2004.01.11.

ヨハネ伝講解説教 第175回

――17:22-24によって――

 
 「私はあなたから戴いた栄光を彼らにも与えました。それは、私たちが一つであるように、彼らも一つになるためであります」。
 父と子が一つであり、その一つに、信じる者も加えられるということが、このところ繰り返し強調されて来た。我々の間で「一つ」ということは常時繰り返して強調されるが、その意味が主イエスの教えたもうたところと無関係な、むしろそれに反逆するものとなっている場合がある。一致を求めるというだけなら、獣でも群れを作る。これは自然の習性であって、理に適ったことであり、自然の理に反するのは良くないから和合する。和をもって貴しとす、という法則が個人の人権を圧迫することもしばしばある。
 しかし、主が我々に語っておられる意味から離れて、自分に納得出来るから受け入れるという理解をしていると、分かったつもりであればあるほど、信仰の一致、教会の一致が本来の意味から遠ざかった俗悪なものになる。
 永遠の御父と永遠の御子の一致が、信ずる者の間の一致の完璧なモデルである。我々の相互間に目を向けているだけでは、本当の一致に達することは出来ない。上に目を向け、父なる神と子なる神である我らの主イエス・キリストとの一致を把握する時、我々の間の一致が何であるかが分かるだけでなく、その一致の事実が生まれ、それが生まれるだけでなく、固くされるのである。
 その一致の理解の謂わば決め手と言うべきことが今教えられる。すなわち「栄光」における一致である。
 理解の順序として、先ず、父と子の間の栄光の一致ということを悟って確認し、信じ、受け入れなければならない。このことを理解するのは難しくない。17章の初めで、主イエスはこう祈られた。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を顕すように、子の栄光を顕してください」。ここに栄光の顕されることについての教えがある。すなわち、栄光の現われ出るのは、キリストの十字架においてなのだという秘義が示される。それとともに、栄光における一致が教えられる。
 栄光における一致ということは、言葉としては決して平易ではない。しかし、栄光の現われという事実に触れることは、理論を理解することでなく、触れることそのままであるから、事実として受け入れざるを得ない。それは触れるとか、見るとかいう言い方では相応しくなく、圧倒される体験である。
 栄光を見るとはどういうことかと問われて、うまく答えられないもどかしさを感じる人は少なくない。しかし、栄光を見るということ自体は、説明としてはうまく出来なくても、信仰の事実として体験される。
 以上のことを踏まえた上で、22節の御言葉の解き明かしに入る。「私はあなたから戴いた栄光を彼らにも与えました。それは私たちが一つであるように、彼らも一つであるためであります」。
 すでに見て来た通りであるが、「私たちが一つであるように、彼らも一つになるためであります」という言葉は、バラバラに解きほぐしては意味を損なうかもしれないものである。「彼らも一つになるため」ということが、確かに非常に重要なのであるが、この言葉だけが切り離されて持ち上げられると、「何でもかでも一つになれば良い」というような、極めていかがわしい意味の言葉になってしまう恐れがある。
 そうならない注意が必要であるが、「彼らも一つとなるため」ということもおろそかにされてはならない。彼らも一つということは、彼らの間で一致があるというだけでなく、父なる神と子なる神との一致に彼らも与っているという意味を踏まえて、彼らは一つなのである。
 特に、栄光を与えられることによって彼らが一つだと言われる。一致の実質が栄光である、と言っては混乱を起こすかも知れない。神の栄光と殆ど同列に使徒たちの栄光が実質的にあると思い描くことは避けなければならない。天使といえども神と同列の栄光を持つことは出来ない。
 使徒たちはキリストとともに生きることによって感化され、あるいは賜物を豊かに受けて、キリストにある神性を持つに至ったということではない。太陽があって、その光りを受けて月が輝くように、使徒たちは自分自身の光りで輝くのではなく、光りである方は別におられて、使徒は光りを輝かせる器として選ばれ、任命され、派遣されたから。光りを輝かせる。
 「栄光を彼らにも与えました」と言われる際の「栄光」は、彼らの実質に関するものと取るよりも、彼らの派遣、彼らの帯びている使命に主として関わるものである。彼ら自身の栄光を輝かすのではないが、彼らは栄光ある務めを帯びている。
