2004.03.14.

ヨハネ伝講解説教 第182回

――18:25-28によって――

 
 「ペテロの否認」と呼ばれる事件は全ての福音書が伝えており、読む人は深い関心をそそられずにはおられない。なぜ関心を引くかというと、その最も大きい理由は、我々自身信仰の躓きの経験を持っており、かつ、そういう躓きが今後もあるのではないかという恐れを持っているからであると思われる。
 信仰について教えられる時、キチンと整った形で信仰が教えられるのは当然である。信仰には躓きが必ず伴うという実例から始めたなら、謂わば泥沼に落ちたところから始めるようなもので、そこからなかなか抜け出せず、本論に入れない。だから、信仰を教える時、躓きの話しは避けるのが通例である。しかし、この躓きを無視し続けるのではない。現実に信仰の躓きは誰にもやって来るからである。
 躓いて、不信仰の中に沈み込んでそのまま浮かび上がれなくなる場合もあり、それを抜け出す場合もある。こういう事実があるから、誰もがペテロの躓きの事件をひと事とは思うことが出来ない。だから、ペテロがどういうふうに躓きにはまりこんで行ったかに関心を持つ人がいて当然である。しかし、ペテロの内心をどんなに深く穿った考察をしても、人間学的考察として興味深いだけで、信仰の益には殆どならない。
 というのは、我々に読むことが出来るのは躓いて行くペテロについての物語りであって、彼の立ち直りの経過については何も知ることが出来ないからである。ペテロが立ち直って行くに際して、いろいろなことがあったのは当然なのだが、その実態は伝えられていない。だから、彼が躓いて行った記録について掘り下げ、思いめぐらせるだけでは、躓きだけの理解にとっても、結局、余り意味がないからである。
 さらに、考えなければならないのは、躓いたのがペテロだけでないという事実である。マタイ伝とマルコ伝には「あなた方はみな私に躓くであろう。『私は羊飼いを打つ。そして、羊は散らされるであろう』と書いてあるからである」と言われた主イエスの言葉が書かれている。ペテロの躓きの実例だけが書き残され、あとの弟子については分からない。だから、ペテロの躓いて行くケースだけを非常に大事なことと見て、それだけに深入りするのは、実りのないことかも知れない。
 この出来事の全体、発端から結末までについて、短い言葉で総括できることを主イエスが示唆しておられる。それは、ルカ伝22章31-32に収められている。「シモン、シモン、見よ、サタンはあなた方を麦のように篩に掛けることを願って許された。しかし、私はあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。それで、あなたが立ち直った時には、兄弟たちを力づけてやりなさい」。――この短い御言葉を反復して味わっておれば、問題の全貌が見えて来る。ペテロの二度目と三度目の否認について思いを凝らしているだけでは、肝心のことは何も見えて来ない。だから、深く立ち入ることはしないでおこうと思う。
 以上のことを前置きとして、25節に入って行く。「シモン・ペテロは、立って火にあたっていた。すると人々が彼に言った、『あなたも、あの人の弟子の一人ではないか』。彼はそれを打ち消して、『いや、そうではない』と言った」。
 二度目の否認について、説明すべきことは何もない。全く平明なのである。しかし、もしこの平明さを裏返して見れば、この平明さの中に落とし穴があったということに気付くであろう。
 例えば、ペテロが法廷に引き出されて、本人であると確認された上で、「お前はナザレのイエスの弟子であったではないか」と詰問されたならば、多分、このように簡単に否認することはなかったであろう。改まった場に立たされたならば、緊張し、嘘を言わないようにする。せめて、嘘がばれないように気を付けるのである。ところが、この場合、相手は気安く、火にあたっている仲間として「あなたの顔に見覚えがある」と言ったらしいので、ペテロはそれを無造作に否認する。
 この情景を正確に把握したわけではないが、ペテロが何でもないことと思い込むような、緊張を促されないでおられる、緩んだ空気があったのであろう。「火に当たっていた」という言葉はその空気を示唆したものと取って良いであろう。法廷の傍聴であるなら、軽々しく話し合うわけに行かなかったのではないか。ここは法廷の外だし、休廷中と思われるが、よく分からない。とにかく、ペテロは何気ない問い掛けとして受け取った。
 三回目の問い掛けの機会が間もなく来る。
 「大祭司の僕の一人で、ペテロに耳を切り落とされた人の親族の者が言った、『あなたが園であの人と一緒にいるのを、私は見たではないか』。ペテロはまたそれを打ち消した。すると直ぐに、鶏が鳴いた」。
