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ヨハネ伝講解説教 第18回

――1:47-51によって――

ピリポから「ナザレのイエス」という名を聞いた時、ナタナエルは即座に「ナザレから何の良きものが出ようか」と鼻先であしらうような返事をした。そのようなナタナエルが近付いて来るのを見て、主イエスは「見よ、あの人こそ、ほんとうのイスラエル人である。その心には偽りがない」と言われた。
 どうして、この人が「本当のイスラエル」なのか。また、どうして「心に偽りがない」と言えるのか。初めて会うナタナエルの歓心を引くために、聞こえよがしに美辞麗句を並べて褒めたのか。――そのような無内容なことを論じて時間を潰すわけには行かない。主がここで言われた言葉の真の意味は、彼が語って行かれるうちにだんだん見えて来る。50節の後半、「これよりも、もっと大きなことを、あなたは見るであろう」と主は言われる。ナタナエルはこれよりもっと大いなることを見るであろう、と言われる。もっと大いなることとは何かは後で見るが、兎に角、やがて実現することまでを視野に入れて主は語っておられる。その視野で捉える時、「本当のイスラエル」とか、「心に偽りなし」と言われたことの意味が確立する。
 我々は今見ている現実が全てであり、それが決定的なのだと思い込みやすい。だから、今見えることで一喜一憂する。それが愚かな判断であったと、いつも後になって気づかせられる。そのような失敗を繰り返して、少しは賢くなって、見えることの逆の判断をすれば良いのではないかと我々は考える。その判断が当たることもあるが、まことに不確かである。今が最悪だからこれから良くなる、と言っているうちに、ますます悪くなる場合が多い。つまり、人間は気休めにいろいろなことを考え出すが、たまたま予想が当たる場合はあっても、つねにそうであるとは言えない。
 今、福音書のこの個所で読んでいる事情、主イエスがナタナエルについて全てを知っておられたという事情は、我々の予想や洞察力とは全然別なことである。我々の洞察の貧しさを引合いに出して主イエスの知恵の深さを言っても、何の意味もないのであるから、主イエスが如何に物を見る目を持っておられたかは驚嘆すべきことには違いないが、そのような問題には余り関心を向けないで置こう。
 それよりも、主イエスがナタナエルを見られたその目で我々を見ておられることを思い起こすべきである。我々の中にも「ナザレから何の良きものが出るであろうか」と言ってしまうような軽率さ、浅薄さ、偏見、その他かずかずの忌まわしい欠陥があることは我々自身にも分かっているほどである。しかし、主は我々を今あるがままの状態から判断し、これだから駄目だ、と断罪したもうのでないと同じく、今あるままに、「それで宜しい」と受け入れたもうのでもない。
 時間を支配したもう主イエス・キリストは、時間の先まで見て、あるいは時間の彼方から見て、我々を受け入れたもうのである。在るがままを受け入れられているのだと教えている教師がおり、それで納得している人がいるが、ここには危険が潜む。我々が罪を抱えたままで神に今受け入れられていることは確かであるが、それは「罪の赦し」の説明として語られるからであって、今あるままで居座って良いという意味ではない。彼は将来を支配したもうお方である故に、我々の将来を先取りした上で、現在の我々を受け入れておられるのである。だから、受け入れられた我々は、今のままで良いとは考えない。将来の完成に向かって向上して行くのである。
 我々が主イエスに近付いて行く時、彼は「ああ、忌まわしい罪人が来たな。汚れた罪人だから、受け入れることは受け入れるが、当分、別室で待たせて置こう」と言われるのではない。「これは真のイスラエルである。この者のために神の国は用意されていたのだ」と言って、最上の衣を着せて、天国の奥座敷に通したもう。「これよりも、もっと大きなことを見るであろう」とナタナエルに言われたお方自身、そのように、来たるべきもっと大いなることを見ておられるのである。そのナタナエルを「真のイスラエル」として受け入れたもうたのだ。
 さて、ピリポがナタナエルに「来て、見よ」と言った時、ナタナエルは結局従ったのである。ピリポの熱意に敗けたということであろうか。自分で納得して、進んで来たわけではない。前回も少し触れて置いたが、ピリポとナタナエルの間には、来たるべきメシヤについての聖書の言葉に則した討議がなされていた。だから、ナタナエルにはメシヤ・キリストへの求めがあった。ある意味でのキリスト像があった。そのキリスト像に合うものを探していたのである。これまで一緒に歩んで来たピリポがキリストに会ったと言うのであるから、行って確かめてみなければならないと彼は思った。
