2003.11.16.ヨハネ伝講解説教 第170回
――17:6-8によって――
主イエスは全ての教えを語り終えて、まさに世を去ろうとする時、弟子たちのために祈っておられる。この祈りは、主が弟子たちに与えるべき教えを、余すところなく与えたことを確認して父に栄光を帰したものである。
余すところなく教えたもうたと言ったが、この後、約束された聖霊がくだる時、それまで弟子たちに分かっていなかったことが分かり、それまでなかった賜物が備わるようになるのではないか。これは大きい変化と言うべきであろう。ではあるが、約束の聖霊が下るとは、すでに確かであったことが、その通り確かになったということを明らかにしたまでであって、これまでのことと断絶した全く新しい出来事が始まるのではない。
御霊が下る時、御霊はこれまで私が教えておいた一切のことを「思い起こさせるのだ」と主イエスは14章26節で言われる。そのように、御霊が来るとき、聞いたこともない新しい教えが与えられるのでない。すでに与えられていたものの再確認がある。
御霊は、世の初めから、常に、自由に、働いておられるのであるが、我々は御霊について理解する時、特に、御子がこの世に来て果たしたもうた御業との関連をシッカリ把握すべきである。御霊は御子が「遣わす」と言われるものであり、御子がそのしばらく前までこの世でなしたもうた業、語りたもうた御言葉との関連を無視してはならない。
キリストは、地上でなすべき御業を完結させたもうた。我々はそれを十分に確認しなければならない。これまでに教えられた中に全然なかったこと、もっと高い段階のことがやがて始まると思ってはならない。基礎がまだ据えられず、万事が将来に懸かっており、緊張をもって待ち望むべきであって、主イエスはそれを予告したもうただけであると理解しては間違いである。そういうことでは確かさがない。
まだ見ないことに「期待して」、いわば「賭ける」ようにして生きるのが、我々の信仰的な生き方だと説明することは、必ずしも間違いではない。けれども、「期待」と言うだけでは、確かさが何もない場合が多いのではないか。期待を持って生涯を一生懸命に生き、見事に生き抜いたけれども、期待したことは何も獲得出来なかった、という場合がある。それでもすがすがしく生き抜いた生き方を、立派だと褒めてくれる人は、余りいないとしても、本人は満足し、地上ではとても成功者とは言えないが、充実感は大きいのだと誇りを持っている場合がある。
今、現に世界のあちこちで起こっていることだが、「あなたの体に爆弾をくくりつけて、何事もないかのような顔をし、人混みの中に入って行って、そこで爆死しなさい。あなたの犠牲的行為には大きい祝福が報いられる」。そのように教えられたことを疑わず受け入れて、自分を殺し、関係のない人々を大量に殺す。それが、ある人々の間では崇高な美談とされる。本人も自己陶酔する。こういうことが何時の時代にもあるが、行く道が塞がっていると感じないではおられない時代には、将来に賭ける決断をすることが貴いと考えられやすい。
そのような生き方をした人は、全く空しい生を生きたのだと言うのは、なかなか言いにくいことかも知れない。「もっと下らない、自己中心の、享楽的な生き方を求めている人が多い時代の中で、自己犠牲に徹した歩みを貫いたことは、すがすがしい生き方であったと褒められて良いのではないか」と、このような自爆を批判する我々は、世の人の非難に会う。しかし、空しいものは空しいのである。空しいことは空しい、と言い切れるだけの確信をキリスト者は持っている。
その確信は何に基づくのか。キリストがすでに来られ、すでに我々の救いのために必要なことを悉く果たしたまい、その勝利の確認が出来ているから、我々はやがて起こるべきことに賭けて生きるのでなく、すでに起こったこと、「私はすでに世に勝っている」と明言したもうた方の御業に基礎を置いて、揺るがずに立つことが出来るのである。
「やがて誰かが来る。やがて何かが始まる」という期待ではない。そういう期待なら、歴史上実例が沢山見られるように、幾らでも思い付きで創作できるではないか。それに引き替え、「キリストが来られる」ということが確かな確信であるのは、そのお方がすでに一たび来られたお方であり、一たび来られたから我々は彼を知っており、さらに理解しているからである。いや愛しているからである。雲をつかむように、何かが来る、という期待に胸躍らせているのではない。
「一たび来られた」ということは、来て、なすべきことを果たしたという意味である。この世に来た、どこかのお伽話の主人公のように、幻影が通り過ぎたように、素通りして行かれたのではない。足跡だけを残されたというのでもない。我々の贖いの業を完了されたのである。それは一たび確立した。そういうことだから、今日我々がヨハネ伝17章で学んでいることは重要なのである。
