2003.11.09.ヨハネ伝講解説教 第169回
――17:1-5によって――
「これらのことを語り終えると、イエスは天を見上げて言われた」。これらのこと、というのは、13章から16章に亘って述べられたことである。弟子たちに向かって教えておられた主イエス・キリストは、教えるべきことを全て語り終え、今や、目を天に向け、天にいます父に向かって呼び掛けたもう。したがって、今日我々の聞く御言葉は、御子と御父の間の言葉であると受け取らなければならない。それは声高く祈りたもうたので、弟子たちの耳にもハッキリ聞こえたのであるが、弟子たちに聞かせることを目的としたものではない。弟子たちへの言葉はすでに終わっているのである。父なる神と子なる神との交わりがあり、我々はそれを洩れ聞いているのである。おこぼれに与っている。
ここから教えを聞かなければならないことは確かである。御父に向かってキリストが語られる言葉の全てが、我々にとっては救いに関わる教理である。しかも、非常に重要な教理である。ではあるが、本来、天に向かって発せられた内々の言葉が、洩れて来て、我々にとっての救いの教理という働きをするのである。
そのことを別の言葉で言い直すならば、主は弟子たちに語り終えて、父に御自身の務めの終わったことを報告し、復命しておられる。それは、地上に遣わされたお方による地上からの復命である。「天を見上げて」とは、そういう意味である。したがって、ここを我々は確認するのであるが、我々も目を天に挙げて、神を崇めなければならない。
主は言われる、「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を顕すように、子の栄光を顕してください」。
「時が来た」。これは報告というよりは宣言に近い。時が来たことは、御子が報告しなくても父は知っておられる。これは、時が来たことを、父と子がともに確認しているのである。しかも、勝利の意味を含めた確認である。「ああ、どうしよう。時が来てしまった。この世の君が来る。もう時間がない」。そのような心細さを含んだ報告であると見るべきではない。時を他の者に握られている人が、嘆きをこめて語る言葉ではない。そうでなくて、時を支配する方、歴史の支配者の勝利宣言である。
前回、「私はすでに世に勝った」との宣言を聞いたが、これは勝利宣言であった。すなわち、まだ戦いの途中だけれども、勝利者であるかのごとく、胸を張って語るというのではなく、ずーっと戦って来て、今や勝利した、との宣言なのである。苦しい戦いの中にあり、しかし勝利は約束され、その約束は全く確かであるから、戦いは終わっていないけれども、いや、負けているように見えさえするが、まるで勝利者のように振る舞う、それは我々に許された行動であるが、キリストの場合はそれとは違う。彼は「すでに世に勝った」と言われる。
その宣言に至るまでの戦いの日々があったことは当然である。我々には気がつかなかったのであるが、勝利宣言に至るまでは、戦いであった事情を弁えていなければならない。12章27節が伝える、「今、私の心は騒いでいる。父よ、この時から私をお救い下さい。しかし、私はこのために、この時に至ったのです」。この呻きは戦いの中で発せられたものである。こういう苦しい戦いを経て、勝利に至ったのである。その勝利宣言と、今聞く「時が来た」という宣言を重ね合わせて理解しなければならない。
いや、もっと積極的に受け止めるべきであろう。「時が来た」とは、これまで隠されていたキリストの支配したもう時が始まり、その支配を阻むこの世の力は、挫かれとの宣言である。
これはまた、御子の栄光の現れる時である。我々は12章29節を思い起こす。主イエスが「父よ、み名が崇められますように」と祈られた時、天から応答があった。「私はすでに栄光を顕した。そして、さらにそれを顕すであろう」。これは雷のような大音響によって答えられたものである。「御名が崇められますように」という言葉は、「主の祈り」がこうなっているのに合わせた訳文であるが、「御名の栄光が現れるように」と訳した方が続く言葉との整合性がある。「あなたの御名の栄光が現れますように」、と祈られたのに答えて、「すでに私の名の栄光を顕した」と天から答えられた。このところで言われたのは父の栄光である。御子の栄光ではない。
今回のところでは、「あなたの子があなたの栄光を顕すように、子の栄光を顕して下さい」と言われた。御子は、これまでズッと父の栄光を顕して来られた。それは主に奇跡によって栄光を顕すという方法であった。2章11節にこう言われる、「イエスはこの最初のしるしをガリラヤのカナで行ない、その栄光を顕された。そして弟子たちはイエスを信じた」。この記事が言うように、キリストはその時以来、神から遣わされた者の栄光を顕して来られた。
