2003.11.23.

ヨハネ伝講解説教 第171回

――17:9-11によって――

 「私がお願いするのは、この世のためではなく、あなたが私に賜わった者たちのためです」と主イエスは祈られた。これは、自分の身内のためだけを思うのか、と疑う人がいるかも知れないが、それは正しくない。「世」という言葉について、また、それとキリストの民と世との関係について、しばらく見ておきたい
 「世」というものについて、我々が心に刻んでおかねばならない一つの御言葉は、有名な3章16節である。「神はその独り子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。(途中省略して)神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によってこの世が救われるためである」
 神は世を愛したもうた。それでは、御子は世の救われるために祈るべきではないか。世のためには祈らないと言われるのは、矛盾しているではないか
 そうではない。誤解がないように、ここでシッカリと見ておかなければならないのは、この「世」と、神がこの世から選んで御子に賜わった者とが、ことごとに対立しているという側面である。15章19節で弟子に言われたが、「もしあなた方がこの世から出たものであったなら、この世はあなた方を自分のものとして愛したであろう。しかし、あなた方はこの世のものではない。かえって私があなた方をこの世から選び出したのである。だから、この世はあなた方を憎むのである」
 この世は、神の選びたもうた者らを躓かせ、また滅ぼそうとしている。キリストの民はこの世に対して対立はしても、攻撃することはない。しかし、この世はキリストの民に襲い掛かって、滅ぼそうとする。丁度、狼が羊の群れを見かけたなら、これを食いつくす他ないように、世は選びの民を滅ぼし尽くそうとする。だから、世の襲撃に曝されるキリストの民のためにキリストは祈りたもう
 「選ばれた者である以上、滅びることはあり得ないではないか」。「こののちどうなるかは、摂理によって決まっているではないか。救われるに決まっている者のために祈る必要はないではないか」。――なるほど、結果から言うならば、決まっているのである。結果にいたるさまざまの道程を無視すればそうなのだ。神の摂理に対する信頼は欠かすことが出来ない。しかし、最終結果に至るまでの現実に関しては、これを無視して良い面と、無視すべきでない面がある
 神の選びは確かであって、計画通りになる、と確信することは全く正しいし、必要である。ではあるが、結末に至るまでの日々の生活の現実は、あってもなくても、良くても悪くても同じの、無意味なことなのか。それは仮の世に起こる幻と同じ、架空のことと殆ど違わないもの、目を瞑っている間に通り過ぎて行くものであろうか
 信仰というものは、そのように、目を瞑って、「心ここになし」という態度で生き、かの世に至ってこそ本当の目覚めが起こる。それをひたすら待つ、ということなのか。――そのように考えて、この世のことにはホドホドに、不真面目に対応し、そこから身を引いた生き方をすることなのか。もしそうなら、我々に与えられている聖書の教えの大部分は、無意味な付け足しの言葉になってしまうであろう
 しかし、相手は偽りの世であるから、我々も偽りの姿勢をもって対応すべきだ、ということではいけない。我々は真実であり続け、語った言葉を守らなければならない。イエス・キリストはこの世に対して常に真実であられる。IIテモテ2章13節が、「たとい私たちは不真実であっても、彼は常に真実である。彼は自分を偽ることが出来ないのである」と言うとおりである。我々もそのように生きなければならない
 「この世にある間は仮の世と思え」と教える教師がいる。キリスト教の外にいるだけでなく、キリスト教の中にもいる。彼らは、キリストの民は、この世とまともにかかずらうなと教える
 なるほど、我々は弱いから、まともに取り組んだなら、この世の悪巧みと力とによって一たまりもなくポキリと折れてしまうかも知れない。だから、柳に風と受け流すべきだ、と教える人が出て来る
 それは明らかに不誠実である。それなら、世と取り組まなければならないのであるが、その際、何でもない相手であると思ってはならない。実に手強いのである。主は「我らを試みに遭わせず、悪より守りたまえ」と祈るように命じたもうたのであるから、その通り祈らなければならない。主御自身も我々のために祈りたもうのである
