2003.12.07.ヨハネ伝講解説教 第172回
――17:12-13によって――
12節後半の「彼らのうち誰も滅びず、ただ滅びの子だけが滅びました。それは聖書が成就するためでした」という御言葉に我々の関心が引き寄せられる。これは深刻な不安を我々の心のうちに掻き立てる聖句である。すばわち、この私は滅びの子ではないのか、という疑問である。
この節の言葉を語り終えて、主イエスは次の節で、「世にいる間にこれらのことを語るのは、私の喜びが彼らのうちに満ち溢れるためであります」と言われるが、ここからは満ち溢れる喜びが来るほかない、と言われたのである。だから、戸惑いや心配が生じることはないはずなのである。ところが、あってならない不安が我々の不信仰の故に起こる。それは是正して行かねばならない。
12節全体として言えば、節の前半に重点が置かれることは、素朴に読む限り容易に把握できる。私は守られるのか滅びるのか? 確率は半々である、と受け取るのは、恵みの言葉を、それを聞くに相応しい聞き方で聞いていないことだ。例えば、戦争を始めようとする権力者は、敗けることがあるかも知れない、と慎重に計算する。そして、実際、勝つつもりであったのに敗けるというケースがある。
そのようになるのは、この世のことに関してであり、そして人間の考え及ぶことは全て不確かであるからである。それを知る者は、慎重な上にも慎重に考えなければならない。しかし、主が恵みを約束して下さる時、我々はそれをこの世の言葉であるかのように、慎重な上にも慎重に思い測るべきであろうか。この世では、うまい話しであったから、それに乗って失敗したということが十分起こる。この世の企業家が絶対儲かるはずだと思って、先を争って投資したのに、みんな損をしたという話しを我々は聞いている。将来のことは読めないから、間違った判断をすることがあって当然ではないか、と人々は後になって納得する。
神の恵みの約束はそれとは違う。先の成り行きがどうなるか分からないから、先のことについては、いつもいつも計算し吟味していなければならない、というのがこの世の知恵であるが、恵みの約束を受けた者は、信仰をもってこれを受け取る。そこには計算を挟む余地はなくなる。
恵みの約束は、「やってみようではないか」という気を起こさせる誘いではない。恵みの約束は確かさの約束であり、むしろ、よって立つべき基礎としての確かさの提供である。うまく行くか失敗するか、結果は半々だという世界から脱却して、確かさの世界に移っているのである。
では、信仰者の中に滅びの子はいないのか。「いない」と言い切ってよい。滅びの子だけしか滅びないと教えられるのだ。確かに、人々が錯覚を起こして、偽りの救いを本物と見誤ることはある。また、我々は油断したり思い上がりをし、謙遜を忘れてはならない。天国の指定席を手に入れたかのように、何をしても天国の指定席は確保されていると思っては愚かなことである。予め約束を受けていた者が、いざ王子の婚宴が始まると呼び掛けられたのに、一人も招きに応じなかった、という譬え話によって、主イエスはこのことの警告をされた。
しかし、約束というものは、励ましや勇気づけのためにはなるが、それ自体に確かさはない、ということではない。
今日の所では「滅びの子」という特別な言い方を聞くのであるが、これは特別な人物、イスカリオテのユダを指している。ほかの11人も滅びの子になるかも知れないという意味を読み取る余地はない。滅びの子以外は滅びの子でない。
「滅びの子」という言葉について、キチンとした説明を求められても、我々にはチャンとした答えは出来ない。つまり、この言葉が誰を指しているかは明白であるが、定義付けは出来ないし、その必要もない言葉である。いわば、譬え話、寓話の登場人物のようなもので、滅びの子についてその定義を一生懸命考えたとしても、何も益あることは出て来ない。
ただ、ここで、「それは聖書が成就するためである」と言われたこと、これはハッキリ掴まなければならない。イスカリオテのユダのやったこと、裏切って、主を引き渡したこと、それは主イエスの御業の失敗であったように考えている人がいるが、そうではない。彼自身は滅びの子の役割を演じるとは全然考えもしなかったが、彼は初めからある役割を持っていた。彼がいなかったなら、祭司長たちがどんなに悪巧みを練っても、キリストを十字架に付けることは出来なかった。
