2004.01.18.

ヨハネ伝講解説教 第176回

――17:25-26によって――

 
 主イエスの最後の夜の教えは、父なる神に対する祈りによって締め括られたのであるが、その祈りを学んで来て、今日は最後の言葉になった。
 「正しい父よ」と主は語調を改めて父に呼び掛けたもう。先に11節では「聖なる父よ」と呼び掛けられたことを記憶するが、それと形の上では似ている。ところで、「正しい」という言葉は、間違いとは言わないまでも、意味の的確に伝わる訳語ではないように思う。「義なる父よ」と訳した方が真意が伝わり易くなる。
 「正しい」という言葉は余りにも広範に用いられている日常語なので、ここで言おうとした意味が広がり過ぎて、掴み難くなる。「義」という言葉をここに当て嵌めると、それでも必ずしも判然と、明白に意味が取れるとは言えないが、これは聖書的な言い方であるから、解釈する姿勢、また方向がかなり定まって来る。
 「義」とは、聖書では救いを語る時の言葉である。特にヨハネ伝では、この義という言葉を人間に宛てることはしていない。聖書全体について言うならば、「義人」という言葉はあちこちに用いられているが、ヨハネの福音書は、義という言葉を父なる神に専ら確保して置いたかのようである。勿論、救いの反面として、審判という意味も義に結び付いているものとして考えなければならないが、神が義であられるとは、第一義的には、御自身そのものとして義であるお方が、信ずる者を義としたもうという意味である。それが神の救いである。主イエスが「義なる父よ」と言われたのは、そのような意味を含むものと受け取らなければならない。
 「父よ、この世はあなたを知っていません。しかし、私はあなたを知っています」。義であられる神を、この世は認めていないということである。人々は神を知っているつもりでいた。だから、自分たちの判定は正しいという自信をもって、イエス・キリストを裁いたのである。
 こういう事件をこれまでヨハネ伝で幾つも見て来た。ユダヤ人との衝突は全部神の義をめぐっての論争であったと言って良いであろう。例えば、5章で、主がある安息日に、38年間ベテスダの池の傍で寝たきりになっていた人を起き上がらせたもうた時、安息日に癒しという業を行ない、また床を取り上げよと命じるのは、神の定めたもうた安息日律法に対する反逆になる、と彼らは主イエスを裁いた。
 彼らは神を知っているつもりであったが、何も知らない。神の律法を知っていると誇っているが、本当の意味は知らない。むしろ、知っていると自負しているだけそれだけ、知らない人よりももっと知らないのである。彼らはまた、神の言葉である聖書を知っているつもりであるが、その聖書が証ししているのが、命を得させ、義を得させるために来るキリストだということを読み取ることが出来ず、聖書の言葉を一貫性なく引いて来て、キリストなるイエスを排斥しようとしている。これは主がヨハネ伝5章39節で、「あなた方は聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は私について証しするものである」と言われたのと内容的に全く一致している。
 今日学ぶ聖句の入り口のところで余り時間を取るわけには行かないであろうから、ローマ書1章17節の言葉を引いて、纏めをつけたいが、「神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり、信仰に至らせる」と言われる。そして、その前2節3節に語られるのは、「その福音は、神が聖書の中に予め約束されたものであって、御子に関するものである」という言葉である。
 「この世はあなたを知っていません。しかし、私はあなたを知っています」。だから、御子は御父について世の人々を教えたもうのである。それでは、世は御子によって神を知るに至ったのか。そうではない。人々は頑固にキリストの教えを拒み、ついにキリストを抹殺しようとした。
 しかし、神の義が福音において顕され、福音は御子に関わるという原理は動かない。キリストはこの福音を語りたもう。あるいは、むしろ、彼の存在そのものが福音であると言う方が適切であるかも知れないが、とにかく、キリスト御自身が福音である、というその福音が宣べ伝えられねばならない。イエス・キリストが世を去って行かれた後は、その弟子たちが世界の全面に遣わされて、福音を宣べ伝えることになる。
 その人たちについて述べられるのが次の句である。「また彼らもあなたが私をお遣わしになったことを知っています」。御子は知っておられ、御子に教えられて弟子たちも知るに至った。世は知らないから、知っている人が知らせなければならない。つまり、先ず、御父を全き意味で知っておられる御子が教えることを始めたまい、次にその事業を弟子たち、――主から教えられたという意味では「弟子」であるが、主から遣わされたという意味では「使徒」たちと言うのが適切であるその人々――が受け継ぐのである。そして、受け継がれて行くことは、「福音宣教」という言葉に要約して良いであろうが、このところでは、義なる神を明らかにして、知らせることである。