 14節に、「私が世のものでないように、彼らも世のものでない」と語られるが、そのように、確かに、この世は我々の国ではない。ハッキリ言って、この世は居心地が悪いのである。生きてこの世で苦労するよりは、命が短くされる方が好ましい。パウロがピリピ書1章23節で、「私の願いを言えば、この世を去ってキリストと共にいることであり、実は、その方が遥かに望ましい」と言う通りである。「しかし」、と彼は続ける、「肉体に留まっていることは、あなたがたのためには、さらに必要である」。楽にしようとすれば、世を去るのが良い。しかし、課題が残っているなら、世に留まらなければならない。主が我々の任務の終わったのを知って、この世から取り去りたもう場合はそれに従うのである
 我々の任務が果たされたのか、まだ残っているのか、その判定は自分ではつけにくい。だから、地上に置かれている限りは、使命があり、意味がある、と考えて励まなければならない。意味が分からないなら、意味を見出すようにしなければならない
 主イエスも、後で15節で学ぶように、「私がお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、彼らを悪しき者から守って下さることであります」と言われる。この世から取り去って、煩わしさのない彼方に移されることは、望ましいかも知れないが、彼らにはまだこの世における務めがある。だから、ここに留まって、務めを果たすことが出来るように、この世において悪から守られねばならない
 この世それ自体に意義があるかのように深入りしてはならない。Iコリント7章31節が教える通りである。しかし、この世で我々が受けなければならない様々の苦難、これが無意味であると見ることは許されていない
 今聞いているのは、苦痛に満ちたようにしか見えないとしても、この世にいることには意義があるのだから、頑張らなければならないという教訓、あるいは激励ではない。苦痛の中にいる人に我々の励ましが幾らかの励ましになることは事実であろう。しかし、今日与えられている聖句の主旨は、そういうところにあるのではない。キリストに属する民が頑張らなくても良いということではないが、彼らが何をしなければならないかではなく、イエス・キリストが彼らのために祈りたもうということを学ぶのである
 すでに何度も繰り返し学んだが、「私が天から下って来たのは、自分の心のままを行なうためではなく、私を遣わされた方の御心を行なうためである。私を遣わされた方の御心は、私に与えて下さった者を、私が一人も失なわずに、終わりの日に甦らせることである」と6章38節で主は言われる。父なら神が御自身の民を世から選び、彼らの救いの完成を、御子に託したもう。これが御子イエスに課せられた務めである。その為に彼は彼らのことを祈りたもう
 その者は「あなたが私に賜わった者」であり、賜わったのであるから私に所有が移った。しかし、最早父に属さないというのではなく、「私のものは皆あなたのもの、あなたのものは私のもの」といわれる関係がずっと続くのである
 「あなたのものは私のもの。私のものはあなたのもの」と言われるのは、単なる言葉の入れ替えでない。またこれは混然となっているという意味ではない。すぐ後に、11節で「私たちが一つであるように」という言葉を学ぶのであるが、「私たち」とは父と子である。御父と御子が一つであるということは、この福音書の中でしばしば語られ、それを把握することが救いへの道そのものであるかのように教えられている
 私たちが一つであるから、私のものは父のもの、父のものは私のものであって当然であるが、その一体性は、本質が一つであるということと説明して良いのであるが、救いの目的に向けて一線をなして働くところにある、という理解に重点を置いた方が適切ではないかと思う
 さて、「彼らによって私は栄光を受けました」と言われるが、栄光を受けたとは、具体的にはどのことを指したのであろうか
 これは17章の初めで言われたのと同じことを指すと思われる。そこに言われる栄光とは、救い主の務めを完遂した栄光である。彼らによって栄光を受けたとは、彼らが何か積極的な業をしてそうなったということではなく、彼らのための救いの業が成し遂げられたことによって栄光が現れたという意味である
 4節で、「私は私にさせるためにお授けになった業をなし遂げて、地上であなたの栄光を顕しました」と言われたが、内容的には、「私は彼らによって栄光を受けた」ということと重なるのである。したがって、別々のものとして切り離さずに把握することが重要であろう
 そこで「成し遂げた」と言われる務めは、十字架の贖いの死である。その死の時刻まではまだ半日ほど時間がある。けれども、もう逆転は起こらないで、まっしぐらに十字架を目指して万事は進んで行く。これを「栄光を受けた」と言われたのは決して早まった言い方ではない