マルコ伝14章の初めに書かれていることを思い起こそう。「さて、過ぎ越しと除酵との祭りの二日前になった。祭司長や律法学者たちは、策略をもってイエスを捕らえた上、何とかして殺そうと図っていた。彼らは『祭りの間はいけない。民衆が騒ぎを起こすかも知れない』と言っていた」。――彼らは祭りの間には実行すべきでないと決定していた。これは、もう二日しかないから、殆ど諦めていたと取ることが出来るし、時間がないから急げとせき立てていたと取ることも出来る。いずれにせよ、非常にきわどい場面であることを彼らは知っていた。
殆ど諦めていたこの企みに、ユダが加わることによって、祭司長たちの思いもかけなかった道が開けたのである。彼らは民衆が騒ぎ出すことを恐れた。民衆が正義の味方であるというわけでは必ずしもないが、騒ぎを起こすと確実に実行が延びてしまう。ただ、騒ぎが起こらなければ恐くなかった。神を恐れることもなく、自らの良心の判断を恐れることもない。人に知られないところでやってしまうことが出来ればよかったのである。これが出来たのはユダの参加があったからである。
今夜、祭りの前夜、ゲツセマネの、12弟子以外には誰も知らない場所でイエスを引き渡すという計画が出来たのである。
これは、祭司長たち、またイスカリオテのユダの悪巧みの極みと見ることは出来なくないが、むしろ、神とキリストのみの知る聖なる秘密、救いの計画を達成させる奥義であったと見るべきである。神が目をつぶってしまわれたから、人間の最高の悪事が実行されたと見る見方は、まだ浅いのである。神は全部見ておられた。予見しておられた。むしろ、予め計画しておられた。
主イエスが、イスカリオテのユダの裏切りに関連して語っておられる箇所は、ヨハネ伝だけでも幾つかある。6章の70節で「あなた方12人を選んだのは私ではなかったか。それだのに、あなた方のうちの一人は悪魔である」と言われた。ここでは「滅びの子」と言わず、「悪魔」という言葉を使うことによって、主イエスは裏切りのことを予告しておられる。
12章4節に「弟子の一人でイエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが言った、『なぜ、この香油を300デナリに売って、貧しい人たちに施さなかったのか』………」。ここには福音書記者の見解が加わっているが、主イエスがユダのすることを全て知っておられたと読み取ることは容易であろう。
13章1節以下に、「過ぎ越しの祭りの前に、イエスはこの世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知り、世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された。夕食のとき、悪魔はすでにシモンの子、イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうとする思いを入れていたが、イエスは父が全てのものを自分の手にお与えになったこと、また、自分は神から出て来て、神に帰ろうとしていることを思い、うんうん」と弟子の足を洗いたもうた出来事を語っている。この時も、主イエスはユダのことを全て知り抜いておられる。
ユダの裏切りのことを最も劇的に描いているのは、13章の洗足の記事の続きである。その18節に「あなた方全部の者について、こう言っているのではない。私は自分が選んだ人たちを知っている。しかし、『私のパンを食べている者が私に向かってその踵を挙げた』とある聖書は成就されなければならない」。………これは今回学ぶ聖書の成就に直接関係する御言葉である。「私は自分が選んだ人たちを知っている」。その一人一人が何をしようとしているかを知っておられるのである。
更に、13章21節以下ではもっとハッキリして来て、「よくよくあなた方に言っておく、あなた方のうちの一人が私を裏切ろうとしている」と言われたのである。それが誰であるかと尋ねられた時、「私が一切れの食物を浸して与える者がそれである」と答え、食物の一切れをユダにお与えになった。その時にサタンがユダに入った。そして主イエスはユダに、「しようとしていることを今直ぐするが良い」と促したもうた。そうするとユダは出て行く。彼はもう迷いも躊躇いもなく、一目散に祭司長たちのところへ駆けていったのである。