 この務めの栄光ということに関して、ことさらに強調する必要はないが、使徒たちの受ける苦難が関係していると見ることは出来る。21章19節で、「これはペテロがどんな死に方で神の栄光を顕すかを示すためにお話しになったのである」と書かれている。ペテロは生涯に亘って神の栄光を顕したが、彼の死は彼がその身をもって神の栄光を顕した最大の出来事であった。それによって彼自身の栄光が顕されたということではないが、キリストの場合、十字架が栄光であったことを思い起こすならば、死と栄光が結び付く場合があっても当然なのである。使徒たちは、御名のために恥を加えられるに足る者とされたことを喜んだ、という記事が使徒行伝5章41節にあるが、これは彼らが自らの栄光をそこに感じたのだと受け取って良いであろう。
 12人の使徒がそれぞれの方向に出て行った。では、12の方向に散って行ったのか。主イエスが生前弟子たちを全国伝道に派遣された時、弟子たちは帰って来て務めの報告をした。これが原型になっているから、彼らは報告に帰らなければならない。しかし、ユダヤの国内伝道の場合と違って、報告のために帰って来ることは容易ではない。帰れなくなった人もいる。
 だが彼らは、散ったけれども一つであり続けるのである。教会の一致を我々は教えられているが、教会の一致は先ず第一に、12の方向に散って行った使徒たちの一致でなければならない。使徒たちが行った先々で教会を集め、それぞれの教会がその中では睦まじい交わりを作っているが、その群れ以外の群れについての関心を持たない、自己充足的な交わりしか形勢しないというようなことではいけないのである。
 別の言い方をするならば、栄光を受けた使徒たちの栄光は、同一、すなわち平等である。使徒の中にみんなを取り纏める役割を持つ人がいたのは事実である。だからといって、その人に特別な栄光と権威があったわけではない。
 前回、「彼らのためばかりでなく、彼らの言葉を聞いて私を信じている人々のためにも祈ります」との御言葉から教えられたように、主は第一代の使徒と二代目・三代目の信者を差別してはおられない。そこで、我々は二代目・三代目、その後の全ての世代の真実な信仰者にも栄光が与えられることを理解しなければならない。さらに、彼らに与えられる栄光が平等であることも弁えなければならない。
 23節に進む。「私が彼らにおり、あなたが私に在ますのは、彼らが完全に一つとなるためであり、またあなたが私を遣わし、私を愛されたように、彼らをお愛しになったことを、世が知るためであります」。
 彼らが完全に一つになるため、という御言葉は、完全でない、名目だけの一致を斥けたもうという意味をも含む。前回も触れたが、人々は一致を喜び、人間の目で一致と見えるものを尊ぶ。普通には、大多数の人々が一致すれば、それを一致と看倣すべきだと思っている。そこには偽りが含まれている。
 キリストのもとにおいては、不完全な一致はなくて良い。いや、ない方が良い。不完全な一致を完全なものと称するのは自らを偽り、人を偽り、主をないがしろにする罪と言って良い。
 我々は我々の間の一致が如何に不完全であるかを知らなければならない。仔細に見ればそれが罪によるものであることが分かるはずである。それを自覚して、赦しを求めつつ、全き一致の実現の日を望み見なければならない。では、その完全な一致とはどういうものであるか。
 その完全な一致は「私が彼らにおり、あなたが私に在ます」ことによって達成されると教えられる。完全な一致を求める者が何をしなければならないかが、これで明らかとなる。父なる神のうちに在りたもう御子が、弟子たちのうちに在ますならば、彼らはキリストにあって完全に一つであり、キリストにあるという意味で完全に一つであるが、その意識をなくすならば、虚偽になる。
 では、キリストにあっても本当は完全な一致ではないのか。現在の一致と終わりの日における一致は違うことを心得て置かねばならない。現在の一致を確認する者は、来たるべき日の一致を望み待つのである。
 さて、私が彼らにおり、あなたが私に在ますのは、彼らが完全に一つとなるため、と言われた次に、「あなたが彼らを愛されたことを、世が知るためである」と教えられる。世に遣わされた彼らはこの世にあって多くの点では力ある者のようには見えないけれども、神の愛によって彼らが生きていることを、世は知るのである。それは、世にある彼らのうちに相互の愛と一致があるからである。これは13章35節に、「互いに愛し合うならば、それによって、あなた方が私の弟子であることを全ての者が認めるであろう」と言われたのと同じ主旨である。
