2004.06.06.

ヨハネ伝講解説教 第190回

――19:28-30によって――

 
 主が十字架の上で息を引き取りたもうところを今日は学ぶ。普通ならクライマックスと言われるところであろうが、ここにそういう場面が描写されていると考えては、大事なところを読み落とすことになるから注意したい。キリストが死んで行かれる場面の映像が生々しく示されると取ると期待するのば、ハッキリ言って正しくない。
 目をカッと見開いて、この場のたたずまい、血なまぐさい陰惨さ、それが心に刻まれるように受け取られるために、ヨハネがこのところを書いたのではない。簡単な文章で、主の語られた言葉は僅かであり、小道具としては極く僅かしか、葡萄酒をいれた器した書かれていない。これを読むだけでは、主の御最後の場面を再現することは出来ないと言うべきである。
 主イエスの死に際の有様を、目に見るように捉えてはならないというわけではない。それは人々の目撃した事件である。その場にいた人は、大人でも子供でも、悪意ある人も慕ってている人も、まじまじと見たのである。その場にいなかった人は、いた人から証言を聞いて、その事実を確かめていなければならない。しかし、福音書記者ヨハネは、キリストの死の情景を、あたかも目で見るように描こうとはしない。それは、他の三つの福音書がしてくれている。ヨハネの福音書は、視覚的にキリストの死を描き出したのではなく、キリストの死の意味を告げる。
 言うならば、我々は目を見開いて、そこに繰り広げられる光景を見るのではない。むしろ目をつぶって、耳を開き、言葉を聞き、その意味を思い巡らすのである。それは一ことで言うとすれば「成就」ということの確認である。
 実際に人の死んで行くところに立ち会うのは、見ず知らずの他人にとっても感動的である。まして、慕いまつる主イエスが死んで行かれる場に居合わせたなら、一生忘れることの出来ない感動になる。だから、主の教えを聞いて来た者らは、主の死の場面を出来るだけリアルに捉えて感動したいと思う。
 その感動がいけないというのではない。感動だけでは、結局、何も残らないということはその通りであるが、事実に触れても感動しないのが正しいと思うなら、それはまことに不自然過ぎて、人間としてどうかしているということになる。しかし、要するに、今日学ぶのはそのことではない。
 感動はその場で直ちに伝わる。ところが、今日学ぶところを読んで、すぐその場で感動して泣き出すようにならない人がいるであろう。信仰がないのではないかと自分を追求するには及ばない。人間としての感受性に欠けていると恐れる必要もない。それで良いのである。感動ではなく意味の確認がここでは重要なのである。
 28節から入って行こう、「そののち、イエスは今や万事が終わったことを知って、『私は渇く』と言われた。それは聖書が全うされるためであった。そこに酸い葡萄酒が一杯入れてある器が置いてあったので、人々はこの葡萄酒を含ませた海綿をヒソプの茎に結び付けて、イエスの口元に差し出した。するとイエスはその葡萄酒を受けて、『全てが終わった』と言われ、首を垂れて息を引き取られた」。
 「そののち」と先ずあるが、一つまた一つ、ことを取り上げ、その事の意味を考えて来て、次のことに移る、という具合に語っているのである。この前にあった重要な出来事は預言の成就として、籤引きによる衣服の分配がある。その次にあった女の人たちが去らずに立っていたこと、またマリヤの老後をヨハネに託したことだが、これは預言の成就ほどの重要なものではない。主イエスの心遣いの深さを示すものには違いないが、一つの挿話である。成就が一つ一つなされて行ったことにメイン・テーマがあると我々は考えたい。
 次に、万事が終わったと知ったと書かれているが、これは30節に、「全てが終わった」と言われたと書かれているところと同じ「終わる」という動詞である。これこそ今聞き取るべき中心主題である。
 万事が終わったのである。なすべきことを一つ一つ片付けて、ついに全てが完了したのである。主は行なわれなければならない全てを知っておられた。取り違えをする人はここにいないと思うが、「万事が終わった」とは、絶望をあらわすのではない。ただし、そういうふうに読み違いをする人がいても、責めるには及ばない。信仰なしで、すなわち信仰によって受け入れる御言葉なしで、この情景をただ見るだけならば、この「万事が終わった」とか、主の言われた「全てが終わった」という言葉は、絶望の表現としてしか受け取られないのである。
 もう何も残っていない。ちょうど、尽くすべき手は全部打ったが、回復の道は全て閉ざされたことを確認して、医者が臨終を宣告する。あれと同じ面がある。
