2004.05.09.

ヨハネ伝講解説教 第187回

――19:10-13によって――

 
 「あなたは、もともと、どこから来たのか」と問われ、主イエスがお答えにならなかったので、ピラトは不快感を募らせ、苛立ったようである。そこで、10節で言う、「何も答えないのか。私には、あなたを許す権威があり、また十字架につける権威があることを知らないのか」。
 「権威」という言葉は、彼の裁判では初めて用いられた。内容的には、先に出た「あなたは王であるか」の尋問とほぼ重なっている。「権威」は聖書用語として珍しいものではない。キリストが「学者のように教えるのでなく、権威ある者のように教えたもうた」ことを我々は知っている。さらに、キリストに権威があると弁えているだけでは足りない。ヨハネ伝1章12節には、「彼を受け入れた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである」とあるが、この「力」、これが今いう「権威」である。我々もこの権威を持っていることを良く自覚しなければならない。権威は力という意味の言葉であり、また権力と訳されることも多い。
 今回は、キリストの権威でも、我々信仰者の権威でもなく、ピラトが自分の権威について自分の口で主張している。これは世俗の権威、むしろ権力と言った方がピッタリするかも知れないが、これは無視してはならないものである。世俗の権威も意味あるものとして神によって立てられているのだから、我々はこれに服従する。それが神のみこころである。世俗の権威を無視するのが純粋な信仰であると言ってはならない。イエス・キリストも地上の権威に服して税金も納めておられたのである。
 さて、10節は、ピラトが自分の権威が無視されたことを、不愉快に思って語った言葉であると考えられる。「私には、あなたを生かすことも殺すことも出来る権威があることを、どうして認めないのか」。――ここには、「このユダヤにおいて、私が殆ど絶対と言えるほどの権力を持っていることを思い知らせたい」という自己顕示欲が露骨でないとしても顔を覗かせている。また、私の権力は正しい裁判を行ない、正義を行なう力があるという自信が現れている。
 ピラトにはまた、自分の持つ権力によって、無罪の人を釈放し、祭司長たちの抱く嫉みを挫こうとする、我ながら立派と思う判断が出来ているぞという自負がある。この立派な判断を、主イエスが尊重しておられないことに苛立ちを感じている。
 これに対して、イエス・キリストはこうお答えになった。「あなたは、上から賜るのでなければ、私に対して何の権威もない」。何故答えないか、と問われているが、その理由は答えておられない。それは前回見たように、答えるに価しないからである。
 ここにある主のお答えから、第一に学ばなければならないのは、権威が上から来るという基本的認識である。つまり、ピラト自身に権威があるのでない。権威は上から受けるのである。これを思い知りなさい、ということである。ピラトが非常に威張っていたかどうかは分からない。比較的ましな支配者であったと認めて多分間違いないと思う。しかし、そうであったとしても、殆ど取るに足りないのであって、大事なことは、地上にある権威・権力は 、上から賜わったものだということである。したがって、それは上から取り去られればなくなってしまうし、その権力を持っている人間が死ねば、それを行使できなくなるのである。――死者にとっては、生前に交わした契約としての遺言が実行されるべきであって、それ以上の要求は出来ない。ピラトは権力を持つことに充実感をもっていたようだが、権力というものは、映写機で映し出された映像のようなもので、実在感があるかのようであっても、スイッチを切れば何もなくなる。地上の権力とはそういうものである。
 「上から」という言葉は、この世における地位の上の者からと取られるかも知れないが、そうではない。「あなたは、あなたよりも権威を持つカイザルから権威を受けている」という意味ではない。こういう解釈は地上の権力に当てはまると思われるかも知れないが。聖書に基づく理解はそういうものではない。この「上から」という言葉はヨハネ伝3章3節にあった。ニコデモが訪ねて来た時、主は言われた、「誰でも新しく生まれなければ、神の国を見ることは出来ない」。ここに「新しく」と訳されているギリシャ語が今日の学びにある「上から」なのだ。簡単に言えば、「上から」とは、「神から」という意味である。人からではない。自分で築き上げたのでもなく、人から委託されたから権威が発生したということでもない。
 権力というものは、地上にある形としては、そのような限定のもとにあるものに過ぎない。これを一時的に持っている者も、これの支配下に一時的に置かれている者も、これをあくまで神から来て、神のもとで行使されるものとして把握すべきであって、自分の力を過大評価してはならない。
