2004.03.21.
ヨハネ伝講解説教 第183回
――18:33-37によって――
今日は、主イエスがピラトの裁きを受けたもうたくだりについて学ぶのである。先ずこう書かれる、「さて、ピラトはまた官邸に入り、イエスを呼び出して言った、『あなたはユダヤ人の王であるか』」。
ピラトは、主イエスを訴えて来たユダヤ人と話しをするために、官邸あるいは庁舎、ローマ人がプラエトリウムと呼ぶ建物の外に出ていたが、話しが決着したというわけでもないようである。とにかく、庁舎の大部屋に入って、裁判官の座についた。それから、被告人を呼び出した。そして問う、「あなたは、ユダヤ人の王であるか」。
これは人定尋問であるが、普通の裁判における尋問の仕方と違って、ピラトは「あなたは、ナザレのイエスか」と問わないで、「ユダヤ人の王か」と尋ねるのである。ピラトはあとで罪状書きを書くときも、19章19節にあるように、「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」と書いている。これが正式の呼び方であると心得ているのである。それどころか、彼はことさらに「ユダヤ人の王」という呼び名に固執している。それが何故なのかは、その次の節で、主イエス御自身も問うておられるが、それに対する答えと言うべきものは書かれていないので、我々には確かなことは言えない。
「ユダヤ人の王」という言葉は、ヨハネ伝ではこれまでに使われたことがなかった。ごく早い時期に、ナタナエルが、1章49節で、「先生、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」と本格的な告白を捧げているが、ナタナエル自身この告白の意味を弁えていたとは思われない。それでも、この言葉自体は正しいと言うほかない。「イスラエルの王」という呼び名は、まさにイスラエルに約束された来たるべき王としてのメシヤであるという意味で、正確な呼び名である。
12章13節、主が過ぎ越しの5日前にエルサレムに入城された時、群衆が迎えて、「ホサナ、主の御名によって来たる者に祝福あれ、イスラエルの王に」と歓呼した。彼は主の名によって来たる者であり、イスラエルの王であった。
ヨハネ伝6章15節には、「イエスは人々が来て、自分を捕らえて王にしようとしていると知って、ただ一人、また山に退かれた」と書かれている。この場合、「ユダヤの王」であるのか、「イスラエルの王」であるのか分からないが、民衆はユダヤ人には違いないが、ナザレのイエスを「ユダヤ人の王」とは言わなかったのではないかと思う。すなわち、そこはユダヤでなく、ガリラヤ湖の北であり、テラコニテであった。主イエスを押し立てて王にしようとした人たちはユダヤ人であるが、彼らが旗揚げをしようとした地はユダヤではない。
「ユダヤ人の王」という呼び名は罪状書きに書かれた名として、全ての福音書に出ている。それをピラトが書いた。そのことは本当であろう。が、ユダヤ人自身は、今見たように、「イスラエルの王」と言うのが正式であると心得ており、「ユダヤ人の王」とは言っていなかったようである。「ユダヤ人の王」という呼び方は、ユダヤ人には好まれておらず、その指導者たちが、ピラトに訴える時、ピラトにも分かり易いように、こう言ったのではないかと思う。
ピラトは、主イエスが、ある意味では、王なのだと感じ、王であると言わせて良いではないかと思った。ただし、王であるとは、カイザルの主権と抵触しない、別次元のことがらである。そのように内心認め、またそう理解せざるを得なかったようである。――あるいは、全然そういうことを認めていないのに、被告人イエスと、彼を告発したユダヤ人らをからかってやろうと思って、「ユダヤ人の王」と言ったのかも知れない。――それとも、彼自身の判断を越えたところで、ある力に強いられて、そう呼んだのか。
「ユダヤ人の王」という呼び方で、中心的な意味を持つのは「王」という言葉である。そのことは36節の主イエスの御言葉を学ぶところで全く明らかになる。これまでは、「イスラエルの王」という名が2度出た。しかし、彼の言葉にも、彼の挙動にも、御自身が王であると示すものはなかった。王ということの実質を、言葉を通して学ぶのはヨハネ伝では今日が初めてなのだ。――勿論、主イエスが王であることを我々は繰り返し教えられて、承知しているから、今、頭を切り替えなければならないということはない。それでも、学ぶテーマは新しい段階に移っている。前夜、主は「今や、人の子が栄光を受くべき時が来た」と宣言された。我々はその栄光が見えるような見方で、彼を見なければならないし、栄光を見るに相応しい姿勢を取らねばならない。
ところで、「ユダヤ人の王」とピラトが語った時、それは、ユダヤ人に対しては王であるかも知れないが、自分はローマ人であるから、私個人に対しては何の影響を与えるものでもない。ただ、自分の職務上、カイザルの主権をこのユダヤの地にも有効に及ぼさなければならないから、「ユダヤ人の王」という称号が、この地域におけるカイザルの主権を排除したり無効にしたりするものであるかないか、これはハッキリさせなければならない。そういう意識を持っていた。我々とは全然別のとこに立っているのだ。
