2004.01.04.

ヨハネ伝講解説教 第174回

――17:20-22によって――

 
 20節で「私は彼らのためばかりではなく、彼らの言葉を聞いて私を信じている人々のためにも、お願いいたします」と主イエスは祈りたもう。
 ここまでは、彼ら、すなわち傍にいる11人の弟子たちのために祈られた。彼らは今の時までは主イエスの庇護のもとに置かれていた。12節にある通りである。海の上で嵐に揉まれた時、主イエスが助けたもうた。食べる物がなくなった時、主がパンを与えて下さった。今、その庇護がなくなり、彼らはあたかも寒空のもとに投げ出された孤児のようになるわけである。
 それだけでなく、彼らは主イエスを憎んで殺したこの世に、今から派遣される。18節で、「あなたが私を世に遣わされたように、私も彼らを世に遣わしました」と言われる通りである。
 二重の意味で新しい局面に立たせられるのである。考えるだけでも、身のすくむほど恐ろしい場面である。だが、主イエスは彼らのために祈りたもうた。その祈りが如何に力あるものであるかを、弟子たちは経験しているので、14章27節に、「私は平安をあなた方に残して行く。私の平安をあなた方に与える」と言われた言葉を素直に受け入れることが出来た。
 ところで、主イエスから教えを受け、主イエスに祈って頂いた使徒たちは、これからは与えられた権威に立って、使命を遂行することが出来る。けれども、使徒の語る言葉によって教えられ、み言葉を受け入れることによってキリストを信じるに至ったこれ以後の新しい信徒たちは、使徒より一段低いところにしか立てないのではないか。――こういう疑念はキリスト教会の中にかなり根強い。
 一つの川は、源流においては清かったが、下流に行くにつれて汚濁して行く。教会も初めの時代に遡るほど純潔であったが、代を重ねるにしたがって濁りを増して来る。これは如何ともしがたい現実である、と考えている人は多い。しかし、この考えは間違っている。末の世に至っても、我々は薄められていない信仰を保つことが出来、それが約束されている。我々はその約束を保持しなければならない。約束があるということと、その約束通りシッカリ生きていることとは必ずしも同じではない。今日キリスト教は衰退し、その使命は終わった、と言われてさえいることを、我々は聞き流してはならない。
 川は流れて行くうちにどんどん不純なものが混じって、その汚れが濃くなって来るのは本当だと考える人が今多いことは確かだが、昔の人はそう考えなかった。実際、大昔の川は下流に至っても、なお清流であった。川の流れには浄化作用がある。今では浄化力の限度以上に汚い物が投げ込まれているから、浄化作用は働かなくなって、悪くなって行く一方である。
 教会を一つの川の流れにたとえて、この流れに余計な物を捨てるな、という俗っぽい教訓を受けているのではない。キリストが建てたもうた教会が何であるかをよく考えよう。教会には世に勝つ信仰が約束されている。その約束によって教会は立ち、その信仰によって戦い、勝って生き残る。
 一人の信仰者の場合を先ず考えて見よう。人が回心して、信仰生活を始めたけれども、その信仰がだんだん低温度になって行き、マンネリに陥り、しかし、これではいけないと奮起して、初めの感激を取り戻そうとする、という話しはよく聞くところである。しかし、これはシッカリ教えられていないクリスチャンたちの間で語られることであって、この低調を取り戻そうとして、時々、大々的な集会が企画され、感動の思い出を繰り返す慣例が出来ているというだけの話しである。こういうやり方は、本来のキリスト教にはなかった。こんなものはキリスト教でない、と言っては言い過ぎだが、イエス・キリストの教えたもうた線を歪めたと注意することは必要である。
 信仰者に与えられたのは一時的な感動ではなく、新しい生命の端緒である。悔い改めという言葉を使った方が正確でありまた分かり易いと思う。これは一回だけ味わって、後は記憶に残るだけで、その記憶も次第に薄れて行くほかないような人生の一経験ではない。この悔い改めは、生涯繰り返される。だから、信仰の命は、停滞してしまったり、後ずさりして行くものではなく、生涯前進を続ける。
 教会も同じなのだ。教会の生命は、年々老化し、衰退して、形式や、制度や、統計によってその存在を示すものではない。主イエスが十字架の前夜に教えられた教えにあるように、教会の命とは、教会に賜る聖霊によって生きることなのだ。この命は信ずる個人に与えられるだけでなく、教会という体全体、単に人間の集合体としての教会ではなく、「キリストの体」と呼ばれる体に賜るものであって、その体の内で、個々人はそれぞれ体の肢として賜物を受けて、生かされる。
 それが、一つなる、聖なる、公同の教会と告白されるものである。これは世の終わりまで一つしかない。またこの教会が使徒的教会と呼ばれることがあるが、主キリストが御自身の教会を建て上げるための基礎作業をするため、選び出したもうた者が使徒であるという意味である。