キリストが来られることを強調し、そのことに心燃えるのは良いとして、かつて彼が来られた時になされた御業について余りにも無関心で、余りにも貧弱な確認しかしていない人があるとすれば、それは全く問題である。
さて、今日読む箇所では、キリストと弟子との関係について教えられる。この関係は殆どそのまま、キリストと我々、またキリストと私、の関係に置き換えて良い。この弟子というのは限られた12人という数であったが、彼らはいわばモデル、あるいは商品見本のように、我々においてあるべきことを示すために立てられた。
6節で主イエスは前から続いて、父に祈って言われる。「私は、あなたが世から選んで私に賜わった人々に。御名を顕しました。彼らはあなたのものでありましたが、私に下さいました。そして、彼らはあなたの言葉を守りました」。
「御名を顕す」という言い方は聖書に余り出て来ない。しかし、非常に難しい言い表わしだと思う人もいないであろう。先に、4節で、「私は、私にさせるためにお授けになった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を顕しました」と言われたが、「栄光を顕す」ことと「御名を顕す」こととは、ほぼ同じ意味と見て良いであろう。すなわち、御子は地上に遣わされて、遣わしたもうた父の名によって業を行ない、御名の栄光を顕されたという意味である。
これは地上における御自身の働きを総括された言葉である。彼は大いなる業をなしたもうたのであるが、8章50節で、「私は自分の栄光を求めてはいない」と言われたし、直ぐ後の54節で、「私がもし自分に栄光を帰するなら、私の栄光は空しいものである」と言われた。そのように父の栄光を顕したから、真にこれを理解した人たちは、主イエスが父なる神から遣わされた方であることを悟った。
次に、「父が世から選ばれた人々」これを、「私に賜わった人」と呼びたもう。その人たちは、「父のものであったのを、私のものとされた」と言われる。先ず、父が選ばれたと言われるので、「選び」ということを見なければならない。
弟子たちは、もともとキリストとの関係を持っていなかった。彼らの多くはバプテスマのヨハネの弟子であったが、ヨハネに促されてイエスの後について行っただけであった。彼らは殆どガリラヤ人であったから、ナザレ出身のイエスと何かの関係を持つ人はいたかも知れない。例えば、ゼベダイの子のヨハネはそうであったに違いないと考えることは出来る。しかし、そのことが事実であったとしても、彼らがイエスを知っていたから、彼らの方でイエスを選んで、自分の主とした、ということではなかった。それはヨハネ伝の初めから読んで来て、我々が気付いていることである。どの場合にも主イエスが先に、「私について来なさい」と言われた。
弟子たち一人一人の経歴を探って、彼らがどういう経緯でキリストの弟子になったかを考えてみることは興味深い学びである。けれども、15章16節で聞いたように、「あなた方が私を選んだのではない。私があなた方を選んだのである」と主イエスは言われたのである。他にも6章70節に、同じ主旨の言葉が語られているが、このお言葉ですべて全て決着する。
弟子たちは、自分の判断、自分の選択によってキリストの弟子になったのではない。イスカリオテのユダの場合はどうだったか。彼は自分で選んで、これこそ約束された救い主であり、また私の人生を託すべき主である、と判断したから、ついていったのではなかったのか。そして、ユダはナザレのイエスが自分の期待したところと違ったから、離れて行ったのではないか。――そう考える人が多いかも知れないが、主が6章70節で、「あなた方12人を選んだのは私ではなかったか。それだのに、あなた方のうちの一人は悪魔である」と言われたところで、主が十分承知して12人の中に悪魔的な弟子を選んでおかれたことが明らかである。
今、キリストによる選びということを見たのであるが、今日の所では、これと併せて、父なる神による選びを学ばなければならない。「あなたが世から選んで私に賜わった人々」と言われる。父による選びと、子による選びは合体する。
父は先ず「世から」御自身に属する者を選び出したもう。したがって、彼らは世にいるのであるが、世のものではない。ただし、世から分け置かれたけれども、分け置かれていることすら明らかに自覚してはいない。だが、それがキリストの主権のもとに移管されるとき、キリストの主権は隠れることがないから、キリストの主権に従っていることは人々の前にも明らかになる。
「選び」という言葉に躓く人が多いと言われている。そういう事実はあるかも知れない。そこで、「選び」という言葉を避けようとして、確信をもって断定しない教え方をする人が出て来る。そのために、その頼りなさ、確信のなさに躓く人が出て来るという一面もある。しかし、「選び」は聖書から与えられる救いの言葉であって、この言葉を神から差し向けられた人は、これを選ばれた者に対する救いの言葉として、ためらいなしに聞き取るのである。
