2004.02.08.

ヨハネ伝講解説教 第178回

――18:6-11によって――

 
 5節6節7節には、同じ言葉のやり取りが繰り返される。だから、同じ言葉を重ねて学ぶことになる。繰り返されたのは、前回読み取ったように、これが極めて重要な言葉だからである。これらの言葉そのものは簡単であるから、一度聞けば分かる。繰り返されてやっと分かるというものではない。ここでの繰り返しは強調と確認をあらわしている。強調と確認、それは確かにするというだけでなく、自分自身に問い、問いを深めるという意味になる。
 今御言葉を学ぶ我々にとっても同じである。分かっているからもう良い、というものではない。
 さて、その言葉であるが、先ず、「あなた方は誰を捜しているのか」という問い掛けの言葉である。主イエスは御自身を捕らえに来た者に全く冷静にこう語りたもう。恐怖心もなく、憎悪もないことは十分読み取られるであろう。誰を捜すか、今さら問う必要はないではないか。――そうではない。ここでは、問いは我々の内面に向けられ、内面に食い込んで来る問いとなる。
 「ナザレのイエスを」と人々は答える。当然のことであり、答えなくても分かっているはずのことである。しかし、問われたからには、答えないわけには行かない。そこで答えるのであるが、その答えは、答える者自身にとって、誰を捕らえるためにここに来たのかを考えさせる。問われて答えるが、その答えがまた問いとなるような答えである。我々にとってもそうである。
 我々はほかならぬナザレのイエスを求めているのである、という答えがあり、その次にどういう求め方をするのかと自分に問う。一生かけて求める、そのような求め方をしているのだ、と答える。だが、すでに求めるものを捉えたのではないのか、と問う。確かに捉えたのだ。しかし、それは行列を作って入場券を手に入れたから、もう求めなくて良い、という場合と同じではない。手にいれても、それでも追い求める。欲深くもっともっとと言うのではない。また、追い求めるとは不確かであるからではない。確かだからこそ追い求めるのである。
 ピリピ書3章12節の言葉をここで思い起こさずにはおられない。このように聞くのである「私がすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ、捕らえようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕らえられているからである」。キリスト・イエスによって捕らえられているという確認があるから、追い求めることが出来る。
 次に、それへの応答である。「私がそれである」。ギリシャ語で、「エゴー・エイミ」という御言葉が繰り返される。これが、このところで聞かねばならない最も大事な言葉であることは前回も強調された。分かり易い言葉であるとは決して言えないが、じっくり考えて見なければならない。「私がそれである」との一言には一切が含められているからである。
 前回の学びを繰り返すことになるが、弟子たちはこの言葉を何度も聞いて来た。6章35節で読んだが、夜、嵐の海の上で沈みそうになっている弟子の舟に近づいて、私である、エゴー・エイミと言われた。嵐の海はこの言葉の意味を捉えるのに最も適切な場面であると言えよう。
 8章24節に、「もし、私がそれであること、エゴー・エイミ、をあなた方が信じなければ、罪のうちに死ぬことになる」と言われた。これは主イエスがキリストであると信じることであるが、信仰の核心部である。
 13章19節に、「そのことがまだ起こらない今のうちに、あなた方に言っておく。いよいよ事が起こったとき、私がそれであることを、あなた方が信じるためである」とある。事が起こるその時とは、まさに今ではないか。そこにおいて、弟子たちは、私がそれである、と言われるお方に真正面から向き合う。
 こうして、今、「私がそれである」と言われる。かつて主イエスがこう言われたということではなく、今、我々にこう言っておられるのを聞き取らなければならない。
 かつて、エジプトを逃れてホレブに来たモーセは、そこで「私はある」という名を持った神と出会い、使命を授けられた。その使命を授けるお方の名は何というのかと尋ねると、神は「私はある」、これが私の名であると答えたもうた、と出エジプト記3章14節に記される。この名がギリシャ語で「エゴー・エイミ」である。
 人は癒しの御業を求めて主イエスのもとに来たかも知れない。キリストの顔が見たくて追って来たかも知れない。パンの奇跡に与ろうとして来た人もいたであろう。