 次に、主イエスが「私に対し」と言っておられる言葉に注意したい。上に見た通り、先ず、権力についての一般論を語られた。ピラトの権力が主イエスに対してそうであるというだけでなく、権力というものは全てそうなのだと学んだ。そのことを踏まえた上で「私に対し」と言われたことを聞き取らねばならない。
 「私に対し」とは、「私の場合は特別だ」という含みを持つものである。ただし、特別といっても、一般の秩序が私には適用されないという意味ではない。ピラトが宣告を告げようとした時、声が出なかったというような、神の権威の直接の、奇跡による介入が起こるというような場合ならば、特別だということは目で見られたであろう。けれども、そういう事件は起こらなかった。やや異常な、すなわち人間の失敗によって汚名を残す結果になるような、マズイ部分を伴っているが、それでもこれは尋常の裁判である。言い換えれば、裁判の無効を宣言して、やり直さねばならないというものではなかった。裁判の結果はそれで良い、と神が認めたもうたのである。「この裁判の結果を、自分は認める訳に行かない」と私が言い張る必要がない、ということが「私に対して」という言葉に含まれているのである。
 その次の、「だから、私をあなたに引き渡した者の罪はもっと大きい」、これは読んでスグには意味の取れない言葉であるかも知れない。「引き渡した者」とは誰のことを言われたのであろうか。
 「引き渡す」という言葉が印象深く用いられているのは、ユダの裏切りに関してである。だから、ユダの裏切りの罪のことを言われたように取る余地があるかも知れない。しかし、「私をあなたに引き渡す者は」と言われるのであるから、ユダではない。ユダはピラトとの接触はない。引き渡したのは、祭司長たちのことであろう。ただし、引き渡した者というところが単数になっているから、少々難がある。それでも、祭司長たち、ユダヤの権力が一丸となって主イエスをピラトに引き渡したと取ってよいであろう。
 「もっと大きい」と言われたのは、誰よりも大きいのか。ピラトよりも、という意味であろう。主イエスを殺したことについて、誰が責任をとるか、ということで教会の中で論じられる機会がしばしばあった。我々は使徒信条の中で、いつも「ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け」と唱えるが、これはキリストの死刑の責任者はピラトであるとしている。
 ユダヤ人がその責任をとるべきだという理解もある。マタイ伝27章25節には。「すると、民衆全体が答えて言った、『その血の責任は、われわれとわれわれの子孫の上に掛かっても良い』」。この句は他の福音書にはないのだが、マタイ伝はユダヤ人の責任を強調しようと意図したようである。
 ユダヤ人は悪い、という憎しみが長い間ヨーロッパの人々の心を占めていたことを我々は知っている。ユダヤ人を迫害する場合、先祖の語ったこういう言葉があるではないかと言われたことも知っている。しかし、イエス・キリストの受難の歴史に出て来るユダヤ人がユダヤ民族という意味でないことは言うまでもない。当時のユダヤ人のうちかなりの部分は、使徒行伝で見られる通り、悔い改めて福音に立ち返れと呼び掛けられて教会に加わった。また「ギリシャ語を使うユダヤ人」と呼ばれる人々の多くはキリスト者となり、それぞれの国に溶け込んだのである。
 ユダヤ人の罪の方がもっと大きいとはどういうことか。ピラトは上から賜る権威によってイエスを裁いた。それは一般の裁判が上から権威を与えられて執行されるのと同列であるが、神の子キリストを裁くという特別なケースでも同じであった。すなわち、罪なき神の子が裁判によって罪を負わせられるとは、罪人の罪が代わって負われ、償われ、罪人らを罪から贖い出すことである。そのことのために、救い主は裁判によって有罪とされて処刑されたもうた。つまり、ことは正しく法的であったとは言えないとしても、一応法的と言うほかない手続きによって処刑されたもうた。それが完全に法に適ったとは言いがたいとしても、ピラトが一旦イエスは無罪だと判定したことは、法律に則って裁判をしようとしていたことを明らかに示している。
 ユダヤ人らの場合はどうか。ピラトは18章31節で、「あなた方は彼を引き取って、自分たちの律法で裁くが良い」と言ったが、ローマの法律では裁判が困難だから、ユダヤの律法によって裁判せよ、という意味であったように思われることはすでに見た。そして、前回、7節で見たように、ユダヤ人は「私たちには律法があります。その律法によれば、彼は自分を神の子としたのだから、死罪に当たる者です」と言った。