 ヨハネ伝は耳を切り落とされた僕の名を記録する唯一の福音書である。これは、ヨハネが大祭司の知り合いであると言っていることと何か関係があるのではないかと思われる。そのマルコスという名の僕の親族で、今ペテロに尋ねている人とも、ヨハネが知り合いであったことは十分考えられる。とすると、この質問の時、ペテロだけでなく、ヨハネもヒヤヒヤする思いでことを見ていたのであろう。
 今度は、何でもないことのようにあしらうわけに行かない。しかし、ここまで否認して来た以上、嘘を嘘で上塗りするほかない、とペテロは追い詰められてしまった。「申し訳ない。今まで、嘘をついていた。確かに私はナザレのイエスの弟子なのだ」と言うことは出来たが、それを言うだけの誠実さ、また勇気がなかった。
 鶏が鳴いて、ペテロは我に返った。主のお言葉を思い起こした。13章38節の言葉である。「私のために命を捨てると言うのか。よくよくあなたに言って置く。鶏が鳴く前に、あなたは私を三度、知らないと言うであろう」。
 彼は「外の闇に逃れて激しく泣いた」と他の福音書に書かれているが、その通りであったと思う。しかし、泣いても泣いても何も解決は来なかったのである。ペテロの心の中がどうであったかについて、ヨハネ伝は何も語らない。我々もこれ以上詮索することをしないでおく。
 場面は一転する。「それから人々は、イエスをカヤパのところから官邸に連れて行った。時は夜明けであった」。
 「官邸」というのはピラトがエルサレムに滞在する間、宿泊する館(やかた)で、彼の不在の時も行政官庁であり、また裁判所であった。総督ピラトは普通はカイザリアに居住していたようである。夜明けというのは6時頃である。
 鶏が鳴いたのが大祭司の審問のどの辺りであったかは分からないが、鶏の鳴く時刻はまだ真っ暗である。それから夜明けまで、幾らかの時間があった。夜通し審問がなされたと思われる。その経過について、ヨハネ伝は殆ど無視している。エルサレム議会が決定しても、総督の認可がなければ実行されない。だから、ピラトの法廷に持ち込まれたわけである。しかし、事実としては、議会が夜の間に、形式的ではあるが二度開かれて、先ず主イエスを死に定め、それからピラトの法廷に移したのである。
 夜明けに、ピラトがすでに起きて、執務室で待っていたというのは、早すぎて、不自然のように思われるであろうが、ゲツセマネに主イエスを逮捕に行った時、千卒長と一隊の兵士が遣わされていたことを先に読んでいるから、ピラトが用意して待っていたと理解出来る。――ただし、この裁判にピラトは終始乗り気でなかったと思われる。初めて聞くことのように、初歩的な質問をしているのは、納得していないからである。もっとも、だからといって、ピラトにはこの裁判について責任がないというわけではない。「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と教会が古くから告白して、主の受難の責任者をピラトだと言うのはその通りである。
 この時、ペテロはもはやいない。彼は最後まで見届けるつもりで主についていったが、恐怖の余り逃亡してしまった。いや、逃亡したというよりは、姿を隠した。死に至るまで主に従って行くと誓いながら、それを果たすことが出来なかった自分の腑甲斐なさ、また、出来もしないのに偉そうに、人は躓いても自分ならば躓かないと言い切った軽率、傲慢、小心、不真実さに、自ら気付いて、打ちのめされていたのである。しかし、もう一人の弟子はずっとついて行ったのであろうと思われる。
 「彼らは、汚れを受けないで過ぎ越しの食事が出来るように、官邸に入らなかった」。このくだりはヨハネ伝にしかない記事である。
 ユダヤ人が、異邦人であるローマ人の役所に決して入ろうとしなかったというのではない。普段は必要ならば入っていた。今回は特に過ぎ越しの祭りだったからであるという事情がこの28節の言葉から読み取れる。
 他の福音書には、この前の晩が過ぎ越しの祭りであったように書いている。すなわち、最後の晩餐は三つの福音書では、過ぎ越しの食事とされている。だが、ヨハネ伝13章1節では、それが過ぎ越しの前日であると書いている。つまり、共観福音書では、最後の晩餐が過ぎ越しであり、それを記念する世々の教会の聖晩餐は、過ぎ越しの小羊である主イエスの死を記念するものと意味づける。
 それに対してヨハネ伝は、聖金曜日の午後、ゴルゴタの丘の上で主が殺されたもうたのが、丁度過ぎ越しの小羊の殺される時刻だったと把握する。そして、ヨハネ伝は6章の初めで、五千人の給食の奇跡の翌日に、この奇跡と関連して、御自身の肉を食らい、御自身の血を飲むのでなければ、命はない、と言われ、そこで聖晩餐の奥義を語っておられる。共観福音書とヨハネ伝の違いが、根本的なところでは問題にしなくて良いということは確認できる。それでも、記述の違いは容易に克服できない。