総括的に言うならば、1章14節で、「言葉は肉体となり、私たちの内に宿った。私たちはその栄光を見た」ということになる。
しかし、決定的な意味の出来事としては、キリストはまだ栄光を受けておられなかったと理解しなければならない。これは7章39節で、「イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊がまだ下っていなかったのである」と書かれている通りである。
すでに、栄光を受けたもうたのではないか、と思われる点も確かにあった。13章31節で読んだが、「ユダが出て行くと、イエスは言われた、『今や人の子は栄光を受けた。神もまた彼によって栄光をお受けになった。彼によって栄光をお受けになったのなら、神御自身も彼に栄光をお授けになるであろう。すぐにもお授けになるであろう』」とある。それによると、もう受けられたのではないのか。
この箇所で「栄光を受けた」と言われたのは、その直ぐ後で「すぐにもお授けになるであろう」と言われたその意味である。ユダが部屋から出て行った。裏切りの行動を始めた。キリストが裏切られて人に捨てられ、殺される仕組みの動きが始まった。もう後戻りは出来ない。ユダとしても立ち止まって考え直す余地はなくなった。
したがって、13章で「今や人の子は栄光を受けた」と言われたことと、今日のところで、「子の栄光を顕してください」と言われるのと、少しも矛盾はない。
これまで御子は父から遣わされた者の務めとして、遣わした方のみこころを行ない、栄光を顕して来られた。今や遣わした方の栄光の現われは最高潮に達した。今度は、そのように遣わした方の意向によく従って、栄光を顕した者に、その者の栄光を顕す時になったのである。
では、子の栄光を顕すとは、どうすることか。御子が栄光を受けることとして、これまで2種類のことが語られた。一つは、カナの奇跡のところで示されたものである。力ある業を示すことによって、人々は賛嘆した。そこに御自身の栄光を顕したもうた。
第二に、ラザロの復活の奇跡のところで見たことである。その出来事の初めの所で、主は言われた。「この病気は死に至るものではない。それは神の栄光のため、また、神の子がそれによって栄光を受けるためである」。
ラザロの事件は、キリストの復活を予告する、前にも後にも同類の出来事のなかった特別なしるしである。ラザロは生き返ったとはいえ、永遠に生きたのではなく、しるしとして暫くの間生きたに過ぎないが、それでも、これは葡萄酒を溢れさせたり、パンを夥しい群衆に食べさせたもうたこととは違った奇跡であって、イエスを遣わした御父の栄光が現われ、御子自身の栄光も現われた。
しかし、時が来て顕される御子の栄光は、先の二種類のものとは違う。その栄光の中味を言うのが、2節である。
「あなたは、子に賜わった全ての者に、永遠の命を授けさせるため、万民を支配する権威を子にお与えになったのですから」。
すなわち、こういうわけだから子に栄光を与えて下さい、と言われたのであるが、栄光を与えるとは、キリストに属する民にキリストが永遠の命を授けるようにと、キリストに万物を支配する主権を授け、「主」という名で呼ぶようにして下さい、という意味である。これは、ピリピ書2章で、「己れを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、全ての名に優る名を彼に賜わった。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものが膝を屈め、また、あらゆる舌が『イエス・キリストは主である』と告白して、栄光を父なる神に帰するためである」と讃美されているとおりである。全てに優る名とは主という名である。
ピリピ書でも言われた通り、「死に至るまで、十字架の死に至るまで、服従を全うされた」。故に、栄光を賜ったのである。今がその時であると言うのは、服従を全うして、服従の極限まで来られたからである。
それは。4節に「私は、私にさせるためにお授けになった業をなし遂げて、地上であなたの栄光を顕しました」と言われる。だから、今、私に栄光を与えて下さい、と言われるのである。
時が来たから、大転換が起こる。それも所定の時刻になったからというのではない。果たすべきことが一つ一つ果たされたから、服従が全うされたから、というのである。では、どれだけやれば良かったのか。その分量を言い表すことは殆ど不可能である。しかし、このことは言えるであろう。罪を償うためには、一定量以上の償いをしなければならないことは誰にも分かるはずである。100町歩借りた人が50町歩だけ返して、残りは返したものと認めてくれと言っても、通らない。