 主イエスが十字架に架けられる前の夜に語られた御言葉は、彼の地上における教えの総括であると言って良いが、その教えの最後の部分、特にその教えを閉じるに当たっての祈りでは、弟子たちの派遣ということが主題となっている。その派遣は、父が御子を派遣したもうた方式に則った派遣であるから、或る意味で全権委任である。
 だが、全権委任されたということは、もっと詳しく規定しなければ、誤解を犯し兼ねないであろう。父なる神と同じ権能、また同じ栄誉を御子が授けられたということは間違いないが、御子が使徒たちを世に遣わすとき、御自身と同じ権能と栄光を備えさせたもうたというのではない。22節で、「私はあなたから頂いた栄光を彼らにも与えました」と言われたのはその通りに理解すべきであるが、キリストと同じ栄光を持ったということではない。主イエスは私を見た者は父を見たのである、と言われたが、それを真似て、弟子が私を見た者は主を見たのである、と言ったならば、これは偽りである。
 しかし、ここで大事なのは、キリストの委任したもうた務めの効力が、キリスト御自身によってそれが行使されるときも、キリストから派遣された代理人によって行使されたときも、変わらないということである。
 つまり、罪の赦しは、キリストが宣言された時は100パーセント有効であるが、キリストの代理人によって宣言される場合は、威力が半減しているというようなことはない。マタイ伝16章19節で「あなた方が地上で解くところは天でも解き、あなた方が地上で繋ぐところは天でも繋ぐ」と約束されたことは真実である。
 イエス・キリストが使徒たちに委ねたもうた福音は、秘密の教え、「奥義」というようなものではない。先生が最も進んだ弟子を一人だけ呼んで、その弟子にだけ門外不出の最も深い教えを授けるというようなことはキリスト教にはない。教えの全部がオープンになっている。奥義という言葉は使われているが、密儀宗教の言う奥義ではなく、誰もが学ぶことの出来る教えなのである。勿論、誰でも100パーセント近づいて、100パーセント自分のものとすることが出来るというふうに考えて思い上がってはならない。
 それでも、キリストから召されて、「よきおとずれを宣べ伝えよ」と福音を託せられた者は、口に授けられた言葉を忠実に宣べ伝えるならば、それはその言葉がキリストによって宣言される場合と比べて、半分の効力しかない、というようなものではない。それゆえ、御言葉を託せられた者は、託せられたままの御言葉を、純粋にかつ忠実に取り次がなければならない。
 26節に移る。「そして私は彼らに御名を知らせました。また、これからも知らせましょう」。
 彼らに御名を顕したということは、6節で語られたが、御名を「知らせた」とは「顕した」と言うのと同じ事と見てよいであろう。今、ここで大事なのは、「これからも知らせる」と言われることである。これからも知らせるとは、キリストが世を去って行かれた後も教えが途絶えないということである。
 それは聖霊の降臨によって、キリストが地上を去って行かれた後も、キリストの教えが生き続けるという意味である。
 しかし、その教えについて、勝手な想像によって解釈を拡大して行かないように注意しよう。キリストが聖霊によってこの後も教え続けたもうというその教え方は、14章26節で言われたように、「思い起こさせる」という教え方である。
 約束されていたキリストが来られたことによって、神の啓示は完全になったのである。旧約の時代に、律法によって、また預言者によって、まだ十分でない形において教えられたことは、御子の来臨によって完璧なものとなった。だから、御子はピリポに向かって「私を見た者は父を見たのである」とハッキリ言われた。
  それ以上付け加えなければならない教えはないのである。キリスト以後の啓示の発展ということはない。キリスト以後は「思い起こす」ということだけがある。イエス・キリストは聖晩餐を制定された時、「私の記念としてこのように行なえ」と言われたのであって、救いのために行なわれるべく約束されていたことは既に成就したのであって、それを思い起こして確認すれば良いのである。
 我々が完全に救われた状態にあるのでないことは確かだ。しかし、我々の救いのために必要な処置は全部完了した。キリストは地上において果たすべきことを悉く果たし終えて父のみもとに帰られた。彼がまた降りて来て、もう一度十字架に架からなければならないというようなことはない。
 それなら、キリストがもう一度来られる必要もないではないか、と疑問を抱く人がいるかも知れない。だが、このことを難しく考える必要はない。救いに必要なことは全部済んでいるのである。キリストが再臨される前に我々が死ぬことがあるとしても、救いが完成の一歩前で止まるわけではない。我々はすでにキリストの完成のうちに受け入れられるのである。