31節ではさらにハッキリする。ユダが出て行くと、イエスは直ちに宣言された、「今や人の子は栄光を受けた。神もまた彼によって栄光をお受けになった」。これまで見て来た過程がキリストの栄光と、キリストの栄光による神の栄光を目指すものであったこともここで判然とするのである。そのように、17章12節の終わりの部分で確認すべきことは、13章の中で言われていた。
「聖書が成就するためであった」という御言葉は注意して読まなければならない。一つにはここに聖書というものをどう捉えるかの指針がここに含まれている。聖書の成就とは聖書の中にある預言の成就ととっても良いことは良いのだが、預言の成就だけでなく、聖書が成就すべきものであるとして捉えることが聖書の読み方として重要であるとここで教えられるのである。
確かに、旧約で約束されていたことはキリストの来臨によって成就した。しかし、それで聖書が用済みのものになったかと言うと、まだ成就されていない終わりのことが残っている。全ては終わりを目指して急いでいる。我々も終わりを目指して走る民として、いわば聖書の続きを走っている。
もう一つ、聖書の成就する焦点、また中心点がここにあると言っておられるのである。我々が今学んでいるのは聖書の中心点なのだ。キリストが肉体を纏って地上に下って、務めを果たしたもうたことが聖書全体の中心であり、成就であると教えられる。
13節に進む。「今、私はみもとに参ります。そして、世にいる間にこれらのことを語るのは、私の喜びが彼らのうちに満ち溢れるためであります」。
主がこの世を去って行こうとされる。これが弟子たちにとってはズッと心に引っかかることである。16章の最後で、最終的な励ましが与えられたのだが、その勝利にさらに勝利を上積みするのがこの御言葉である。
「今、私はみもとに参ります」とは、17章に入ってからズッと繰り返し語られたように、地上における務めの完遂されたことの喜ばしい報告、その結びである。4節で、「私は私にさせるためにお授けになった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を顕しました」言われた主旨が繰り返される。
地上ではなすべきことが終わったのである。だから天に帰る。天にはまだ仕事が残っているのか。「あなた方のために場所を用意しに行く」と14章2節言われたように、場所の用意という仕事がまだ残っていると言ってよい。しかし、これは比喩を借りた話し方であって、天の上で家を建てたり、掃除したりする必要があるかのように子供じみた空想をする必要はない。「私の父の家には住まいがたくさんある」と14章2節で言われた通りで、天上の住まいはすでにある。
住まいを用意しに行くとは、これから天上に場所を換えて、彼らの住まいを用意しなければならないというような意味ではない。そこに、主とともに住まうこと、それが如何に確かであるかを、比喩的に語りたもうたのである。
彼の務めは天上でも地上でも完了した。だから、マタイ伝の終わりでは、「私は天に置いても地においても一切の権威を授けられた」と宣言された。
「世にいる間にこれらのことを語るのは、私の喜びが彼らのうちに満ち溢れるためであります」。
私の喜びが彼らのうちに満ち溢れることによって、彼らは喜びにみちるのである。私の喜びが満ちると言うのである。彼らが喜ばしく生きると言っても変わらないように思われるかも知れないが、人の喜びは儚いものである。人々の持ち物が簡単に使い果たされたり、消え失せたりするのと同じく、人の喜びも一場の夢に過ぎない。
聖書には喜びという言葉が満ち満ちており、したがって教会には喜びという言葉が氾濫しており、それはしばしば薄っぺらな喜びに過ぎず、籾殻のように飛び去ってしまうものである。
確かな喜びとはどういうものか。それはキリストの喜びが私の内に移し植えられるという方式で、私のものになることである。そしてキリストの喜びとは、すでに見て来た通り、キリストが地上でその務めを果たし終えたもうたことそのものである。それは通常、我々の間では「十字架の勝利」と呼ばれるものである。十字架の勝利は、確実に我々の勝利となる。
その勝利を受け継いだことが、聖晩餐の中で祝われるのである。 目次