とにかく、十字架の上に掲げられた罪状書きの文字は、「ユダヤ人の王・ナザレのイエス」である。19章22節に書かれている通り、ピラトは「私が書いたことは書いたままにしておけ」と自分の権限で決めたことを動かしてはならない、とキッパリ言う。そのお陰で、それ以後の全ての時代に、十字架像を心のうちに、あるいは板の上に描く人は、主イエスのお姿だけを描くのでなく、聖書にある通り、そこに「ユダヤ人の王・ナザレのイエス」という文字を必ず書き添えなければならなくなった。すなわち、単なる一死刑囚としてでなく、神の民に与えられた王として仰ぎ見なければならない。そうなるための準備の役割を演じるのが、ピラトである。
この節でもう一つ触れて置かねばならないのは、この問いの言い回しである。「あなたは、何々であるか」というところ、これはこの通り訳すほかないのであるが、別の言い方も出来るところを、このように言っているのである。
これまで、ヨハネ福音書の幾つかの大事な箇所で、主イエスは「私はそれである」と名乗りを上げておられる。原文では「エゴー・エイミ」、直訳すれば、「私が、私である」となる。勿論、主イエスがギリシャ語で語っておられたのでなく、福音書記者がギリシャ語ではこの言い方によらなければ、主の語調がうまく表せないと判断したのである。ヨハネとは違った文脈の中の書き方であるから、同列に並べて論じるのは適切でないとも見られるが、マルコ伝で、主イエスに大祭司カヤパが、「あなたは、ほむべき者の子、キリストであるか」と問う。すると、主は答えたもう。「私がそれである。あなた方は人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗って来るのを見るであろう」。これはカヤパの裁判の最高潮の場面であるが、その言い方を裏返しにしたのが、ここに用いられている「あなたは、何々であるのか」という言い方である。
つまり、「あなたは何々か」と問うのは、「私はそれである」という言葉を予想した、それを引き出すキッカケの意図をこめた質問である。通常の、「あなたは何々か」よりも重い言い回しなのだ。しかし、予想されたような「私はそれである」との返答は返って来なかった。この質問に対しては、質問が返って来た。
次の34節に入って行くが、こう記されている、「イエスは答えられた、『あなたがそう言うのは、自分の考えからか。それとも、他の人々が、私のことをあなたにそう言ったのか』」。
この答えは、ピラトに対する問いであるとともに、我々に対する問いでもあると聞き取って置こう。先ず、ピラトに対しては、こう言われたのである。「あなたがもし、自分自身の考えでそう言ったのであれば、あなたは信じているに相応しくしなければならないであろう。もし人の意見を真似て言うだけならば、意味がないから、止めて置け」と言われたのである。
このことの後の時代、彼のことを「キリスト」と呼ぶ人は次第に増えた。むしろ、それが当たり前の呼び方になった。キリストという名を、人名、あるいは通称であるかのように使うのが普通になっている。
今、「キリスト」と言うのと、ピラトが「ユダヤ人の王」と言ったのとは、荒っぽい捉え方であるが、ほぼ同じ意味であることを我々は知っている。それなら、「あなたが私をキリストと言うのは、自分の考えからか。それとも、ほかの人々が私のことをあなたにそう言ったのを受けただけか」との御言葉は、ピラトにだけ向けられたものでなく、我々にも向けられていることに気付かないわけには行かない。
「イエスはキリストである」。あるいは「イエスは主である」といま我々は普通に唱えている。そのように言うのは、人が言うから、それに釣られて言っているだけなのか。それとも、自分自身そう判断し、自分の考えで言うのか。他の人がどういう気持ちで言っているかを探っても意味はない。自分はどう心得ているのかを自分で自分に問わなければならない。
これは、教会の中で通常言われている言葉遣いでは、「告白」あるいは「信仰告白」である。「イエス・キリストは主なり」との態度決定、またその表明、すなわち、順境であれ逆境であれ、何ぴとをも憚らないで行なう表明、これが信仰の告白の中心部である。こういう表明をする人たちのことをギリシャ語で「クリスティアノス」、すなわち「クリスチャン」と侮蔑的に呼ぶことがアンテオケから始まった。
ピラトが主イエスに「あなたはユダヤ人の王であるか」と問うた一ことから、逆に問い返され、我々の思いめぐらせなければならない事柄がどんどんと広がり、また深まって行く。その広がりを一画一画にわたって追って行くことは、確かに、非常に重要な信仰の修練ではあるが、それをこの説教の中で論じていると、聖書の言葉の解き明かしは今日中に終わらなくなるので、それだけの広がりがあることだけを承知したならば、テキストに戻るほかない。