 次に「これからも知らせましょう」と言われるその知らせることは、「あなたが私を遣わされたこと」と取って良いし、もう少し詳しく言えば、17章3節で聞いたことである。「永遠の生命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることであります」。神と神の遣わされるキリストを知らせるのだ。
 これを知るように、キリストは彼らを教え、その教えをその後も続けたもうたし、教えられた使徒たちがそれを継続して行く。使徒たちがこれを教えるためには、キリストがこのことを知らせたもうたのであるが、「私が彼らを離れて天に行ったのちも知らせ続ける」と言われるのである。
 最後に祈って言われる。「それは、あなたが私を愛して下さったその愛が彼らのうちにあり、また私も彼らのうちにおるためであります」。
 御名を知らせることによって、知らせられた人々のうちに愛が生まれ、留まると言われるのである。愛がどういうふうに来るのか。それは御言葉を「知らせる」こと、したがって永遠の生命がどういうふうに来るかを「知る」ことを通じてであると教えられる。
 愛は、それを実践することによって次第に身について行くものだと考えている人がいるかも知れないが、それは正しくない。愛は口先で教えられることではないのだから、見習うことも結構であるが、それで愛が教えられるわけではない。
 愛は、愛するという行ないとして、そういう形で、入って来るのではなく、御言葉として入って来て、我々の内部において御言葉が信仰を生み、それと同じように、また愛を生むのである。信仰が信仰というモノとして我々の内に注入されるのでないことは比較的理解し易いかもしれない。約束の言葉がないと、約束の言葉を信じる信仰は成り立たないからである。信仰をそういうものとしてでなく、心の持ち様の一種と捉える人は、信心深い人のそばでその感化を濃厚に受けるならば、自分も信心深くなるのではないかと考える。しかし、そういうやり方では、決して身に付いた信仰にならない。
 愛は、愛する力量でもないし、愛する作法でもない。愛は「汝ら愛すべし」との御言葉が与えられ、その御言葉に対する応答の服従を、恵みとして与えられる時に始まるもの、出来事である。ヨハネの第1の手紙、第5章3節に、「神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである」と教えられている通りである。戒めを守ることによって愛が成り立つと教えられるのである。
 その出来事は、愛されることから始まる。愛されたから愛ということを知って、次に愛するのである。ヨハネの第1の手紙4章9-11節にこう書かれている。「神はその独り子を世に遣わし、彼によって私たちを生きるようにして下さった。それによって私たちに対する神の愛が明らかにされたのである。私たちが神を愛したのでなく、神が私たちを愛して下さって、私たちの罪のために贖いの供え物として御子をお遣わしになった。ここに愛がある。愛する者たちよ、神がこのように私たちを愛して下さったのであるから、私たちも互いに愛し合うべきである」。この言葉は愛を非常によく説明している。
 「あなたが私を愛して下さったその愛が、彼らのうちにあり……」。これは父の愛が御子に入り、御子の愛が彼らに入って行くということだと読む人がいると思うが、愛という「もの」が川の流れのように入って行き、また次のところへ入って行くというのと少し違うのである。愛はまた或る人のうちにあって、他の人に感化として拡がりまた移って行く徳ではない。
 「彼らのうち」とここで言われているのは、彼ら一人一人の「内部に」という意味ではないのではないか。「彼らのうち」とは「彼らが互いに愛し合う間、彼らの相互の関係」という意味に取るべきである。彼らのうちに愛があるとは、二つの意味に取ることが出来るが、一つは彼らが「互いの間で」愛し合っているということなのだ。父が御子を愛したもうたその愛が、彼ら相互の愛として働くのである。もう一つの意味が考えられるが、それは「あなたが私を愛して下さった愛」それは、次に、あなたから愛されている私が彼らのうちにいるのであるから、私を愛する父の愛は彼らを愛する愛となる、ということである。もっとも、このように二つの意味に分けても、実際の愛は区別の必要のないものである。
 「私も彼らのうちにおるためであります」と言われる。ここでも「彼らのうちに」とは一人一人の内面に、という意味に取れなくないが、そう取っては正しくないであろう。キリストが信じる者のうちに住みたもうという事実はあるのだが、ここで言われる「うち」はあなた方相互の「間に」という意味である。彼らが互いに愛し合う関係、そこにキリストがおられ。この関係の中にキリストがおられること、これがキリストの体なる教会なのである。
 彼らがこの後、世にあってその使命を果たして行く時、それを推進し、また支えるのは、父が子を愛したもうたその愛の延長なのである。

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