 しかし、今日は、教会とは何かを学ぶ機会ではないから、教会についての教えはここで留めて、主イエスが使徒の後に続く者のために祈りたもうた御言葉に聞こう。
 「彼らのためばかりではなく、彼らの言葉を聞いて、私を信じている人々のためにも祈ります」と主イエスは言われた。これまでは使徒となる人たちのための祈りであったが、次には一回り大きくなり、使徒によって信仰者とされた人々のための祈りとなる。ここで我々の思い起こす二つの言葉があるが、その第一は、主イエスが10章16節で、「私にはまた、この囲いにいない他の羊がある。私は彼らをも導かねばならない。彼らも私の声に聞き従うであろう。そして、ついに一つの群れ、一人の羊飼いとなるであろう」と言われた言葉である。「ついに一つとなる」という点が同じである。
 では、10章16節は、17章20節と同じ事を言わんとされたのか。そうではない。この17章では、弟子たちが間もなく遣わされて出て行って、御言葉を宣べ伝え、結果として生まれ出る新しい信仰者のことを言っている。10章の方で言っておられるのは、別のグループのこと、例えば、サマリヤにいるキリストを信じる群れ。また、バプテスマのヨハネの系譜に属し、その教えに従ってキリストなるイエスを追い求めて行く群れもいた。使徒行伝18章24節からのくだりに、エペソに先ず来てキリストを伝えた伝道者のことが語られる。アレキサンデリヤ生まれのユダヤ人アポロという人で、ヨハネのバプテスマしか知らず、したがって聖霊のことも知らず、それでも熱心に「イエスはキリストである」と宣べ伝えていたと書かれている。少しおかしい伝道者、またそういう流派があったのである。人間の視野は多くの場合狭くて、見るべきことを見落とす。
 もう一つ思い起こす御言葉は、申命記29章、特にその14-15節の御言葉である。「私は、ただあなた方とだけ、この契約と誓いとを結ぶのではない。今日ここで、我々の神、主の前に我々と共に立っている者、ならびに、今日ここに我々と共にいない者とも結ぶのである」。
 申命記のこの言葉は含みが多くて、今ヨハネ伝の学びの中で解き明かしするには分量が多過ぎる。これはモアブの地で結ばれた契約であって、ホレブの契約と別の機会のものであると29章1節で説明される。
 とにかく、神は御顔の前に人々を集めて契約を結びたもうのであるが、「私はここにいるあなた方と契約を結ぶが、ここにいない人たちとも契約を結ぶことを、あなた方は覚えて置かなければならない」と言われるのである。「ここにいない人」というのがどういう人を指すかは必ずしもハッキリはしないが、今いないがやがて生まれて来る人が含まれることは確かである。我々も、ここにいない神の民のこと、それとやがて一つになることを忘れないようにしたい。
 21節に入って行く、「父よ、それは、あなたが私の内におられ、私があなたの内にいるように、みんなの者が一つになるためであります。すなわち、彼らも私たちの内におらせるためであり、それによって、あなたが私をお遣わしになったことを、世が信じるようになるためであります」。
 先に17章11節後半で、「聖なる父よ、私に賜わった御名によって彼らを守って下さい。それは私たちが一つであるように、彼らも一つになるためであります」という言葉を聞いたが、ここでそれが繰り返される。
 この後、22節にも、23節にも繰り返される言い方であって、「一つとなるため」という言葉がここでは重要であることが分かる。神の内における一致、すなわち父と御子の本質における一致、御子と信ずる者との一致、信ずる者同士の一致、新しく信仰に入った者との一致、そして、ここにいない別の群れとの一致、というふうに全ての点において一つとなることが求められねばならない。
 主がここで父なる神に向かって「私たち」と言っておられるのは、父と子が一つであるという最も深い意味の一致の奥義であるが、この一つなる合体の中に彼らも入れられるのだと言われる。ではその「彼ら」は何かというと、11節では11弟子たちである。その「彼ら」について、12節では「私が彼らと一緒にいた間は、あなたから頂いた御名によって彼らを守りまた保護してまいりました」と言われたのである。
 ところが、21節で「彼ら」と呼ばれるのは、20節で「彼らの言葉を聞いて私を信じている人々」と言われた人のことであるのは間違いない。その新しい信徒たちは御言葉を伝えた使徒たちと同列に扱われる。神またキリストとの関係において一体であるといういみにおいて同格なのである。
 この人たちは初めは世にいた。その時すでに選ばれていたのであるが、選びは隠されていたから、この人たちは世に属する者、キリストと対立する側の人というふうにしか見えなかった。その人たちに遣わされた使徒が、御言葉を伝えると、ちょうど使徒自身がかつてキリストから召されて、そのあとに従って歩み始めたのと同じ様な変化が起こるのである。