 「それはヨセフの子、ナザレのイエスだ」とピリポが言った時、ナタナエルは受け付けなかった。それでも、ピリポが熱心に勧めるので、見に来た。確かめようとしたのである。それは真面目な態度であると言えなくはないが、そのことを今大きく取り上げることは要らない。我々の場合も初めは半信半疑で、とにかく行ってみようということであった。こうしてキリストと出会った。また、我々の場合もピリポがしたのと同じく、「来て、見よ」と熱心に勧めてくれる人がいた。それも感謝すべきことであるが、キリストと出会うまでのことよりも、キリストと出会った時、彼がどうされたかに目を向けなければならない。
 キリストは彼を「まことのイスラエル」として受け入れたもうた。ピリポが先に来て、「今ナタナエルという人が来ます」と告げたのか。それともピリポがナタナエルを連れてやって来るのが見えたということか。どちらでも良いが、主イエスはピリポに紹介されるまでもなく、ナタナエルのことを全て知っておられた。そのことが語り合いの中でどんどん明らかになって来る。最初に言われたのは、その心の中がどうかということである。第二に、ピリポがナタナエルを呼ぶ前のことも知っておられる。第三に、この後のことを知っておられる。
 先ず、その心の中を見通しておられた。心に偽りがない。「ナザレから何の良いものが出ようか」と見くびったことを語ったのも勿論知っておられる。心にそう思ったから、そのように言ったのである。その正直さを褒めておられるのか。聖書をピリポと共に熱心に調べていたということか。
 ナタナエルの心の内を知り尽くしておられたことは確かである。しかし、先に言ったように、今の彼がどうかよりも、彼がどうなって行くかを知っておられた。
 第二に、ピリポが呼ぶ前のナタナエルを知っておられた。「無花果の木の下にいるのを私は見た」というのは、先程、あなたは無花果の木の下にいたのを、離れた所から見ていた、という意味ではない。「見た」とは知っているという意味である。無花果の木の下にいたことはピリポも知らなかったに違いない。ピリポが熱心に勧めたから来たのだと我々は考える。その一面は確かにある。しかし、ピリポが関わる前からキリストが関わっておられたという点が重要である。
 無花果の木の下にいたというのは、いた場所を知っているということではなく、そこで何をし、何を考えていたかを知っているぞ、という意味であろう。
 ナタナエルがそこで何を考えていたかを我々が推測することには、あるいは意味があるかも知れない。無花果の木の下ということにかなり深い象徴的な意味があるのではないかと思われる。ミカ書4章4節に「彼らはみなその葡萄の木の下に座し、その無花果の木の下にいる」という言葉があるが、終末の祝福された平安なさまを述べたものである。列王紀上4章25節にも同じ趣旨の言葉があるし、ゼカリヤ書3章10節も同じことを語っている。ナタナエルはこの預言を覚えており、思い巡らし、メシヤによる最終の平和はいつ来るかを考えていたかも知れない。
 あるいはまた、エレミヤの見た幻のことを思っていたかも知れない。エレミヤ書24章の初めにこう書かれている。「バビロンの王ネブカデレザルがユダの王エホヤキムの子エコニヤ、及びユダの君たちと工匠と鍛冶をエルサレムからバビロンに移して後、主は私にこの幻をお示しになった。見よ、主の宮の前に置かれている無花果を盛った二つの篭があった。その一つの篭には、初めて熟したような非常に良い無花果があり、他の篭には非常に悪くて食べられないほどの無花果が入れてあった。主は私に『エレミヤよ、何を見るか』と言われた」。主の宮の前に二篭のいちじくがあるように、神の裁きの座の前に、二種類の人がいることを考えていたのかも知れない。
 あるいはまた、無花果の木の蔭で聖書の言葉を反芻していたかも知れない。律法学者たちが無花果の木陰で聖書を学んだり瞑想したりする習慣があった。ナタナエルが何をしていたのか想像するのも興味あることであろうが、ハッキリしたことは分からない。兎に角、彼は主イエスから無花果の木の下にいたことを指摘されて、非常に驚いて、「あなたは神の子です、あなたはイスラエルの王です」と叫ばずにおられなかった。ほぼ分かるのは、無花果の木の下で、人に知られては恥ずかしいようなことを考えていたのではなく、キリスト告白を捧げる準備になるようなことを考えていたらしいのである。メシヤの来臨に関することを真剣に考えていたのであろう。
 だから、無花果の木の下にいた時の心の中まで読み取られたと知って、ナタナエルは「先生、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」と言った。これは言い方は違うが、アンデレがシモンに「私たちはメシヤに今出会った」と言い、ピリポが「モーセが律法の中に記しており、預言者たちが記していた人」と言ったのと同じことを指したのである。キリスト告白である。
 他の福音書では、弟子たちのキリスト告白は、主イエスからかなり長く教育を受けたあとでなされているが、ヨハネ伝では最初に弟子の召しの際にあったように描いている。この食い違いを議論することは今は止めよう。初めは分かっていなかったという面と、初めでも分からぬながらに分かっていたという面と、両方あることが我々の体験においても言えるからである。