 当時、ユダヤに二通りの暦が行なわれていて、一日ずれていたということが今日では明らかになっている。違った暦を使っていた集団、すなわち死海のほとりにいたクムラン教団と、使徒ヨハネの関係が、ヨルダンの向こうにあったバプテスマのヨハネの教団を仲介としてあり得るということは十分考えられる。それでも、一日ずれるという問題の解決になるであろうか。そう簡単には片付かないのではないかと思う。この問題は我々の貧困な知恵と知識では解決は非常に難しいと謙虚に認めることがむしろ有益であろう。
 28節の後半に、「彼らは汚れを受けないで過ぎ越しの食事が出来るように、官邸に入らなかった」と書かれる事情はこういうことなのである。すなわち、このユダヤ人はまだ過ぎ越しの祭りをしていないので、それが済むまで、異邦人の建物に入って身を汚してはならないと思っていた。
 「そこで、ピラトは彼らのところに出て来て言った、『あなた方は、この人に対して、どんな訴えを起こすのか』」。
 ピラトの方から出て来て話しを聞くのは、最高の権力を持っていたはずの彼としてはおかしいのであるが、そういう小さい事にこだわっている時ではない。我々にとってもそうであるが、ピラトにとってもそうであった、神の歯車が動いているのである。
 前もって事情は分かっていて、だからこそ、ピラトは千卒長に命令してゲツセマネに行かせたはずであるが、こういう書き方はピラトがユダヤ人たちの訴えに決して承服していないことを表している。
 彼が公平な裁判を心掛けている、割合に真面目な裁判官であったと見ることは出来るであろう。が、もう一面、正義による判断ではなく、どちらに決めるのが自分に有利かを考えている無定見でご都合主義的な役人だったと想像することも出来る。
 民衆の間にナザレのイエスに対する根強い人気があることは、官邸から放たれる意識調査の諜報員によって掴めている。他方、大祭司たちがイエスを迫害しようとする動機は嫉みだと判断される。これはマタイとマルコによって記された通りである。しかも、ナザレのイエスには、反ローマの民衆運動を起こそうという考えは全然ないように見られる。危険なら取り締まらなければならないが、危険でもないのに取り締まると、イエスを支持する下層民の反発を招くばかりではないか。どちらに与(くみ)するのが有利なのか。ピラトはそういうことをずっと思案していたのではないか。最終決定の仕方を見ると、こういう解釈の方が適しているように思われるのである。何が真理であるかではなく、どちらの声が大きいかで最終判定が下ったのである。
 「彼らはピラトに答えて言った、『もしこの人が悪事を働かなかったなら、あなたに引き渡すようなことをしなかったでしょう』。そこでピラトは彼らに言った、『あなた方は彼を引き取って、自分たちの律法で裁くが良い』。ユダヤ人らは彼に言った、『私たちには、人を死刑にする権限がありません』。
 自分たちの律法で裁くが良い。ローマの法律にはなじまない。その判断は当たっている。だが、ユダヤの律法では裁けない。ローマの法律によって十字架刑にしなければならない。
 その頃、ユダヤの議会は或る程度の自治を許されていたが、重い犯罪の裁判と刑の執行の権限は取り上げられていた。ここで彼らの言うのは、その通りである。だから、大祭司が考えているようにナザレのイエスを殺すには、死に当たる悪事をしたことを証明しなければならない。
 「これは、御自身がどんな死に方をしようとしているかを示すために言われたイエスの言葉が、成就するためである」。
 先にカヤパが自分ではその意味を弁えないままで預言をし、カヤパの悪しき思いが成功したのでなく、その預言が成就したのだという言い方がされたが、それと似た言い方である。主イエスの死を人々の悪意、あるいは正義の裁判をしようとした意図の失敗と見ることは確かに出来るのであるが、聖書はその見方の濫用を戒める。むしろこれは預言の成就なのである。そのように理解するときに我々の救いの確かさが把握される。
 では、どんな死に方で死ぬと預言しておられたのか。これは明らかに十字架の死を預言しておられたことを指している。ユダヤの法による刑でなく、ローマの刑法の十字架刑よって死なねばならない。ところが、これまでのところでは十字架の予告はなかった。十字架という言葉は19章にならないと出て来ない。しかし、例えば、3章14節で、「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられねばならない」と言われたのは、十字架の予告であった。預言があって、次に成就が来るという順序をとって、神は救いの業をなしたもうのである。

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