2004.04.04.

ヨハネ伝講解説教 第184回

――18:37-40によって――

 
 ピラトは主イエスに向かって、「あなたはユダヤ人の王であるか」と尋問した。それに対して、主は、ストレートな答えとは言えないが、「私の国はこの世のものではない」と答えたもう。それでも、ピラトはその答えの意味を受け取ることが出来た。
 37節にこう記される、「そこでピラトはイエスに言った、『それでは、あなたは王なのだな』」。
 ユダヤ人がイエスを訴えて、「彼はユダヤ人の王と自称している」と言った。ピラトは初めからその訴えに疑念をもっていたが、審問して、イエスは或る意味で王であること。しかし、その王という意味は、普通に言われているものとは違うこと。したがって、ローマのカイザルが地上の主権を持っていることと抵触しない。だから、この世の法律によって裁くになじまない、との結論を得た。
 ピラトに主イエスの御言葉の真意が分かった、ということではないと思う。これは自分の判断の及ぶ範囲のことではない。いわば、別世界の話しのようだと聞いたのである。別世界のことであるなら、この世のことに携わっている自分には関わりのないことだ、とピラトは判断した。
 ピラトの判断は、一応正しいと言うほかないのではないか。しかし、その正しさについて、我々は何か割り切れない感じを残している。すなわち、「私はこの人に何の罪も見出せない」と言ったのはそれで善いとしても、結局、主イエスを死刑にすることになるのは、首尾一貫していないではないか。ピラトという人は、風見鶏のように、時の風向きでどちらの方向にも向き変わる、節操のない、情けない人間であり、政治家であると我々は考える。
 ピラトが、一貫性のない、情けない、頼りない、軽々しい人物であると評価するのは、それで善いと思うが、そういう人物評価をして、どれだけの得るところがあるのか。たしかに、我々がその時その時の状況に振り回されているのは、ミットモナイことであって、そういう人間にならないように心掛ける必要はある。しかし、そのような道徳的教訓しか得られないのであろうか。我々はもっと深く考えねばならない。もっと良く目を開かなければならないのではないか。
 ピラトは、その人物が立派であるかないかと関係なく、ローマ帝国の支配をこの地方で代表する者であるということを見なければならない。我々の前には、王なるキリストと、ここでは地上の主権を代表している総督ピラトが立っているのであるが、それは地上の王国と、この世のものでないキリストの王国が並べ置かれていることを象徴するのである。この世のものと、この世のものでないものとは衝突はしないが、調和もしない。とにかく、その二つの王国の違いを弁えなければならない。ピラトにもその違いは或る程度分かったが、違っていることが分かっただけである。我々にはもっとチャンと二つの王国の違いが分からねばならない。
 さらに、我々はこの世に生きている限り、一面ではこの世の王国に属し、その命令には服従しなければならない。しかし、同時にキリストの王国に属する。そして、この世の王国の権威に服従する状態は、地上の命が尽きる時には解除され、もはや従う必要のない状態になるのだが、キリストの王国には永遠に帰属する。二つの王国の支配は永続性という点で違う。
 さらに、二つの王国は、支配の方式という点でも全く違う。キリストの王国は愛の王国であり、「互いに愛し合え」との掟が与えられている。別の言い方では福音の支配の王国である。この世の王国は、剣で威嚇して法律に従わせる支配である。この世の王国でも、慈しみ深い王様という宣伝はなされる。ある場合はその宣伝は全くの作り話である。或る場合、人並み以上に優しい王がいることがあるのは事実であるが、それでも、その王国が権力を撤廃して、相互信頼によって国の秩序を立てるというものではない。王がどんなに優しくても、その王が国民一人一人の名を知っているわけではない。
 キリストの王国に属する者として、如何に生き、如何に歩み、如何に語り、如何に死するかについて、一ことで言えば、信仰を学ぶのが、聖書からの主要な学びである。しかし、地上にいる限りは、地上の王国の中で如何に生きるか、何を語るかも、ないがしろには出来ない。
 イエス・キリストがポンテオ・ピラトの法廷に立ちたもうたことを、今、聖書から学んでいるのであるが、この学びは、どういうことがあったかの説明でも、聖書の語句の説明に終わるものでもない。いや、主がポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受けたもうた意義、すなわち、我々に代わって神の裁きを受け、我々を有罪の状態から贖い出したもうた贖い主の御業を学ぶだけでもない。ここで主はとくに御自身が王であることを語っておられるのであるから、彼の王国の広がり、その王国への我々の関与について我々の学ぶべき領域全体を十分把握した上で、聖書のテキストを読んで行こう。