 したがって次にまた、この人たちの中から、御言葉を宣べ伝える人が産み出され、同じように彼らの呼び掛けを聞いて、信仰に入る人が出て来る。その人たちの信仰の品質が劣っていると考えてはならない。なぜ品質が落ちないのか。それは一代一代にキリストが関与しておられるからである。人の手から手へと信仰が伝えられて行くならば、手垢でだんだん汚れるかも知れないが、そうならないように、御言葉を純粋に宣べ伝えることが厳命される。さらに、キリストは御自身から直接御言葉を教えられた者のためだけでなく、いわば弟子の弟子になる者のためにも祈りたもう。もちろん、その次の代の信仰者のためにもキリストは祈りたもう。
 こうして、みんなの者が一つになる。ある部分だけが緊密に結び合う結社を作るのではない。また大部分が大同団結をするが、一部が取り残され、排除されるのでもない。全体が一つになるのである。一つの体は一つとして働く。右足は前に進もうとし、左足は後ろに下がろうとするというようなことはない。一つになるとは一つに集まることでも、混然と一つに解け合うことでもなく、信仰の一致、告白の一致である。
 したがって、この御言葉が、我々に一致を重んじなければならないことを示すのは当然であるが、多数派工作をして多く集めれば一致がある程度達成されたということではなく、とにかく一つに集まっておれば良いというものでもない。それらは一致と呼ばれるとしても、似て非なるものであること、偽装の一致であることを忘れてはならない。
 一つであるとは神においてのみ達成されていることである。父なる神と御子との間にこそ完全な一致があって、我々におけるそのことの達成は、終わりの日を待たねばならない。とはいえ、一つであるための努力を欠くことは許されない。しかし、人間の安易な結集が一つになることであると錯覚してはならない。
 我々が心しなければならないのは、我々が昨今、しきりに考えずにおられない「残りの者」、すなわち、少数者としての残りの者ということと、全体が一つになるということとの緊密な関係である。どちらも聖書の重要な教えであるから、一方を取り、他方を捨てるというわけには行かない。残りの者として真実に生きようとする者は、そのことを真実に貫くべきであるが、最終の日に全てが一つになる約束を忘れてはならない。
 一つになるとは、御子が御父と一つであるということが基本になり、それをもとにして使徒たちがキリストと一つであることが成り立ち、次に使徒たちの一致が父と子が一つであるように一つになることであり、新しく教会に加わる彼らも御父と御子の一つであることに与るのである、こうして、信仰者全員が「一つであること」に与って一つになるのである。それは「彼らも私たちのうちにおらせることである」と主は言われる。このことで、理屈が先走っている感じを受けることがあるが、一つを考えることと、一つになることはあくまで別ものである。
 軽率な議論にならないために、二つの点を学べば良い。第一は、一つになることが、さまざまの面において見られたのであるが、我々が特に思いを集中するのは「キリストと我々の一致」である。聖なる晩餐の礼典がそれを示している。その次に考えねばならないことは、一つになることの目的である。これをその次に聞く。
 「それによって、あなたが私をお遣わしになったことを世が信じるためであります」と祈りたもうのである。世に信じさせることが目的だと聞くと、奇異な感じがするかも知れないが、ここでは「証し」が問われるのである。すなわち、教会が真の意味で一つであることは、キリストのための証しとして、この世に対して最も強力なのだ。なぜなら、そのような一致はこの世にはないということを世は知っているからである。この世の外から限界を突き破って、一つなるもの、また一つとならせるものが突入して来たことを認めずにおられないからである。キリストこそが全てを糾合して、一つにならせる愛の力、原理だからである。
 13章34節で、「新しい戒めをあなた方に与える。互いに愛し合いなさい」と言われた時、直ぐに続けて、「互いに愛し合うならば、それによって、あなた方が私の弟子であることを、全ての人が認めるであろう」と言われたことを思い起こそう。これは、あなた方が一つであるなら、世は、私が父から遣わされたということを信じる、と言われたことと近い。
 二つでもなく、三つでもなく、一つなのだというだけでは算数の計算である。物理的に一つになっても意味はない。愛にあって一つという時に生命的に一つであるという意味が発揮されるのである。

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