今日の学びで大事なのは、「選び」という言葉を使うか使わないかでなく、選びがどのようにして救いの完成に繋がるかということである。簡単に言うならば、父がご自分の民として選んでおかれた者らの救いの完成を、御子に委ねられたということである。
救いの完成者としてのイエス・キリストの位置を見落として、あるいは軽く見て、神によって選ばれたのだから救われるのが当たり前、と理解しているとすれば、余りに意味のない理解であって、決まっていたことだから決まった通りだ、というだけの屁理屈である。それは運命論と同じになってしまうのではないだろうか。
エペソ書1章4-5節に、「御前に潔く傷のない者となるように、天地の造られる前からキリストにあって私たちを選び、私たちにイエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨の宜しとするところに従い、愛のうちに予め定めて下さった」と言うが、ヨハネ伝で今学んでいるのと言葉は同じではないが、共通した方向を指している。「キリストにおいて選ぶ」ということには、「キリストも選びたもう」という意味を含むが、選ばれた者の救いにキリストが決定的な位置を占めておられる、という意味がある。
キリストが選びに関与しておられるというのも、先に15章16節で見た通り、重要点であるが、これは。あなた方が自分で選んだのではない、あなた方ではなく私が選んだ、というところに力点がある言い方である。今回はそれと違った点が強調される。父が選び、それを子が引き受けて救いを全うするのである。
「父が世から選んで子に賜わった人々」というふうに言われている。前回、17章2節で見た通り、「子に賜わった全ての者に永遠の命を授けさせるため、万民を支配する権威を子にお与えになった」のであり、そのことをもとにして、選び置かれた者らが、御子の主権のもとに移管されたと言われるのである。「彼らはあなたのものでありましたが、私に下さいました」と言われるのも同じ主旨である。
6章44節で「私を遣わされた父が引き寄せて下さらなければ、誰も私に来ることは出来ない」と言われたのも同じ意味になる。
「そして、彼らはあなたの言葉を守りました」。――世から選ばれていたからといって、初めから神の言葉を守っていたわけではない。キリストの支配のもとに移されたので、神の言葉を守る者となったのである。すなわち、キリストを通して教えられたので、神の言葉を理解することが出来、したがってこれを守ることが出来た。そのことが、以下の節においてさらに明らかになって来る。
「今、彼らは、私に賜わったものは全て、あなたから出たものであることを知りました。なぜなら、私はあなたから頂いた言葉を彼らに与え、そして彼らはそれを受け、私があなたから出た者であることを本当に知り、また、あなたが私を遣わされたことを信じるに至ったからです」。
「今、彼らは知りました」と言われる。キリストの務めが完了したので、弟子たちはようやくにして、主が神から出たお方であると分かったのである。これは先に16章30節で、弟子たちが「今わかりました」と答えたのと符合する。ただし、彼らは分かったと言ったが、本当は分かっていない。それでも、教えるべきことはみな教えられたのだから、彼らは知ったのである。
「私に賜わったものは全て、あなたから出たものであると、彼らは今にしてようやく知った」と言われる。この「私に賜わったもの」とは何か。私に賜わった物、私に賜わった人の全てを含む。その第一として、賜わった言葉がある。キリストの言葉は神についての言葉でなく、神から来た言葉、神の言葉である。次に、キリストの業、その業をなす能力、主権、その業に現れる栄光。すべて神から出たもので、神そのものの栄光の反映である栄光である。さらにもう一つ、キリストに賜わったものとして、キリストの民となった人々のこともここで意味されているのではないか。「彼らは、あなたのものでありましたが、私に下さいました」と6節で語られたばかりである。
次に「なぜなら、私はあなたから頂いた言葉を彼らに与え、そして彼らはそれを受け、私があなたから出たものであることを本当に知り、また、あなたが私を遣わされたことを信じるに至ったからです」と言われる。
これはキリストの弟子教育が「言葉」によってなされたことを言ったものである。ここに用いられる言葉という語は、多く用いられる「ロゴス」ではなく「レーマ」であるが、今はその違いを論じるには及ばない。弟子たちはいろいろなことを見、経験して、わかるに至ったのではない。言葉によって知ったのである。そこで、我々も言葉によって悟りを開くべきことが示されるのである。
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