 しかし、すでにクドイほど言って来た通り、我々は目を開いて一つのシーンを見ているのではない。耳だけを開いている。では何が聞こえて来るのか。「全てを成し遂げた」ということが聞こえるのである。達成感とか満足感という言葉では、この言葉に結び付いている世俗臭があるから、正しい理解に至らせる説明にならないが、主イエスはついに果たしたもうた。
 全てが終わったとは、二つの面から理解すべきことである。一つは、主ご自身が受くべき苦難、またキリストに関わって成就すべきこと、預言の成就、これを全部受けたということである。もう一つは、主が地上においてなすべきことを全てなしおえたもうたことである。第二の点が特に重要である。
 すなわち、イエス・キリストの果たすべきであった課題が、悉く果たされたという確認が重要である。そのことを理解するために、パウロがピリピの教会に送った手紙の2章6節以下に引用されている初代教会のキリスト讃歌、その8節を思い起こそう。主は「己れを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで、従順であられた」………。キリストは父に対する従順をこの十字架の死に至るまで行なって来られたが、ついに完結した。罪人らのために地上で果たすべきキリストの御業は完成した。だから、ピリピ書はここで大転換が起こったことを告げている。「それゆえに、神は彼を高く引き上げ、全ての名にまさる名を賜わった」。苦難が栄光に転換する。ただし、まだ見えてはいない。復活の朝まで待てば見えて来る。しかし、今すでに転換は起こった。
 我々はまた、同じ主旨のことを教えるヘブル書5章8節を思い起こすであろう。「彼は御子であられたにも拘わらず、様々の苦しみによって従順を学び、そして全き者とされたので、彼に従順である全ての人に対して、永遠の救いの源となり、神によってメルキゼデクに等しい大祭司と称えられたのである」。ヘブル書の著者もキリストがその死によって従順を全うされたことを言う。
 ヨハネ伝で、これまで、「上げられる」とか「栄光をうける」という言葉で、主の受難が語られていることにしばしば注目させられた。逮捕され、裁判を受け、屈辱に遭い、十字架につけられ、それがなぜ高く上げられることになるのかの説明はなかった。今その説明なのである。課せられている従順を果たし、苦難を全うされ、それゆえに約束された栄光を成就されたことを今学んでいる。
 すべてが終わったとは、その確認のことである。では、何故「私は渇く」と言われたのか。また。それはどういう意味か。それが、「聖書の全うされるため」というのは、どういうことなのか。
 渇きの苦しみが最後の苦しみであったということであろうか。そういう意味に取ることも出来る。渇きの苦しみが苦しみの一種として詩篇にも屡々語られていることを我々は知っている。詩篇69篇21節に「彼らは私の食物に毒を入れ、私の渇いた時に酢を飲ませました」と言うが、その預言が成就したと解釈することが普通には行なわれている。すぐ前の24節には、詩篇22篇の成就としてローマ兵たちが主イエスの着物をはぎ取って籤引きにしたと言われていたから、ここも同列のことと見てよい。
 その意味もあろう。しかし、それだけであろうか。他の意味も重ね合わせられているのではないか。思い起こせば、4章7節に、サマリヤのスカルの井戸のほとりで、主が一人のサマリヤの女に「水を飲ませて下さい」と言われたことがある。それは暑い日の昼時であった。サマリヤの国境を越えて昼時までの間に、スカルに至る遠い道を一気に歩いて来なければならなかった主が、疲れ切っておられたことと取ってよい。しかし、実際は渇きを忘れて福音を語りたもうた。その疲れがキッカケになって、サマリヤ伝道が展開されたのであるから、苦しみと結びつけ過ぎてはいけないであろう。
 主イエスが「私は渇く」と言われたのは、断末魔の叫びであったと見ることが出来るとしても、ご自身に飲み物を与えることを促されたと解釈出来るということも考えなければならない。渇きの苦しみにある者に、さらに酸い葡萄酒を飲ませて苦しみを増し加えるのは残酷な仕打ちである。詩篇69篇に言う通りであるが、もう一つ、末期の水を取らせる、せめてもの思い遣りがなされたと見ることも出来なくない。
