に察せられる。ルカ伝7章48節で「少しだけ赦された者は、少しだけしか愛さない」と言われた譬えがあるが、そのように、マグダラのマリヤは、特別多く赦されたことを知る者として、主を特別多く愛したということはあったであろう。そのような想像を交えて、記録を膨らませて読むことは許されると思う。
1節の中で「一週の初めの日」という言葉は、我々にはもう馴染み深いものであるから、説明を省略して良い。「一週の初めの日」は、ユダヤ人にとっては安息日の翌日、何でもない日、世俗の働きの第一日であった。そして、ユダヤ人たちは安息日、週の第七日こそが祝福の日であると考えていた。週の第一日が呪わしい労働の日であると受け取られていたわけではないが、そののちのキリスト者の間におけるような第一日は「聖なる日」という感覚はなかった。マグダラのマリヤが朝早く起きた時、この日がこの後永代に輝かしい日になるとは予想していなかった。
キリストの復活のゆえに、この日が祝福の日、喜びの日と受け取られるようになったことは確かだ。これを、旧約の祝福の日であった土曜日が、新約の日曜日へ、一日移動したと理解する人がいるが、その理解は理屈っぽくしたという欠点がある上に、日の意味の捉え方が不十分である。我々はむしろこう理解する。
キリストの従順によって、我々の果たすべき服従は完成し、安息日律法は全うされ、彼は律法の終わりとなられ、まことの安息が来たのである。つまり、毎日毎日が安息日になった。それは律法の行ないを果たすことの義でなく、信仰による罪の赦しによる義が来たからである。
特定の日が祝せられた日ではなく、毎日が祝福の日であることが明らかにされた。だから、我々にとっては毎日が主の日であり、聖日である。その毎日のうち、週の第一日を、神讃美の日、神奉仕を専ら行なう日として教会は定めた。ちょうど、旧約の掟が、特定の食物を潔い食物と定め、潔くない食物を食べることを主の民に禁じていたが、神の子キリストが来られて、全ての食物は潔い、何を食べても良い、信仰をもって食べるなら全ては潔いと宣言されたのと同じである。
キリストの民は週の第一日をこうして聖なる日として祝うようになった。
この「週の第一日」という言い方の中に、三日目の甦りという意味が籠められていることを覚えたい。弟子たちはまだ全然気付いていないのだが、今日が三日目だということに留意する者が一人くらいはいて欲しかった。とにもかくにも、甦りがあれば、勝利だというのではない。主が予め告げておられた通り、三日目であることが重要なのであって、奇跡があって人々が驚くことよりも、かねがね預言しておられたことが成就した点が肝要なのである。
さて、2節に入るが、「そこで走って、シモン・ペテロとイエスが愛しておられた、もう一人の弟子のところへ行って、彼らに言った、『誰かが、主を墓から取り去りました。どこへ置いたのか、分かりません』」。
墓の入り口の石が取り除けられたのを見ただけでなく、中に入って、死体がなくなっているのも見たようである。これは非常な驚き、むしろ恐怖であった。悪意ある者が来て、主の死体を「取り去った」と彼女は報告している。彼女にはこれを悪意の仕業としか理解出来なかったのである。
主は死にたもうたが、その死体が残っている限り、いつまでも彼を偲ぶことが出来る。そして、死体が持ち去られたならば、偲ぶことはもはや出来ない。弟子たちにとっては一様にそのことが苦痛であり、恐怖であった。
彼女はこれまでその予告を再々聞いていたはずだが、復活ということに全く思い至らず、主の亡骸がないということしか考えなかった。キリストの死をふつうの人の死と同列にしか考えなかった。
マリヤは熟慮してペテロに知らせたのか。考えるまでもないこととしてそうしたのか。マルコの復活の記事では、御使いがマリヤたちに、「今から弟子たちとペテロのところに行って、こう伝えなさい」と命じている。ペテロは別格に扱われている。
「ペテロともう一人の弟子」。この表現は18章15節にも出ていた組み合わせである。「もう一人」というのはゼベダイの子ヨハネであると多くの人は考えている。この二人は主イエスの裁判を見届けるために、大祭司の家の中庭まで入って行った。しかしペテロは鶏が二度鳴いた時、己れの裏切りに気付いて脱落した。それでも、この二人はエルサレムで一緒に住んでいたようである。ペテロには一団の中心人物としての責任はあり、連絡は先ず彼のところに入った。
3節、「そこで、ペテロともう一人の弟子は出掛けて、墓へ向かって行った」。この二人が墓のありかを知っていたのは、墓までついて行った人から聞いたからに違いない。彼らは恐れていたから、埋葬の時には隠れていて、姿を現さなかった。今度も恐れていた。前よりもっと恐れていた。しかし責任があるから、事実を明らかにせざるを得なかった。19節に、「その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのおる所の戸をみな閉めていると、うんぬん」と書かれているが、弟子たちの恐れている様はズッとこの通りであったと推量される。
キリストは預言された通り復活された。ところが、弟子たちは深い恐れの中に沈み込んでいた。こういう状態が一日続いて、漸く弟子たちは喜ばねばならないことを知る。喜びはそう簡単には始まらなかったのである。今では復活の喜びというような言葉が簡単に語られるが、真の喜びになっているかどうか、吟味すべきである。復活を知るとは、復活劇が描き出すことを知ることではない。復活の命そのものを得ることである。