 主は13章19節で、「そのことがまだ起こらない今のうちに、あなた方に言っておく。いよいよ事が起こった時、私がそれであることを、あなた方が信じるためである」と語りたもうた。「私がそれであると知る」とは、彼が約束のメシヤであることを知り、それを知ることが御子の栄光を顕すことであるという意味である
 ここで我々が注意を促されるのは、この段階で弟子たちは主に栄光を帰すべきであり、我々もまた、ここに主の栄光を見なければならないということである
 11節に入って行こう。「私はもうこの世にはいなくなりますが、彼らはこの世に残っており、私はみもとに参ります。聖なる父よ、私に賜わった御名によって彼らを守って下さい。それは、私たちが一つであるように、彼らも一つになるためであります」
 この節の御言葉には、幾つもの要素が重なって含められているから、一つ一つ分けて読み取ることが理解に役立つ。第一は、私が地上にいなくなった後、彼らが孤児としてこの世に取り残されて、孤立無援の戦いをすることにならないように、この世の攻撃から彼らを守って下さい、という願いがある
 「私はあなた方を捨てて孤児とはしない」とは、14章18節の言葉である。ここでは、孤児としない、とは、直ぐ続けて言われるように、しばらくすれば、あなた方の所に帰って来るからである。だから、さらに続いて言われるように、「その日には、私は私の父におり、あなた方は私におり、また、私があなた方におることが分かるだろう」と予告しておられる。私はいなくなる。私は父のみもとに行く。しかも、私はあなた方と一緒にいる、と言われる
 キリストは去って行かれるが、また来られるし、その時は御父もともにおれられる。さらに、助け主、御霊が加わって来る
 第二に、彼らが地上に残る意味を考えねばならない。彼らが残るのは、主とともにあるその日まで置き去りにされて、待たされるということか。そういう意味もないとは言えないが、ここでは主として世に遣わされるという意味がある。18節には、「あなたが私を世に遣わされたように、私も彼らを世に遣わしました」と言われる。世にあるとは、主として遣わされているという意味に取らなければならない
 第三に、私に賜わった御名によって彼らを守る、ということが語られる。それは、次の節に、「私が彼らと一緒にいた間は、あなたから頂いた御名によって彼らを守りまた保護して参りました」と言われるところによって解釈が助けられる。すなわち、私が一緒にいた間は、私に賜わった御名によって、彼らを守って来ましたが、私がいなくなっても、いた時と同じように、私の持っていた、私に賜わった、その御名によって、彼らを守って下さいという意味である
 御名によって守るとは、神としての力を賜っていたから、その効力によって守る、したがってその守りは絶対に安全であった、という意味である。では、御子が一緒におられた間、どのようにして守ったのか。弟子たちはそれを幾らも体験していた。彼は嵐の海の上で守りたもうた。パンがなくなった時も彼らを飢えさせることはなかった。病にも、悪霊にたいしても、彼らを保護したもうた。「彼らのうち誰も滅びず、ただ滅びの子だけが滅びました」と12節で言われる通りである。「滅びの子だけが滅びた」ということについては、次回に学ぶことにする
 12人の者が、キリストのものとなるために父によって世から選ばれており、それらがキリストのものとされて以来、さまざまの試錬があった。しかし、御子はそれを守り通された。滅びた者はいたが、滅ぶべき者として選ばれていたのである
 そのように、これからも彼らは地上の使命が終わる日まで、あらゆる点において守られるのである
 次に、彼らが守られるのは、「私たちが一つであるように、彼らも一つになるため」と言われる。この言葉は22節でも繰り返される。「一つになる」というのと意味の上で似ているのは、「互いに愛し合う」ことである。キリストによる新しい戒めとして提示されたのがこのことであった。父と子の関係も愛しあう関係である
 一つとなることと、互いに愛し合うことは同じ主旨とみて良いのであるが、「一つとなる」という言い方の方がもっと深みと力がある。父なる神と子なる神とが愛をもって向かい合っているだけでなく、一つであり、本質をも一つにするほどに一つになる。そして、一つの目的に向けて共に働く
 そのように弟子たちも、これから一つの使命に生きるのである。互いに愛し合うことは、一つになることを目指すのである
       

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