 また、人はキリストの慈しみ、キリストの真実、キリストの言葉、キリストの御業、キリストの賜物の豊かさ、その他、キリストに関わる様々なことを知ろうとし、また求めるのであるが、キリストの何々を受けるではなく、キリストそのものを捉えなければならない。そのためには、キリストに関わる何々を聞いて学ぶというのでなく、「私がそれである」と言われるお方に出会わねばならない。
 出会っただけでは初めに過ぎないではないか。――それはそうである。しかし、そのお方は「我は初めなり、終わりなり」と言うことの出来るお方である。この方と出会うことは、初めであるが、初めであるだけでなく、また終わりである。「私がそれである」と言われた御言葉の奥行き、深みが捉えられなければならない。
 さて、6節に入る。「イエスが彼らに『私がそれである』と言われたとき、彼らは後ろに引き下がって地に倒れた」。
 これも解説を必要としない、見たとおりの、平明な出来事の描写である。つまり、我々もその場にいたならば、いわば強烈な風圧でなぎ倒されるように、後ろに引き下がって地に倒れるはずである。そのような衝撃を受けたことは納得出来る。キリストが立ち現れて、「私がそれである」と言われるのは、そのように圧倒的な事件、いわば猛烈な風圧を伴う出来事なのだ。ただし、我々の知るのは圧倒的な力であっても、倒す力ではなく、生かす力である。
 彼らはナザレのイエスを捕らえようとして、勢い込んでこの場に来た。内心おどおどしていたのかも知れない。彼らが武器を携え、ローマ軍の兵力も交えて大勢でやって来たことは、大きい戦いになるかも知れぬという心配があったからである。そのことについては、この章の36節で改めて学ぶことになっているが、この世の権力が武装を整えてキリストの王国に戦いを挑む。けれども勝てない、ということを示している。
 その聖句を読んで置こう。「私の王国はこの世のものではない。もし私の王国がこの世のものであれば、私に従っている者たちは、私をユダヤ人に渡さないように戦ったであろう。しかし、事実、私の王国はこの世のものではない」。
 彼らは目的通り主イエスを逮捕して引き揚げた。しかし、戦いに勝ったとは多分思っていなかった。彼らは一旦なぎ倒されたからである。
 そこで、7節に移るが、同じ問答が繰り返される。これは一旦勝敗が明らかになった後、二回戦が始まったのになぞらえることが出来るかも知れない。主イエスは今度はその力を現わすことはされない。受難者としての御自身を示したもう。
 「私はそれである」と言われたお方は、その名を顕すだけで、人々を倒れさせる力を持ちたもう。しかし、これはことの一面である。その反面がある。彼はその力を何も現わすことなく、全く無力な一人の男として縄目を受けたもう。この二つの面のどちらが今大事なのか。勿論、両方とも大事なのである。しかし、今、力ある一面の方は一時期、一瞬だけ現われたに過ぎない。主イエスに襲い掛かろうとする者が次から次へと倒されて行くというのではない。
 ここにやって来たのが、一隊の兵卒と、祭司長やパリサイ人から送られた下役たちであったということは、3節で読んだ通りである。一隊の兵卒はとローマ軍の兵士の一隊で、12節に千卒長が来ていることが書かれているが、千人の軍団が来ていたとは思われない。それほど多数ではなかったであろう。彼らが総督ピラトから派遣されたのかどうかは、事実として見るならば、極めて怪しいのであるが、翌日、主イエスがポンテオ・ピラトの前に引き出されて判決を受けたもうに至る線の先端を示している。
 主イエスを逮捕する仕事を主として行なったのは、エルサレム議会の指揮のもとにあった。ここには「下役」と書かれている神殿警護の任を帯びていた、警察官のような人々であったと思われる。これは、今夜、大祭司カヤパの前に主イエスが立たされ、裁きを受けたもうことに結び付く線である。
 正規の逮捕の時は、人違いがあってはならないから、名前の確認をするのが常であるが、この時はその確認を主イエス御自身がなしたもうた。私が間違いなくナザレのイエスであるから私を捕らえなさい。間違って私以外の人を捕らえてはならない、と言っておられるのである。
 8節に移るが、そこで、主イエスは言われる。「私がそれであると言ったではないか。私を捜しているなら、この人たちを去らせてもらいたい」。
 逮捕のために来た人々が、イエス・キリストだけでなく、その弟子たちまで逮捕しようとしていたわけではない。祭司長たちにとって主の弟子たちは殆ど眼中になかった。群衆と同列であって、邪魔をするなら蹴散らかすだけである。
