2003.12.14.

ヨハネ伝講解説教 第173回

――17:14-19によって――

 
 イエス・キリストはマタイ伝5章48節で、「それだから、あなた方の天の父が完全であられるように、あなた方も完全な者となりなさい」と言われた。今日、この御言葉について学ぶのではないが、このお言葉を受け入れている者でなければ、今日のヨハネ伝の御言葉を素直に聞くことは出来ない。だから、先ず、ここに目を留めよう。
 神が完全であられることは分かる、と言う人は少なくない。しかし、とその人は言うのである。我々は完全ではないし、完全な者になることも出来ず、完全になれると思ってもならない。そのことが分かっていなければいけないのではないか。――こういう自己認識が我々の間で殆ど常識のように定着して、まかり通っている。そこで、我々の主イエス・キリストが、「あなた方は完全になれ」と言われても、その言葉が耳に入らない。強く言われると反発する。
 イエス・キリストのこのお言葉は、キリストが来られる以前には、誰も聞いたことがなかったものであろうか。そうではない。創世記17章1節にこう言われる、「アブラムの99歳の時、主はアブラムに現れて言われた、『私は全能の神である。あなたは私の前に歩み、全き者であれ』」。………信仰の父アブラハムは全き者であることを命じられた。それなら、その子らである我々も同じである。
 これと同じ言葉ではないが、同じ響きの御声を聞くのは、レビ記11章44節である。「私はあなた方の神、主であるから、あなた方は己れを聖別し、聖なる者とならなければならない。私は聖なる者である」。45節に続けて言われる、「私はあなた方の神となるため、あなた方をエジプトの国から導き上った主である。私は聖なる者であるから、あなた方は聖なる者とならねばならない」。
 先ほど、「全き者」、「完全な者」という言葉で聞いたのと同じ調子が、「聖なる者」という言葉に籠められていることは誰にも分かるのではないか。「聖なる者となることなど、全然考えられない」と言うのが、世俗の中に生きる者としての己れの分を弁えた、慎ましくまた賢い言い方であると考えてはならない。それは道徳の世界では謙遜として評価されるかも知れない。だが、そこに拘っては、罪の中に開き直るだけである。神は「全き者であれ」、「聖であれ」と命じたもう。それなら、我々は砕かれて、聖なる者として生まれかわらねばならない。たとい、聖なる者とは真反対の性質しか持っていないとしても、命じられることには従うほかないではないか。
 人間が聖なる者となることは、出来るのである。それが神の民への約束であり、また命令である。聖なる者となることを、心から願って良い。いや、願わなければならない。勿論、自分の力によって聖となるのではない。我々を聖なる者として下さる主が来られたから、それが出来るのである。神の民は、神が聖なるお方であるように、聖なる民とならねばならないということは初めから言われていた。そのことが実現するのは、キリストが来られて、彼に課せられていた務めを全うしたもうた時である。それはまさに今学んでいるこの時である。
 使徒パウロはIコリント1章30節で、「キリストは神に立てられて、私たちの知恵となり、義と、聖と、贖いとになられた」と言っているが、これは言い表わし方が違うけれども、今日、ヨハネ伝17章で学ぶのと同じ事実を指すのである。すなわち、キリストは神に立てられて、我々の聖となりたもうた。それ故、我々は彼において我々の聖を獲得することが出来たのである。
 パウロはここで、キリストが「神に立てられた」と言うが、それは単に高く挙げられたということではなく、また任務を負わせられたというだけでなく、十字架の上に上げられ、十字架において任務を完遂したもうたと読むことによってこそ意味を十全に捉えることが出来るものである。
 「真理によって彼らを聖別して下さい」と祈られたことは、父なる神が彼らに対する働きかけをして、彼らを聖として下さることだけを願って言っておられるものではない。19節で、「彼らのため私自身を聖別します」と語られたことをここに結び付けなければ、理解出来ないようになるのである。すなわち、先にパウロの言葉で見た通り、キリストが我々の聖となられることによって、我々は我々の聖をキリストにおいて先ず確保し、その彼を受け入れることによって、聖なる者になるのである。
 「聖別」、「潔め分かつ」という言葉が、旧約においては、殆ど常に神に向かって捧げること、奉献すること、分離すること。あるいはまた何かをしないことと結び付けられている事情は、我々の知る通りである。神に捧げられる供え物は「神に聖なる物」と呼ばれ、それはこの世から分離された。こういう事情は「聖」ということについて第一に弁えておくべきである。