 「酸い葡萄酒」とは、飲むに耐えないものという解釈が成り立つが、水の少ない地方で水の代わりに飲む普段の飲み物である。アルコール分の少ない葡萄酒が古くなると酸っぱくなるが、のどを潤すために飲むには差し支えない。その葡萄酒が一杯入った入れ物がそこにあった。マタイ伝ではそこにいる人のうちの一人が走り寄って、海綿を取り、それに酸い葡萄酒を含ませ、葦の棒につけてイエスに飲ませようとした、と書いている。これは、ローマの兵卒の一人が、同情して、エリヤが来るかどうか見ようではないかと言う同僚の言葉を振り切って、自分の腰につけた水筒から葡萄酒を海綿に含ませて飲ませたということであろうと考えられるが、これはヨハネ伝の記事は違う。今はヨハネ伝の記事について専ら考えることにしたい。
 入れ物が何であったかは分からない。何のためにここにその入れ物があったのかも分からない。兵卒の携えていた水筒、それは瀬戸物の広口瓶であったようだが、それだったかも知れないし、他の何かの器であったかも知れない。大きい器だったか、小さい器だったかも分からない。それはどうでも良い。目に見える物を想像することはここではそれほど大事ではない。「一杯入れてある」という点だけが重要なのだと思われる。
 我々の想像はここで一挙にガリラヤのカナへと飛んで行く。主イエスは「カメに水を一杯入れなさい」と言われた。カナの婚宴では、潔めのために水を満たす大きい瓶が6つあったと書かれている。一方、ゴルゴタでは水の容器は、壺であっても瓶であっても1つだけであって、2つの事件を結び付けることは出来ない。
 しかし、水を一杯入れたという点では共通する。恵みの充溢を象徴するものである。そして、カナの祝福の奇跡は、主イエスの最初の徴しという位置をもっている。それに対して、今見ているるものは、主の活動の最後の段で行なわれたものとしてカナの出来事と対称的な位置を持つ。
 さらに、連想せずにおられないのは、詩篇23篇5節、「わが杯は溢るるなり」である。ダビデは「たとい我、死の陰の谷を歩むとも禍いを恐れじ」と歌い、「汝、我が仇の前に我がために宴を設く」と歌った続きに、「わが杯は溢るるなり」と言うのである。まさに死の谷である。仇は取り囲んでいる、しかし、主の祝宴が始まっているということも、ここで読み取らなければならない。
 葡萄酒を海綿に含ませて高いところに運び、それを吸い取らせること、あるいは寝ている人の口に含ませることは、昔の人も知っていた知識である。これをしたのが誰であるかは分からない。善意であったか、意地悪な動機であったかも分からない。
 ヒソプの茎が、葡萄酒を含ませた海綿を持ち上げて十字架につけられている主の口元まで運ぶ手段として用いられた。マタイ伝、マルコ伝には、海綿を葦の茎につけて持ち上げたと書いてある。葦の茎でもヒソプでも、持ち上げるために用いる点では違わないと思うが、同じ物ではない。ヒソプは香りの良い植物である。ヨハネがヒソプと言うのは、その言い方をしたい意図があったからである。
 おそらくそれは、ヒソプが用いられた実例を思い起こしていたからである。それは出エジプト記12章22節に、出エジプトの夜を迎える準備として、過ぎ越しの小羊の血をヒソプの茎に含ませて家の門や鴨居に塗った、あるいは振り掛けたことを思い起こさせるためであった。ちょうど過ぎ越しの小羊が屠られる時刻になっていた。キリストが過ぎ越しの小羊であることを示すのである。
 ヒソプの茎によって持ち上げられるのは葡萄酒であるが、葡萄酒に香りが添えられたことも見て置くべきであろう。葡萄酒はヨハネ伝にはキリストの血を表わす物として登場することは余りないのであるが、「私の肉を食らい、私の血を飲まなければ命はない」と6章で言われた。葡萄酒は広く教会に行き渡っていた徴しである。
 こうして、これを受けて、「全てが終わった」と言って、首を垂れ、息を引き取られた。全てが終わったとは先に見た通りの意味である。彼は最後の葡萄酒を飲み、これで終わったと言われた、飲むべきものは飲まなければならない。
 十字架で死ぬ人の多くは、少しずつ生命力が衰えて、やがて死ぬもののようである。主イエスの場合は、比較的短い時間でガクッと死にたもうた。「息を引き取りたもうた」と訳してあるが、間違いかも知れない。文語訳では「霊を渡したもう」と訳している。これの方が適切である。「プネウマ」ということばは「息」と取るべきところもあるが、「霊」と取らなければならないこともある。ここでは霊を渡したのであって、彼が死ぬことによって他の人が新しい命としてキリストの霊を受けて生き始めたことを言ったのではないかと思われる。
 キリストの死は勝利であり、新しいことの始まりであり、キリストの死によって新しい命が始まったのである。出来事の表側を見て感激しているだけではいけないことを、今日は何度も示されたのであるが、キリストの死が霊を与えることだという意味は、見るだけでは分からなかったのである。

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