 しかし、弟子たちが主イエスを敵の手に渡すまじと抵抗することは十分予想された。実際、ペテロの行なった武力行使が次に書かれている通りである。そのような抵抗に備える方が良いとイスカリオテのユダが助言したことも考えられる。それでなくても、弟子たちがこれから起こる騒ぎに巻き込まれるかも知れない。
 主イエスがここで弟子たちのために思いやって、彼らが損なわれないように安全なところに去らせたもうたと9節には書いてある。こう書かれているならば、そのままに受け入れるほかない。それでも、彼らを去らせる主要な意図は、彼らの安全を図るためであると解釈すべきであろうか。
 「私がそれである」と言われたのは、彼の救い主としての務めに関わる自己確認であったと我々は承知しているが、その呼び名を用いることが出来ない人は、この場を去らなければならない。
 たしかに、ここからは、主イエスの一人舞台であって、弟子たちは聞くべきことを全部聞いたのであるから、ここを去って良い。あとは主イエスが一人で苦難を負いたもうのである。
 主イエスお一人に苦難を負わせては申し訳ないし、弟子として面目ない、と思う弟子たちはであろう。殊勝な心得と言ってもよいが、彼らがどんなに苦悩しても、何の意味もない。キリストのみがこれを負いたまい、それであってこそ贖い主なのである。弟子たちを去らせて、主お一人が残りたもうことは、彼のみによって行なわれる贖いを示しているのである。
 しかし、主が弟子えあちを愛して、彼らの代わりにご自分の命を捨てることを厭いたまわなかったことはたしかである。主が弟子たちを愛し、その一人も失われないようにされたことは確かである。
 「その一人も失わない」という言葉は、先ず6章39節で聞いたものである。「私を遣わされた方の御心は、私に与えて下さった者を、私が一人も失わずに、終わりの日に甦らせることである」。
 すなわち、神は救いに定めた者らを、キリストのものとし、いわばキリストの群れとして牧者キリストの管理のもとに置き、キリストはその者たちを終わりまで守り導いて、ついに終わりの日に甦らせて救いを完成させるという方式で救いたもう。今、18章9節で聞くのは、一人も失わないのではあるが、少し意味が違う。
 「一人も滅びないで」と言われた、その次の機会は17章12節であった。これは終わりの日に甦らせるという意味の「守る」ではない。「私が一緒にいた間、私はあなたから頂いた御名によって彼らを守り、また保護して来ましたから、誰も滅びなかったのであります」。ここまで守られて来た弟子たちが、ここで騒ぎに巻き込まれて滅びに会うようなことになってはいけない。
 ここで、シモン・ペテロが剣を抜いて捕っ手に切りつけるという突発的な事件が起こる。ペテロは13章37節で「主よ、なぜ、今あなたについて行くことが出来ないのですか。あなたのためには命も捨てます」と誓った人である。彼は忠実な一番弟子として、どこまでもついて行かねばならないし、自分にはそれが出来るはずだと考えていた。しかし、その場で主が続いて、「鶏が鳴く前にあなたは私を三度知らないと言うであろう」と預言されたことがこの夜のうちに実現する。
 ペテロが捕っ手の一人の耳に切りつけたのは、全く無思慮な、また衝動的な行動であった。物語りとしては有名であるが、事柄自体には意味が余りないから、軽くふれるだけにして置く。
 このことの意味を明らかにするのは、11節の御言葉である。「剣を鞘に納めなさい。父が私に下さった杯は飲むべきではないか」。二つのことが語られる。第一は剣を納めること。第二は御自身が苦難を受けたもうべきであることである。
 ヨハネ伝ではここに剣を執る者は剣によって滅びるという御教えを書いていないので、我々も触れなくて良いであろう。先に引いた36節の御言葉、「私の王国はこの世のものでない、もし私の王国がこの世のものであれば、私に従っている者たちは、私をユダヤ人に渡さないように戦ったであろう」と言うのと、「剣を執る身のは剣によって滅びる」は共通した要素を多く持っている。
 杯という言葉で苦難を象徴する例は旧約においても多い。しかし、また杯を祝福と喜びの象徴として用いる例も多い。ここではどうなのか。無抵抗で捕らえられて行き、裁判に掛けられるのであるから、杯は苦難の象徴と取って良い。しかし、ヨハネ伝でしばしば見て来たように、キリストにおいては、苦難が栄光であった。だから、父が私に下さった杯、それは単純に祝福と受け取ってよいのである。

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