2004.06.13.

ヨハネ伝講解説教 第191回

――19:31-37によって――

 
 今日学ぶところでは、主イエスはすでに死んでおられる。主が我々のために死にたもうたことに大いなる意味があると我々は教えられ、そのように信じているが、その死は済んだ。大事なことは終わったのである。今日学ぶところは大事なところの終わった後のことである。では、何が残っているのか。何も残っていない。「全てが終わった」と主が言われた通りである。
 ただ、我々の側には、残っていることがある。だが、我々の側のことは取るに足りないではないか、と反論されるであろう。確かにその通りである。けれども、我々の側のことが取るに足りないものだという確認は重要である。預言が成就したことをイエス・キリストは確認しておられるが、我々も確認すべきではないか。
 イエス・キリストが我々のために全てをなし終えたもうたのに対する我々の応答が必要である。我々の応答とは、恵みに対して何かをお返しするというよりも、まず、差し出されたものを受け入れる確認である。
 キリストの死で全てが終わったということは確かである。それならば、それを確認しよう。ところで、その時、新しい世の到来の、少なくともその徴しが現われたのではないのか。――それは何もなかった。ヨハネの福音書には何も書かれていない。
 もっとも、ヨハネの福音書に何も書かれていないということは、何もなかったということと同じではない。マタイ伝では、27章51-53節に、「すると見よ、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。また、地震があり、岩が裂け、また墓が開け、眠っている多くの聖徒たちの死体が生き返った。そして、イエスの復活ののち、墓から出て来て、聖なる都にはいり、多くの人に現れた」と書かれている。こういう徴しがあったのである。またルカ伝23章45節にも、「聖所の幕が真ん中から裂けた」と書かれている。かなり大きい徴しである。が、それについて、ヨハネは何も言わない。
 徴しを見た人が見たと証言することと、見ていない人がそれについて何も言わないことは両立する。だから、我々は今日、ヨハネの書いたところに従って学び、マタイやルカの記事にある徴しには触れない。だが、何も偽っていないし、不都合があるわけではない。
 ヨハネは、自分の触れたことについて証言し、聖書が成就したと確認するのである。我々もそれに従って事後確認をする。
 31節から入って行く。「さて、ユダヤ人たちは、その日が準備の日であったので、安息日に死体を十字架の上に残しておくまいと、(特に、その安息日は大事な日であったから)、ピラトに願って、足を折った上で、死体を取り下ろすことにした」。
 このことについて、説明はなくて良い。キリストの死にたもうたその日は金曜日であった。ユダヤ人にとって土曜日は聖なる日である。死体は汚れた物とされていたから、聖日になる前に十字架から取り下ろして、目に触れないところに片づけなければならない、とユダヤ人は律法に則って考えた。その作業は日没前におえなければならない。日没とともに安息日が始まるから、仕事ができないのである。
 しかも、今度の安息日は大事な日であった。すなわち、今度の安息日は過ぎ越しが重なるからである。すでに繰り返し説明したところであるが、ヨハネ伝では、主イエスが十字架の上で死にたもうた日の夜が過ぎ越しの食事の時であり、したがって十字架の上で息絶えたもうた時刻が、それぞれの家のために過ぎ越しの小羊を屠る時刻であった。
 主の死は過ぎ越しの翌日であって、死の前夜の最後の晩餐が過ぎ越しの食事であるとしていつのは、ヨハネ伝以外のすべての福音書である。ヨハネだけが例外的に日を一日ずらす処置をしたとも言われ、いや、除酵祭がすでに始まっている大事な時に、十字架刑が執行されるわけはないから、ヨハネの日付が正しいのだという主張もあり、さらに、当時のユダヤには二通りの暦があったのだという比較的新しい発見もある。この事の調整をつけることは今はしない。
 ユダヤ人らは自分たちが殺したイエスの死体を野ざらしにしてはならないと思った。それは律法がそう規定するからである。申命記21章22節以下にこう書かれている。
 「もし人が死に当たる罪を犯して殺され、あなたがそれを木の上に架ける時は、翌朝まで死体を木の上に留めて置いてはならない。必ずそれをその日のうちに埋めなければならない。木に架けられた者は神に呪われた者だからである。あなたの神、主が嗣業として賜わる地を汚してはならない」。
 ユダヤには木に架けて殺すという死刑はなかった。死刑にした者を見せしめのために木の上に曝すことはあったのであろう。しかし、その日のうちに死体を隠さなければならない。「あなたの神、主が嗣業として賜わる地を汚してはならない」。よその国では許されるかも知れないが、嗣業の地ではそういうことをしてはならないと言う。神から預かった、したがって神に返すべき聖なる地を汚してはならない。