ただ、ピラトの言葉の中に一つ気になる点があるので、それには触れて置かねばならない。先ほども言ったが、「ユダヤ人の王」という言い方をピラトがした時、「私はユダヤ人ではないから、私には関係がない」と割り切ったのではないかと推測したのであるが、その点である。
「ユダヤ人の王・ナザレのイエス」という罪状書きを読んだ時、我々はこれをユダヤ人の問題で、ユダヤ人以外の者には関係ないことというふうには取らない。簡単に言うならば、「ユダヤ人の王」という文字を「世界の王」、したがってまた「私自身にとっての王」というふうに讀み換える。とにかく、「私は別なのだ。私を別にしておいてくれ」という意味に決してならないように、ここを読まなければならない。
35節に移るが、ピラトは答えた、「私はユダヤ人なのか。あなたの同族や祭司長たちが、あなたを私に引き渡したのだ。あなたは、いったい、何をしたのか」。
「あなたがユダヤ人の王だとすれば、あなたを裁判に掛けるとはとんでもないことであるが、私には責任はない。あなたの同族が私に引き渡したのだから」。
ピラトの見解は少しずつ読めて来る。「私はユダヤ人なのか。そうではないではないか。私はユダヤ人の間の論争とは関わりがない人間だ。私個人にとっては、ナザレのイエスがユダヤ人の王であってもなくても、何ら関わりはない。私はその争いに巻き込まれたくないし、この地方の政治の責任を持つ者として、争いの一方に巻き込まれてならないことは弁えている」。
ただ、「あなたは、いったい何をしたのか」。ピラトが争いの調停をしようと思っていたかどうかは全く分からない。が、そこまで考えることは出来ない人であったであろう。それでも、どういうことがあったか、何が原因で祭司長たちと衝突したかを知りたいという気持ちはあった。
その問いに対する主イエスの答えは、ピラトが聞きたいと思っていたものとはまるで違った、深遠なものであった。「イエスは答えられた、『私の国はこの世のものではない。もし、私の国がこの世のものであれば、私に従っている者たちは、私をユダヤ人に渡さないように戦ったであろう。しかし、事実、私の国はこの世のものではない』」。
主のこの答えは、その直前のピラトの問いに繋がらないが、その一つ前の、「あなたは、ユダヤ人の王であるか」との問いには繋がっている。
「あなたは王なのか」と問われて、「王ではあるが、私の王たる所以は、地上的な意味ではない」と言われたのである。「私の国」と言われたときの「国」、これは「王なのか」と問われた「王」に対応する「王国」である。しかし、王国でもよいが、必ずしも目に見えなくて良い「王の支配」という意味の言葉である。
「私の王国はこの世のものではない」とは、したがって、こういう意味である。「私の支配する国は、ユダヤとか、エドムとか、ギリシャとか、ローマとかいう地上の国ではない。また、私の支配の仕方は、この世の王たちの支配の仕方、すなわち、力で威圧して従わせるやり方とは違う。また、私の王国の民らの私に従う従い方も、世の王国の人民の従い方とは違う」。
だから、主イエスは「王」であることを認めたもうが「ユダヤ人の王」という呼び方を是認してはおられない。ユダヤという地上の一角に主権が限定されるわけではない。このあとでもっとハッキリ宣言されるように、彼は限定なしの王なのである。
「私の王国はこの世のものではない」という御言葉の含む意味は、我々が一生掛かっても窮め尽くせない豊かな内容である。しかも、この御言葉は多くの御言葉の中でも最も原理的で深遠なものの一つである。この世のものでないとは、来たるべき世において実現するという意味であろうか。その意味も一部あると思う。しかし、来たるべき日にならなければ何も始まらないというのではない。彼は王になるべき予定者ではない。現に王なのである。その証拠として、弟子たちは王である私を敵の手に渡さないためのこの世的な戦いをしなかったではないか、と言われる。この世のものでないとは、やがて来るという意味もあるが、簡単に言うならば、霊的ということである。しかし、霊的と言うだけではまだ分かったことにならない。かえって、難しくなった面もあるということを弁えて置こう。
今日は、要するに、イエス・キリストが王であること、また彼の王たる所以は、この世的な原理でないこと、この二点を学んだのだが、この二点に、我々の存在と行動の一切の原理があると言って良い。
第一の点は我々の間で終始繰り返し強調されている。第二点は必ずしも強調されていない。そのため、イエスが主であるということが、それに対応する服従になっていない場合が多いということに触れなければならない。つまり、イエス・キリストが主また王であることは分かっていると言われているが、そのお方に服従する仕方が、この世の方式になっている場合が多いのである。
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