 しかし、それが「聖」であるということの全てであるかというと、そうではない。安息日を聖なる日として守るためには何もしないのではなく、善を行わねばならないと教えたもうた。そのように総括的に言えば消極的でなく積極的に生きるのであるが、今日新しく学ぶことは「世への派遣」という課題である。
 これが、世から分かたれて、神に捧げられることと対になる。「聖」ということには常に「派遣」という意味が含まれていると見るならば、随分無理な解釈であると言われるであろう。確かに、旧約の中に規定されている「聖」に、「派遣される」とか「使命」という意味があると見るのは困難である。聖に関しては、世から分離しなければならない、という基本的な意味が第一に確保されなければ混乱を招く。
 だが、キリストにおいては、聖別されることと派遣されることとは、ことがら自体は別のことであるとしても、結び付くのである。例を挙げれば、10章36節に主イエスはユダヤ人に対して、ハッキリこう言っておられる。その前の節から読むが、「神の言葉を託された人々が、神々と言われておるとすれば、父が聖別して、世に遣わされた者が『私は神の子である』と言ったからとて、どうして『あなたは神を汚す者だ』と言うのか」。
 御自身、聖別されて派遣された。そのように彼の弟子たちも、聖別されて派遣されるのである。自発的に動き出すというのではない。務めが授けられるだけでなく、その務めに結び付いた聖霊の賜物が授けられて遣わされるのである。
 旧約にある「聖」についての規定を、今日の人はただ煩わしいだけの形式主義的なもの、食べるな、触るな、働くな、というような消極的な形でしか示されないもの、というふうに受け取るかも知れない。実はそうでないのだ、ということについてユックリ説明した方が良いとは思うが、いずれ分かって来るのであるから、聖について、旧約で教えていることを先ずキチンと受け止めよう。
 その第一のことを踏まえた上で、我々キリスト者は、ここに第一のことから派生した第二の意味を付け加えることが出来る。主イエスがここで「彼ら」と呼んでおられる弟子たちの位置は、そのまま我々に当てはまる。我々も聖別されて世に遣わされる。この事情について今日は学ぶ。
 14節で主は言われる、「私は彼らに御言葉を与えましたが、世は彼らを憎みました。私が世のものでないように、彼らも世のものではないからです」。
 主イエスは父から受けた言葉を、使徒たちにも授けたもうた。主が御言葉を持ちたもうように、使徒たちも御言葉を持つ。その御言葉を彼らが守ったということを先に6節で言われた。
 彼らと「世」との関係を見て行くと、先ず第一に、彼らが世から分かたれたということがある。15章19節では、「あなた方はこの世のものではない。かえって、私があなた方をこの世から選び出したのである。だから、この世はあなた方を憎むのである」と言われた。世から選び分かたれた。そのため、あなた方と世との間には決裂関係があるだけである。だから、世はあなた方を憎む。
 いわば、この世から憎まれて生きて行かねばならない。それは辛いことだから、この世からの分離はしないで置こうと思うならば、キリストに属する者としての実質はなくなる。我々の方から世の人々を憎むことはしないけれども、世の方では、キリストとキリストに属する者らを理由なしに憎むということについてすでに聞いた。闇は闇である故に光りを憎むのである。
 16章の初めで語られたではないか。「私がこれらのことをあなた方に語ったのは、あなた方が躓くことのないためである。人々はあなた方を会堂から追い出すであろう。さらにあなた方を殺す者がみな、それによって、自分たちは神に仕えているのだと思う時が来るであろう」。人々は良いことをしているつもりなのだ。だから、彼らにその業を止めさせることは出来ない。キリストが罵られ、叩かれ、殺されたのと同じように、キリストに属する者もそうなるのだ。
 第二に、その彼らが世に遣わされる。そこで決裂関係が直ちに和解の関係になるのではない。世は彼らを依然として憎んでおり、憎しみはさらに迫害へと発展すると15章20節で言われる。「僕はその主人に優るものではない、と言ったことを覚えていなさい。もし、人々が私を迫害したなら、あなた方をも迫害するであろう」。
 それでは、彼らは迫害されて、絶え果てるのか。普通ならば、絶滅されてしまうところであるが、そうはならないようになっている。どうしてかというと、神が守って下さるからである。偶然にも悪しき者らの計画が挫折した、というような偶然によるのではなく、神の意志に反することだから起こらなかったのである。