 安息日だから死体を木に架けたままではいけないと言っているようであるが、安息日にはいけないというのでなく、夜が来ないうちに片づけなければならないのである。
 そういう理由のほかに、ユダヤ人たちは自分らが彼を殺したという記憶を抹殺したいという気持ちを持っていた。使徒行伝を読むと、使徒たちはユダヤ人に対して、繰り返し「あなたがたが十字架に付けたイエスを神は甦らせたもうた」と宣言する。これはユダヤ人にとって余程こたえたようである。そうならないように、見えないところに隠してしまいたかった。
 もう一つ、ユダヤ人たちが主イエスの死を汚れたもの、したがって汚れを齎らすものと見ている点に注目しておく。我々の間では繰り返し主の死を示すことが行なわれるが、それによって汚れや呪いが来ることはない。むしろ、その逆である。死が示されることが呪いになるのでなく、逆転が起こった。
 さて、死体を取り下ろすのであるが、まだ死にきっていない場合があるようである。そうすると息を吹き返すかも知れない。そうならないために、とどめを刺すという意味で、足の骨を折ることがなされた。
 主イエスとともに十字架につけられた二人の犯罪者については、まだ息があったらしく、足の骨を折った。32節には、「そこで兵卒らが来て、イエスと一緒に十字架につけられた初めの者と、もう一人の者との足を折った」。
 そして33節、「しかし、彼らがイエスのところに来た時、イエスはもう死んでおられたのを見て、その足を折ることはしなかった」。
 「全てが終わった」と言われたイエス・キリストにまだ足りないことがあったかのように、ローマの兵卒が手を出す必要はなかった。また、兵卒らがさんざん冒涜した上、死体まで冒涜することはなかった。
 それを見ていたのは、26節以来十字架のそばに立っていた弟子ヨハネであると思われる。このことも、次に記される、槍で突き刺すことも、ヨハネ伝にしか出ていない事件である。つまり、ヨハネがこの事実を見ていたという意味である。
 ヨハネがどういう気持ちでこの場面を見ていたかは、到底言い表せないから、立ち入らないが、主の足が折られるのを見なければならないとは辛いことだと思っていたであろう。そして。主イエスの場合、足が折られなかったのでホッとしたであろう。その印象が大きかったことは想像できる。ある力が働いたから、足を折られずに済んだ。初めはホッとしただけだが、あとでその意味が分かった。それは36節に書かれている通りである。それは後で見る。
 34節には、「しかし、一人の兵卒が槍でその脇を突き刺すと、すぐ血と水とが流れ出た」と書かれる。他の人の十字架刑の場合にも、槍で突き刺すということがあったようである。脇腹から斜め上に、すなわち心臓をめがけて突き刺し、一挙にとどめを刺したということであろうか。あるいはまた、単なる残忍な遊びとして、肉体を弄んで、血が吹き出すのを楽しんだということかも知れない。
 血と水とが流れ出たのは、兵卒の予想したことなのか、思い掛けず流れ出たということなのか、そこは良く分からない。ただ、それを見たヨハネには予期しないのに見た衝撃があったことは確かであろう。すぐに血と水が吹き出した。だから、ヨハネはこのことを念入りに書くのである。そして、あなたがたも信じなければならない、と言うのである。
 血と水が流れ出た。これを見た時にヨハネは衝撃を受けた。こういうことがあるのか。「血と水」というふうに書く以上、血と水が別だった。ふつう人間の体内では水と血が分離することはないではないか。ヨハネもそれくらいのことは常識で知っていたから、最初見た時、驚いたのである。しかし、ヨハネにとっては、その衝撃が後にはいよいよ大きくなった。だから、ますます書かずにはおられなくなったのだが、つまり、血と水の意味がいよいよ深く分かったからであろう。
 ヨハネは後年、第一の手紙、5章6節以下にこういうことを書いた。「イエス・キリストは、水と血とを通って来られた方である。水によるだけではなく、水と血とによって来られたのである。その証しをするものは御霊である。御霊は真理だからである。証しするものが三つある。御霊と、水と、血とである。そして、この三つのものは一致する」。ヨハネのこの言葉は、十字架のそばに立っていた時に見たことと結び付いていると考えずにおられない。
 ヨハネは初め血と水を見た時、不思議なこともあるものだという驚きは感じたであろう。また、血が吹き出すすさまじさに衝撃を受けたであろう。そして、その後、主の言葉を学び直して、血と水ということの意味が分かった。血と水は御霊と共に証するものだということも分かったのである。そのことを福音書の中で訴えている。
 書簡の方に書かれている言葉は、多くの人が難しいと感じているものである。今、それを避けて通っていては、福音書のこの箇所の意味もハッキリしないから、掴んで置くことにしよう。