 37節の途中から先を続ける、「イエスは答えられた、『あなたの言う通り、私は王である。私は真理について証しをするために生まれ、また、そのためにこの世に来たのである。誰でも、真理につく者は私の声に耳を傾ける』。ピラトはイエスに言った、『真理とは何か』」。
 「あなたの言う通り、私は王である」。主は先ずピラトに言わせ、それから「あなたの言う通りである」と答えるという対応をしておられる。他の福音書で、大祭司カヤパが「あなたは、ほむべき者の子キリストか」と訊ね、「その通り」と答えておられるのと同じ言い方である。ほかにも、こういう言い方をされた場合が多いということを我々は知っている。
 当時のラビたちの教え方で、こういう教えの進め方がごく普通であったと思われる。しかし、今の時代は別だということにはならないと思う。
 自分で言わないで、相手に言わせ、「その通り」と答えるのは、ハッキリ言う責任を相手に押し付け、自分の負担を軽くする、ズルイやり方だと見る人は、ここにはいないと思うから、弁解めいた説明はしない。主がしばしば、いや、常に、答えを与え、口写しに答えさせるというやり方でなく、答えを引き出すというやり方で教えたもうたことは、十分注意しておくべきである。
 答える主体性が人間の側に移されるという主旨でないことは確かである。マタイ伝16章で、イエス・キリストが弟子たちに「人々は人の子のことを誰と言っているか」と問われたことがある。弟子たちが答えると、次に、「では、あなたは私を誰と言うか」と訊ねられた。ペテロが「あなたこそ、神の子、キリストです」と答えた時、主は直ちに言われた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いである。あなたにこの事を顕したのは、血肉ではなく、天にいます私の父である」。
 この答えが、ペテロの内面でさまざまな機会に、さまざまな見聞を通じて育てられて来たと解釈して間違いではないであろう。しかし、イエス・キリスト御自身が、この答えは、ペテロが産み出した答えでなく、父なる神から啓示されたものだと言われたことはさらに重要である。
 確かに、我々が主に向かって語る信仰の言葉は、他者の言葉でなく、自分自身の言葉である。その言葉について責任が問われる時、これは与えられたままに語っただけだと言って逃げるわけには行かない。それを語ったことが咎められるならば、そのために殺されても節を曲げない。そういう意味では、これを主体的な言葉と言って良いのだが、自分の意見というものではない。
 それならば、ピラトが「それでは、あなたは王なのだな」と言ったのも、神からの啓示であったのか。――そうではない。これはピラトの判断であった。彼がイエスから聞き取ったところによって判断したのがこの結論である。判断としては間違っていなかったと言えるが、間違っていないだけでは意味がない。キリスト教の学校で学科としてキリスト教の教理が教えられ、生徒たちが習ったことを書けば正解と見て貰えると考えるのと変わりはない。
 ピラトが、「それでは、あなたは王なのだな」と納得したことによって、ピラト自身は何一つ変わらない。しかし、我々が、「イエスよ、あなたは私の主です」と言うとき、一切が変わる。イエスがキリストであるとは、我々の一切に関わることだからである。一切に関わると言うだけでは足りないであろう。世界が変わるのである。新しい世界が始まるのである。
 さて、こうして、「私は王である」と言われたのに続いて、「私は真理について証しするために生まれ、また、そのためにこの世に来たのである。誰でも、真理につく者は私の声に耳を傾ける」と言われる。
 「王である」と言われたことと、「真理についての証し」とが、余り良く結び付かないと感じる人がいるなら、結び付くようにしなければならない。すなわち、王であることの説明として、真理についての証しを語りたもうたからである。
 「私は真理について証しするために生まれた」と言われる。ここで「生まれた」ということの意味をハッキリさせなければならない。あることに使命を感じている人は良く、私はこのために生まれたのだと言う。主イエスもそうだったのか。そのように受け取っても不都合であるとは思わないが、物足りない感じがある。主イエスが御自身が生まれたことについて語られた箇所は、ヨハネ伝ではここだけで、ほかの箇所では人が生まれることについて言っておられる。だから、生まれるという言葉の意味を明らかにするのは容易ではない。
 ナザレのイエスがマリヤから生まれたことをここに言われる「生まれる」に当てはめても意味はないのではないか。これはむしろ、父から生まれたことを指して言われたと考えられる。そして、父が御子を生みたもうたのは、世界が造られてからではなく、世の造られる前、永遠の初めである。