 その守りをキリストは彼らのために祈りたもうた。11節で祈られた、「私はもうこの世にはいなくなりますが、彼らはこの世に残っており、私はみもとに参ります。聖なる父よ、私に賜わった御名によって彼らを守って下さい」。つまり、彼らが地上に残って果たすべき務めをなすように、神の守りが加えられる。
 15節でも祈られる、「私がお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、彼らを悪しき者から守って下さることであります」。
 彼らはこの世に遣わされ、またキリストが殺された後のこの世に残され、使命を果たさなければならない。主が十字架に架けられたのであるから、弟子たちも皆、苦難の道を行くのではないかと考えられるかも知れない。キリストのために死を覚悟することは、あっても良いが、みんな十字架に架けられなければならない、と考えるのは間違いである。禍いから守られるようになっているのだ。
 キリストは死なねばならない。世の罪を負う神の小羊は死ななければならない。しかし、その役を果たすのは彼一人である。他の人には真似も出来ないし、彼一人の死で罪の償いは十分なのだ。
 この世に長く留まることは彼らにとって少しも願わしいことではない。むしろ、世を去って主とともにいることが望ましい。ピリピ書1章24節でパウロが言う通りである。しかし、世に遣わされた者としては、世に留まる。そして、世における務めを全うするのである。それが出来るための保護があるということを知らなければならない。
 彼らの務めとは何か。14節に「私は彼らに御言葉を与えましたが、世は彼らを憎みました」と言われた。人々が憎むのは彼らの主であるキリストを憎むことの続きである。それとともに彼らが主から与えられた御言葉を語ってやめないことが迫害の理由になっていることを忘れないようにしよう。
 教会が迫害を受けたことはしばしばあるが、迫害は語ることへの迫害である。教会が沈黙したなら、迫害は止むのである。即ち、宣教、そして告白、この二つを隠すなら、迫害はなくなる。しかし、主は「私は彼らに御言葉を与えました」と言われる。その言葉は宣べ伝えまた掲げるための御言葉である。主は弟子たちが入門したその日から御言葉をもって彼らを訓練された。ここに書かれている御言葉は、弟子たちを訓練し、また彼らを聖別する御言葉であったと解釈することは出来る。そう解釈して良いが、その御言葉が宣べ伝えられることもまた確かである。
 次の15節、「私がお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、彼らを悪しき者から守って下さることであります」。
 「悪しき者」とは、「この世の君」と先に言われたのと同じ者を指すと思われる。サタンと言っても良い。サタンはすでにキリストの死によって征服されたのではなかったのか。確かに、キリストは勝利を勝ち取りたもうた。しかし、悪しき者は、黙示録にも描かれているように、何度も何度も打ちのめされながら、また起き上がって来る。世の終わりに絶滅されるまでは生きているのである。それが暴力を振るうことができないようにされる。しかし、根絶やしにされたのでないから、時として悪魔は荒れ狂うのである。そして、主の教会に甚大な被害を与えるのである。今日がその時代ではないかと思われる。
 主は使徒たちが「真理」によって聖別されることを祈りたもうが、真理による聖別とはどういうことか。真理の言葉による聖別である。先に、10章36節で見たように主イエスは御自身が遣わされるにさいしても聖別が行なわれたと言っておられ、その場合の聖別には能力と権威の賦与という意味が籠められているように思われる。ここでも、真理を悟り、真理を語る言葉の力の賦与であろう。「あなたの御言葉は真理であります」と言われる通りである。
 今日最後に聞く御言葉は、「あなたが私を世に遣わされたように、私も彼らを世に遣わしました。また、彼らが真理によって聖別されるように、彼らのために私自身を聖別いたします」。
 遣わすということがいよいよ大きい意味になって来ている。キリストが父から遣わされたことが元になってキリストの使徒派遣が行なわれる。その派遣に結び付きまた先立つのが聖別である。
 そのことを示しているのが20章21-22節である。「イエスはまた彼らに言われた、『安かれ。父が私をお遣わしになったように、私もまたあなた方を遣わす』。そう言って、彼らに息を吹き掛けて仰せになった、『聖霊を受けよ。あなた方が赦す罪は、誰の罪でも赦され、あなた方が赦さずにおく罪は、そのまま残るであろう』」。
 キリストの苦難は栄光であると学んで来たが、キリストが栄光に入りたもうのを単に仰ぎ見るだけでなく、我々も遣わされた者となるのである。
 

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