 24節に入って行く。先ず、「父よ、あなたが私に賜わった人々が、私のいる所に一緒にいるようにして下さい」と言われる。「私に賜わった人々」という言葉は、この章の6節またそれ以降にあったし、もっと前、6章39節にもあって、「私を遣わされた方の御心は、私に与えて下さった者を、私が一人も失なわずに、終わりの日に甦らせることである」という言い方で出ていた。
 「私に賜わった人」というのは、私の支配のもとに移された人という意味である。神は先ず御自身の民を選んでおかれた。そして、その時すでに彼らをキリストの者と定めておられた。選ばれた者の救いを完成するのは御子キリストだからである。だが、その選びは隠されているので、召されるまでは本人も知らない、他の人も気がつかない。しかし、時が満ちて、その人が世にいたところから召し出され、キリストに従う者となるに及んで、彼が世に従わず、キリストにのみ従う者であるから、キリストのものであることは明らかになる。そして、キリストは御自身に従う者を引き連れて、そのうちの一人も失わないように導いて終わりの救いに至らせたもう。
 そのように父なる神が選んで、キリストに属する者と定め置かれた者は、完成の日までキリストと共にいるのである。「終わりの日に、私が甦らせる」と言われたが、最終的にそうなるまで、まことの牧者を離れてさまよう羊のようなケースもあることはある。その羊のために良き牧者なるキリストが、99匹の迷わぬ羊をそのままにして尋ねて行くという感動的な話しが有名になっているので、一度くらい迷い出た方が有難味が分かるのではないかと考える人がいる。しかし、生きている間ずっと牧者のもとにあるのが本来の在り方である。主は彼らが一緒にいるよう祈りたもう。
 次に、この節の後半、「天地が造られる前から私を愛して下さって、私に賜わった栄光を、彼らに見させて下さい」と祈られるが、キリストの栄光を見ることが弟子たちにとって最大の慰めまた励ましであった。それは天地が造られる前からの栄光である。これと同様のことばを主は17章5節で語られた。「父よ、世が造られる前に、私がみそばで持っていた栄光で、今み前に私を輝かして下さい」。
 天地が造られる前にみ前で持っていた栄光、これは被造物がまだなく、永遠なる創造主のみがあられた。御子は永遠の御子としてそこにおられた。つまり、彼は天地の創造に関与されたのである。
 キリストの栄光について、ここで纏まりのついたことを学んで置きたい。ここまでに信仰者とユダヤ人の争点の中心は、ナザレのイエスが神から遣わされた人であるかどうかということであった。神から遣わされた人というのは、メシヤであるというのと同じ重味がある。しかし、メシヤであると信ずるとしても、その信仰にはさまざまに雑多である。バプテスマのヨハネより一段上という位に考えていた人も多いはずである。
 死人の甦りの事件は信仰への踏み切りのつかない人にも大きい衝撃であった。それがラザロのケースと主イエスのケースとがあったので、不信仰を貫くことは大いに難しくなった。それでも、まだ開きが大きかった。
 今でもクリスチャンという人の間に、キリストについての把握の違いが大きい。謂わば神のような方、というくらいの理解の人も少なくない。
 いろいろなキリスト理解について論評することは、今日の我々の務めではない。我々はキリストが何と言われたかを学ぶのである。「天地が造られる前から私を愛して下さって。私に賜わった栄光を、彼らに見させて下さい」。そして、5節で聞いた御言葉をも併せて聞こう、「父よ、世が造られる前に私がみそばで持っていた栄光で、今み前に私を輝かせて下さい」。
 十字架と復活において示されるキリストの栄光は、世の初めの前にまで遡って把握しなければならない。単に死と生を越えると言うだけでは軽すぎる。もっと大きいスケールでキリストを捉えなければならない。
 コロサイ書1章15節以下で、「御子は神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生まれた方である。万物は、天にあるものも地にあるものも、見える物も見えない物も、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。これら一切のものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである。彼は万物よりも先にあり、万物は彼にあって成り立っている。うんぬん」と説いているが、これはヨハネ伝17章でイエス・キリストが御自身の栄光について語りたもうたところと符合するのである。キリストが御自身の栄光が現われることを祈っておられるのであるから、我々はその現われがどれほどのものであるかを把握しなければならない。

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