 人間の形をとってベツレヘムに生まれて来られたということでなく、御父が御父一人で立つのでなく、御自身のほかに、御自身とともに、御子を立てたもうたこと、これが生まれると表現されているのである。
 それは証しのためであったと言われるが、御父が御自身を証しするために、御子を立てて証しさせたもうたことを言われたのである。5章31節に、「もし、私が自分自身について証しをするならば、私の証しは本当ではない。私について証しをする方は他にあり、そして、その方がする証しが本当であることを私は知っている」と言われた。つまり、一般論として証しは自分で自分の証しを立てるのは好ましいことでないので、御父が御子のために証しをされると言われたのである。
 このことをさらに厳密に言われた、8章17-18の御言葉を思い起こそう。「あなた方の律法には、二人による証言は真実だと書いてある。私自身のことを証しするのは、私であるし、私を遣わされた父も私のことを証しして下さる」。二人で証しするのが真実な証しである。御父と御子がともに御子について証しする時、それは真実な証しとなる、ということをこの8章では教えられるのだが、それを踏まえて、18章37節では、父なる神が真実なる証しを立てるために、ご自分のほかに御子を証しのために永遠にお立てになったということを知るべきである。
 御子が世に来られたのは真理の証しのためであった。真理について論じる人は多いとは言えないが、それでも、これが真理だと教える人は後を絶たないし、その教えを本物だと思う人はいつの時代にもいる。けれども、その人たちの言う真理に確かさがあるだろうか。キリストは真理を教えるだけでなく、真理が真理であることを証しされたのである。
 次いで、「また、そのためにこの世に来た」と言われる。証しのために生まれたことと、証しのためにこの世に来たこととは目的は同じであるが、事柄は区別したほうが良い。生まれたのは永遠にであって、世に来たのは定められた時が満ちたから来られたのである。
 このことについて、理解を堅固にするために、もう少し述べて置く。今、御父が御子を証しのために立てたもうたと言ったが、それはヨハネ伝の初めで、「初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった」と言うのと同じことである。御子は言葉なのだ。その永遠の御子、また永遠の御言葉が世に遣わされてマリヤから人間であることを受け取り、人となったのである。
 「真理について証しする」と主イエスが言われたその真理は、御子が証しする御父であると言っても良いと思う。父なる神は真理だからである。しかし、もっと適切に言うならば、御父と御子が二つでありつつ一つであること、そこに救いがあること、それが真理なのである。
 「誰でも真理につく者は私の声に耳を傾ける」。ここで「真理につく者」と言われている「につく」は「から」という言葉である。「肉から生まれる者は肉であり、霊から生まれる者は霊である」と3章8節にあったが、その「から」である。ただし、ここで言う「生まれる」は出生というイメージで捉えると分かり難くなる。真理からの者は真理に属する者と解釈すべきである。
 6章37節に「父が私に与えて下さる者は皆、私に来るであろう。そして、私に来る者を私は決して拒みはしない」と言われたが、意味の上では似ているところがある。真理に属する者とはキリストに支配のもとに委ねられた者で、彼らは羊が羊飼いの声を知っていて、集まって来るように、キリストのもとに来るのである。すなわち、真理の言葉に耳を傾ける。
 「ピラトはイエスに言った、『真理とは何か』」。ピラトにとって主イエスの今言われた言葉は全く謎であった。彼に聖書の言葉を聞く予備知識がなかったということは問題にならない。ピラトが裁判官で、主イエスが被告であるという関係では真理の言葉も真理の言葉としては聞こえない、ということも考えるべきではない。真理に属する者なら、初めて聞いた言葉でも分かるのである。分かると言っては言い過ぎかも知れないが、分からなくても分かるのである。
 「こう言って、彼はまたユダヤ人のところに出て行き、彼らに言った、『私には、この人に何の罪も見出せない。過ぎ越しの時には、私があなた方のために、一人の人を許してやるのが、あなた方のしきたりになっている。ついては、あなた方は、このユダヤ人の王を許して貰いたいのか』。すると彼らは、また叫んで、『その人でなく、バラバを』と言った。このバラバは強盗であった」。
 ピラトは主イエスを放免しようと思ったがユダヤの民衆がそれを許さなかった。ということは、真実が全面的に敗北したということか。そうではない。悪が思いのままに振る舞っていたようではあるが、実は、神の御旨が成就した。それがキリストの御受難であった。

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