 「神の子」、「イスラエルの王」という告白が捧げられた。「神の子」についてはヨハネが34節で言っている。「イスラエルの王」という呼び名はヨハネ伝では12章13節でエルサレム入城の時キリストに捧げられている。この二つの呼び名については、いずれ詳しく見る機会があるから、今回はキリスト告白ということで纏めておく。
 第二の御言葉で、ナタナエルはイエスがキリストだと告白する告白を捧げたのであるが、主ご自身は第二の言葉よりも第三の言葉の方が重要だと言われる。「あなたが無花果の木の下にいるのを見たと私が言ったので信じるのか。これよりも、もっと大きなことをあなたは見るであろう」。では、その大きいこととは何か。今後起こることがそれに当たる。例えば、翌日ガリラヤのカナで起こった奇跡もそれである。しかし、主がここで特に言おうとされるのは、「よくよくあなたがたに言って置く。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上に上り下りするのをあなたがたは見るであろう」という言葉の中にある。
 創世記28章にあるヤコブの夢の話しを思い起こす人が多いであろう。主イエスは確かにその物語りを踏まえて語っておられる。ヤコブは兄エサウの復讐を恐れ、ベエルシバの家を離れて、母の国パダンアラムへの一人旅を始めた。第一夜を当時ルズと呼ばれていたベテルで、石を枕に過ごした。その夜、ヤコブは天に届く梯子が掛かり、御使いが上り下りする夢を見る。眠りから覚めた時ヤコブは言う。「まことに主がこの所におられるのに、私は知らなかった。これは何という恐るべき所だろう。これは神の家だ。これは天の門だ」と言う。
 ヤコブはここに神がいますことを知らなかった。父の家を離れた時、神からも遠ざかったと感じた。しかし、神はつねに共にいます。それをヤコブは初めて知った。ここにも神の家がある。ここからでも神の国に登って行ける。「天の門」とはそこから天に出入りする所という意味である。
 そこでヤコブは神に誓いを立てて言う。「神が私と共にいまし、私の行くこの道で私を守り、食べるパンと着る着物を賜い、安らかに父の家に帰らせて下さるなら、主を私の神といたしましょう。また私が柱に立てたこの石を神の家といたしましょう」。信仰者の模範としては言葉が幼稚すぎるが、先祖アブラハムの契約をここで更新したのである。
 この物語りには後日譚がある。20年の後契約更新がもう一度行なわれて、恵みの約束はさらに強固になった。それは創世記35章の記事である。その6節は言う、「こうしてヤコブは共にいた全ての人々と一緒にカナンの地にあるルズ、すなわちベテルに来た。彼はそこに祭壇を築き、その所をエル・ベテルと名付けた」。そして9節、「ヤコブがパダンアラムから帰って来た時、神は再び彼に現われて彼を祝福された。神は彼に言われた『あなたの名はヤコブである。しかし、あなたの名をもはやヤコブと呼んではならない。あなたの名をイスラエルとしなさい』」。
 ピリポに勧められてナタナエルが来た時、主イエスは「これこそまことのイスラエル」と言われたが、そのわけは、ここでハッキリする。天に届く梯子を見たヤコブ、それがイスラエルなのだが、ヤコブが夢で見た以上のもの、現実の天の門をナタナエルは見るといわれるのである。
 その門とは何なのか。答えはヨハネ伝10章7節にある。「よくよくあなたがたに言って置く。私は羊の門である。私よりも前に来た人は、みな盗人であり、強盗である。羊は彼らに聞き従わなかった。私は門である。私を通って入る者は救われる」。ここまでを考え合わせる時、まことのイスラエルと言われたことも、天への上り下りと言われたことも十分に分かるのである。
 「よくよくあなたがたに言って置く」。この言い方にこれから後しばしば出会う。ヨハネ伝では25回用いられる。「まことに、まことに汝等に告ぐ」。主がご自身のまことを傾けて言われる重要な宣言、約束、それを語る前にこう言われる。その最初の場合である。もっと大いなることと言われた通りである。ここまでにナタナエルに語られたことはもはや小さく見えて来る。これはヨハネ伝福音書におけるキリストの最初のご自身についての教えである。
 「人の子」というご自身の呼び名が用いられるのはこれが最初である。この呼び名はダニエル書7章に由来し、メシヤの同義語として人々の間で使われていた。
 ダニエル書にある人の子は天の雲に乗って来る、「天上の人の子」である。それを人々は期待したわけであるが、イエス・キリストは天上の人の子ではなく、「地上の人の子」として来臨された。天上の人の子と地上の人の子では大違いではないかと人は言う。すなわち、天と地は隔てられている。
 しかし、天が開け、御使いが地上にいます人の子の上に自由に上り下りするようになった。主イエスは地上にありながら、天上の栄光を顕されたのである。ヨハネ伝福音書に描かれたのは地上のキリストであるが、地上のキリストは天上の栄光を顕しておられるのである。

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