不従順によって犯された罪は従順によってのみ償われる。それはどれだけでなければならなかったのか。我々に言えるのは、死に至るまでの服従であるということである。死に至るまで、とは一つには時間的な長さを言う。死ぬまでズッとである。もう一つ、限度まで、極みまでという意味である。彼は義なるお方であるから、御自身の義によって世の罪をいとも簡単に支払いたもうた、と言えそうに思われるかも知れないが、罪の大きさを安易に考えてはならない。キリストは極限まで戦いたもうた。これが果たされて、罪は飲み干されたのだ。
キリストはこれまで隠れて歩むと言ってよいほど、隠された方であった。勿論、弟子たちは彼のことを「主」と呼んだようだが、これは従う者の捧げる敬語である。もろもろの名に優る名という意味の称号ではない。彼は単にナザレのイエス、ナザレ人イエスであった。それ以上でも、それ以下でもなかった。
しかし、今からは主なるイエス・キリストと呼ばれる。人々は彼の栄光を仰がなければならない。信じない人には問題にされない。せいぜい、一世を揺り動かしたが、今や過去の人である。けれども、信じる者にとっては、栄光の主であり、世界の主、信ずる者だけでなく、信じない者も、すべてを支配する主であり、人々から栄光を帰せられたもうお方である。
では、すべてのものにまさる名を賜わる、謂わば戴冠式のような式典はあったのか。それはなかった。人の見ている所で行われる儀式によってではなく、事実として、彼は救い主としての栄光を受けたもうた。どういう事実か。それは十字架の死と復活の事実である。さらに言うならば、彼の死は死だけで栄光であると捉えなければならない。死が逆転して復活とならなければ栄光でないと見てはならない。
キリストの栄光は、目に見える輝きが付加されることではなかった。時が来て彼に与えられたのは、称号でもない。救い主としての内実である。その内実は今まで覆われていたのであるが、今や明らかにされた。「父よ、世が造られる前に、私がみそばで持っていた栄光で、今み前に私を輝かせて下さい」と言われるのはその意味である。
神は御子に属すべき者を選び、それを御子の者として授けたもうた。主という名は単に主権、支配権を持ち、服従させるというだけの意味ではない。主とは端的に言って「救い主」である。
これまで人々は主イエスが、病を癒し、飢えた者にパンを与えたもうのを見た時、これを主として受け入れねばならないと思ったのであるが、彼らの考えた主とは、地上的な王に過ぎなかったことを6章15節で読んだ。彼らは朽ちる食物のことしか考えない。だから、パンを与えてくれる人を慕って来るが、救い主を慕い求めて来ることはなかった。
「私を遣わされた方の御心は、私に与えて下さった者を、私が一人も失なわずに、終わりの日に甦らせることである」と言われる。また続けて、「私の父の御心は、子を見て信じる者が、悉く永遠の命を得ることなのである。そして、私はその人々を終わりの日に甦らせるであろう」と言われた。
漠然とした、また表面的な観察によって「主」と見ただけであれば、集まった者らはやがて散ってしまうであろう。だが、主とその民との関係は永続するのである。キリストに来た者はそこにおり続ける。キリストもまた離れたまわない。
「父が私に与えて下さる者は、みな私に来るであろう。そして、私に来る者を決して拒みはしない」。父が引き寄せたもうという面もあり、御子が尋ね出して引き寄せるという面もある。御子に属するものとなったからといって、続々と御子のもとに集まるわけではない。しかし、とにかく、御子はその一人も失なわず、甦りを与えたもう。
さて、3節に「永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたが遣わされたイエス・キリストとを知ることであります」と言われる。これはキリストから父に捧げられる言葉であるが、その言葉が我々にも洩れ聞こえて来て、それが我々の救いの教理として働く、と先に見たがこれはまさにこのような言葉である。
永遠の生命とは………を知ることである、という言い方に不審な感じを持つ人がいるであろう。そういう人は雑ぜっ返すのでなく、「知ることが命」という意味の深さを時間を掛けて考えて見たがよい。しかし、難しく考えることは要らない。考えて考えて、やっと深い境地に到達するというのでなく、知らせられることを知る。そうすれば救いに入る。これが救いに入る道なのである。では、何を知るように差し出されるのか。唯一の真の神、また神の遣わされたイエス・キリストである。その二点か。実は一点である。14章9節でピリポに言われたように、私を見た物は父を見た。したがって、御子を知った物は御子を遣わされた父を知ったのである。
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