 ヨハネ伝に、水が重要な意味を帯びて屡々登場していることを思い起こすのは容易なことである。第1章にバプテスマのヨハネが水で洗礼を授ける者として登場する。水の洗礼は御霊の洗礼と対比され、御霊の洗礼と比較すれば水の洗礼は何の価値もないものだけれども、水にはそれなりの意味付けがあって、御霊がともに働くときには、水は十分な力を持つ。これを軽んじてはならない。
 水に関するヨハネ伝の教えは、3章5節の主の御言葉によって総括されていると言うべきであろう。「よくよくあなたに言って置く。誰でも水と霊とから生まれなければ、神の国に入ることは出来ない」。
 今日学んだ34節では、水がキリストの脇腹から流れ出たと言う。ヨルダン川の水、カナの町でかめに汲まれた水、ヤコブの井戸の水、ベテスダの水、シロアムの水、と水はいろいろあるが、何が源泉であるかと言えば、イエス・キリストなのだということを捉えなければならない。だからこそ、7章37節で主イエスは「誰でも、渇く者は、私のところに来て飲むが良い」と言われたのである。
 さらに、それに続いて、「私を信ずる者は、聖書に書いてある通り、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」と言われた。キリストの腹から水が出ただけでなく、キリストを信じる全ての者の腹からも水が湧き出ると約束された。
 次に、血について見よう。6章53節以下で、重要な言葉を与えて下さった。「よくよく言って置く、人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなた方のうちに命はない。私の肉を食べ、私の血を飲む者には、永遠の命があり、私はその人を終わりの日に甦らせるであろう。私の肉はまことの食物、私の血はまことの飲み物である。私の肉を食べ、私の血を飲む者は私におり、私もまたその人におる」。
 ここで血と言われたのは、肉と言われた物と対になっおり、その肉に対応するのは6章ではパンであるから、聖晩餐の葡萄酒のことであろうと思われるが、そうであるとしても、ここでは儀式や象徴でなく、主とともに生きる霊的な交わりが示されている。だから、霊的な意味が極めて大きいものとして捉えなければならない。
 証しするものは水と血である、と言われるのは、水の洗礼と、パン及び葡萄酒の聖晩餐による証しととって良い。このところを、水の洗礼だけでなく、血の洗礼をくぐらなければ駄目であると取る人がいる。その場合、血の洗礼とは殉教である。この解釈は軽々しい思い付きでない場合には、丁寧に受け取らねばならないが、聖書の解釈としては的からハミ出している。
 御霊が証しすることについては語られる機会が多いから、今回は説明を省略してよいであろう。このゴルゴタの場面では御霊について語られていないが、水と血の働くところ、どこでも御霊が働く。
 35節に進む、「それを見た者が証しをした。その証しは真実である。その人は、自分が真実を語っていることを知っている。それは、あなた方も信ずるようになるためである」。アァメン。信じるほかないのである。何を信じるのか。聖書が全うされたことを信じるのである。
 聖句の一つは「その骨は砕かれない」という言葉である。詩篇34篇20節に「主は彼の骨をことごとく守られる。その一つだに折られることはない」がある。神の加護を言うが、それよりは出エジプト記12章46節と民数記9章12節にある言葉の方が適切であろう。これは過ぎ越しの小羊を食べる時、その骨を折ってはならないという定めである。旧約の人々が守って来た定めはこのためにあった。キリストが過ぎ越しの小羊として示される。
 もう一つは、「彼らは自分が刺し通した者を見るであろう」であるが、ゼカリヤ書12章10節である。こうなっている。「私はダビデの家およびエルサレムの住民に、恵みと祈りの霊とを注ぐ。彼らはその刺した者を見る時、独り子のために嘆くように彼のために嘆き、ういごのために悲しむように、彼のためにいたく悲しむ」。
 これはどういう意味か、率直に言って難しい。ゼカリヤ書の言う主旨が終わりの日のエルサレムの回復であることは容易に分かるが、刺し通した者というのは誰か。神のことであろう。神であるキリストを刺し通して平気であった者が、その苦痛を理解するのみでなく、悔い改めるようになるという意味にとることが出来る。
 ヨハネがこのゼカリヤの言葉を引いたもう一つの箇所がある。黙示録1章7節である。「見よ、彼は雲に乗って来られる。全ての人の目、ことに彼を刺し通した者たちは、彼を仰ぎ望むであろう」。預言の成就と言っていないが、ゼカリヤの預言の成就はこういうことだと言っているのである。それは将来起こる。
 預言の成就として、兵卒は主イエスを刺したのか。預言の成就として、刺した者が悔い改める日が来るということなのか。言わんとしたのは後者であると考えられる。そうすると、兵卒が悔い改める日が来るということまで含む予告である。だが、こうも取れるし、こうも取れる、と解釈を並べるのではない。全てが終わったと言われた主に答えて、我々は成就を讃美しなければならない。
 

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