 そういう条項が律法の書の中にあるかと検討するならば、ないのではないか。このユダヤ人の律法解釈は拡大解釈であって、自分では正しいと思ったかも知れないけれども、正しい解釈というよりは律法を自分の権威のために利用したに過ぎない。
 確かに、エルサレムの議会には、ユダヤの民に神の法を適用するる義務があった。大祭司のもとで議員による法廷が開かれたことは、それなりにユダヤの秩序であった。しかし、律法による裁判と言っていながら、本当に律法にしたがったのかというと、その点では間違いを犯したのである。神の律法を守らないのに、律法の権威に訴える者は大きい罪を犯したと言わなければならない。これはユダヤ人の場合に限らず、神の言葉を委ねられている者のよくよく注意しなければならないことである。
 それにしても、それが許されぬ罪であったと考えてはならない。むしろ、その罪人のためにキリストは死なれた。
 12節前半、「これを聞いて、ピラトはイエスを許そうと努めた」。「これを聞いて」とはどの言葉を聞いたのか。「聞いた」という言葉があるのではない。「こういうことで」という言葉が使われるのである。ここでも、ピラトの判断の正しさが示される。ピラトは自分のしている裁判はローマの法律に適ったものであり、ユダヤ人の訴えはユダヤの律法によっても正しい法的措置ではないと判断したのである。
 ピラトは何度も何度も主イエスを無罪にしようと努力したが、今回が最後である。彼は根気負けしたようである。
 12節後半、「しかし、ユダヤ人たちが叫んで言った、『もし、この人を許したなら、あなたはカイザルの味方ではありません。自分を王とする者は全てカイザルに背く者です』」。
 宗教と無縁なピラトのような人を相手に、イエスが「神の子」と言っておられたことを持ち出しても、勝ち目がないとユダヤ人たちは見たようである。そこで、「王」と言われたことに差し替える。これなら、問題なく反乱罪になる、とユダヤ人たちは予想した。しかし、この件は18章33節以下で見た通り、ピラトが一度確かめた上、「王」の意味が違うのだから差し支えないと判断したことではないか。
 王ということに関する尋問は官邸の中で行なわれ、ユダヤ人は官邸の中に入らなかったから、そのやり取りを聞いていなかったかも知れない。しかし、彼らは強引に主張を繰り返すことによって成功しようと考え、ピラトに脅しを掛けるのである。この人を許したなら、カイザルに反逆することになる。そう言いつけるぞ。
 13節、「ピラトはこれらの言葉を聞いて、イエスを外へ引き出して行き、敷石(ヘブル語ではガバタ)という場所で裁判の席についた」。
 この時の裁判の中味は描かれていない。官邸の中に裁判のためのホールがあって、通常、そこが法廷になるのであるが、今日はユダヤ人が建物に入りたがらないので、被告を官邸から外に連れ出して裁判をした。
 「ガバタ」というところがどの地点であったか確定できない。いろいろな臆説がある。ガバタが敷石という意味だというのでもない。ガバタという言葉も良く分かっていないのである。常識的に考えて、官邸の玄関先、石畳になっているところであったであろう。
 「その日は過ぎ越しの準備の日であって、時は昼の12時頃であった」。過ぎ越しの準備とは過ぎ越しの食事を家々でするための準備で、先ず、家ごとに小羊を屠って祭壇に捧げ、家に持ち帰って調理する。すなわち、丸焼きである。
 共観福音書では、前夜が過ぎ越しであったように書かれていて、読む者を困惑させている。共観福音書のように読めば、前夜、ゲツセマネに出て行く前の所謂最後の晩餐が過ぎ越しの食事であって、出エジプトの時以来、代々に亘って受け継がれて来た過ぎ越しが、キリストの死によって成就し、以後、この成就がキリストの民の間で記念されるようになる。その記念のためにイエス・キリストはパンを割いて、これが私の体であって、私の記念としてこのように行なえ、と言われた・
 ヨハネ伝では、過ぎ越しの準備の日に、その午後、過ぎ越しの小羊が屠られる時刻に十字架の上で息絶えたもうたと捉える。
 どちらの日付に従うとしても、イエス・キリストは世の罪を負う小羊として捉えられねばならない。ヨハネ伝では1章29節にイエス・キリストが実際に初めて登場したもうが、それを見たバプテスマのヨハネは、「見よ、世の罪を負う神の小羊」と言う。35節に、その翌日、主イエスは再び登場したもう。ヨハネはまた言う。「見よ、神の小羊」。このように、福音書の中で主イエスは繰り返し、最後の時に至るまで「世の罪を負う神の小羊」として示されたもう。
 主が過ぎ越しの小羊として我々の前に立ちたもうのを見るように促すのが「過ぎ越しの準備の日」という記事の意味である。

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