2003.10.19.

ヨハネ伝講解説教 第167回

――16:25-30によって――

 今日学ぼうとするところは、一見して混乱し錯綜した、難しい箇所のように思われる。しかし、順序立てて御言葉を聞きとるならば、明快な教えである。
 主は、「私があからさまに、あなた方に、父のことを語る時が来る」という御言葉を中心主題に据えておられる。そして、その中心主題に当然結び付いたこととして、「その日には、あなた方は私の名によって自分で父に求めるのだ。だから、私はあなた方のために父に願ってあげようとは言うまい」と言われる。要するに、父なる神とのじきじきの本格的な交わりに入るのだと言われる。
 では、「その日」というのは何時のことなのか。――主イエスはその日の来るのが極めて近いことをすでに告げておられる。それは、先に16章16節で、「しばらくすれば私を見なくなり、またしばらくすれば私に会える」と言われる。その少し前で、真理の御霊が来る時、と言っておられるところから感じ取られる近づきつつある日である。
 このような転換が起こると預言する御言葉を解明する鍵となるべきものの一つが、20章17節にある、「私は私の父またあなた方の父であって、私の神またまたあなた方の神であられる方のみもとに昇って行く、と彼らに伝えなさい」と言われる言葉である。これは復活節の朝、マグダラのマリヤに語られたものである。
 「私が私の父のもとに昇って行くことによって、私の父がまたあなた方の父であることが確立するのだ」と言われるのである。
 今日学ぶことの実現が、三日の後の復活節であると言ってはやや不正確であって、単に復活しただけではない。天に昇る、すなわち父の右という言い方で表されている執り成しの位置に就きたもうことがある。イエス・キリストの昇天の事件についてはヨハネ伝は記録していないが、主が天に挙げられることについては明言する。例えば、3章13節、「天から降って来た者、すなわち、人の子のほかには、誰も天に上った者はいない」。
 さらに、その天上から聖霊を遣わして、全て知るべきことを悟らせるということが加わらなければならない。しかし、これを復活、昇天、聖霊降臨の三つの事件と捉えれば良いと整理を付けるのも味気ない言い方である。三つの段階に亘るのではあるが、主がここで語っておられる言い方は、これらを一つのこと、一連の出来事として扱う仕方である。これはまた、遥か後の時代の我々が今置かれている事態である。我々も復活の光りのもとに生き、復活の光りのもとに己れの救いを捉えている。
 この、現在の状況、これをハッキリさせるために、そうなる以前の状況と比較して教えたもう。それが25節の初めに、「私はこれらのことを比喩で話した」と語られる部分である。この部分は今日の主題ではない。主題を分かり易くするために付け加えられた文言である。
 付加された部分から学び始めることにする。「私はこれらのことを比喩で話したが、もはや比喩では話さないで、あからさまに父のことをあなた方に話して聞かせる時が来るであろう」。
 主がこのように語りたもうたのに応答したのが、29-30節に記された弟子たちの言葉である。「今はあからさまにお話しになって、少しも比喩ではお話しになりません。あなたは全てのことをご存じであり、誰もあなたにお尋ねする必要がないことが今分かりました。このことによって、私たちはあなたが神から方であると信じます」。
 忠実に一句一句答えようとしたものであるが、本当に分かったのか、という疑問は残る。「今分かった」という言葉も、主が間もなくそうなると言っておられることとは、食い違うのではないか、という疑問を引き起こすであろう。
 確かに、彼らは分かったのだと認めることは待った方が良い。すぐ次の31節で。主は「あなた方は今信じているているのか。見よ、あなた方は散らされて、それぞれ自分の家に帰り、私を独りだけ残す時が来るであろう。いや、すでに来ている」と言っておられる。彼らは分かったつもりになっているが、決して分かっていない。信仰は簡単に凋んでしまったのである。
 しかし、弟子たちの腑甲斐なさを批判しても殆ど意味がない。主の最後の教えが今や終わろうとする時、彼らがこう答えようとしたことはもっともな気持ちであったと言って良いのではないか。
 さて、25節に戻るが、「比喩で語る」ということと、「あからさまに語る」ということとが対比されているところが解釈の鍵になる。この箇所を読む多くの人が感じる戸惑いは、ここで触れておられる比喩とは、どの比喩だろうか、あの比喩か、それともこの比喩か、という点であろう。さらに「比喩」というのがどういう意味であるかも、後ほど触れるが、分かり易いとも言えない。
 どの比喩を指して言われたかを検証することが間違いであるとは思わないが、福音書に記される比喩や譬えを一つ一つ見て行くと、時間を取りすぎて、中心的なことになかなか達しないのではないか。むしろ、「比喩を用いて語る語り方」と「あからさまに語る語り方」との対比が重要である。
 ありのままに、ハッキリ語るのと、譬えによって語るのとは対立的である。ここで比喩と訳される言葉「パロイミア」は、ヨハネ伝10章6節では「比喩」であるが、IIペテロ2:22では「ことわざ」と訳される。「ことわざ」とも「たとえ」とも「象徴」とも訳される。その語義を確定することは容易でないかも知れない。
 これまでは譬えで語ったが、それでは解明し切れなかった、と取ることも出来るし、これまでは諺であったため分かりにくかったということかも知れない。とにかく、今度からは非常にハッキリするのである。
 次に、「あからさま」という言葉だが、ヨハネ伝だけでも、これまで何度も用いられたことがある。ただし、別の訳語があてられていた。すなわち、7章4節に、「自分を公けに表そうと思っている人で、隠れて仕事をする者はありません。あなたがこれらのことをするからには、自分をハッキリと世に顕しなさい」というナザレに住む兄弟たちの言葉が記されている。この中で、「公けに」と訳されているのが、「あからさま」というのと同じ言葉である。ギリシャ語で「パレーシア」という。
 同じ章の26節に、「見よ、彼は公然と語っているのに、人々はこれに対して何も言わない。役人たちは、この人がキリストであることを本当に知っているのではないか」とある。この「公然と」が同じ言葉である。
 10章24節に、ユダヤ人が主イエスを取り囲んで、「いつまで私たちを不安のままにしておくのか。あなたがキリストであるなら、そうとハッキリ言っていただきたい」と言うところがあるが、この「ハッキリ」は「パレーシア」である。  11章54節で、「そのため、イエスは、もはや公然とユダヤ人の間を歩かないで、そこを出て、荒野に近いエフライムという町に行かれ、云々」と書かれている。「公然と」が同じパレーシアである。
 18章20節で、「私はこの世に対して公然と語って来た。全てのユダヤ人が集まる会堂や宮でいつも教えていた。何事も隠れて語ったことはない」と言われた。この「公然」も同じである。
 「あからさま」という日本語は、特に日本でそうなのだが、余り良い意味に取られない響きを持っている。ある程度ボカシを入れなければよく伝わらないと思い込んでいるところがある。しかし、今見て来たように、主イエスは常に御自身について、公然と語り、ハッキリ言い、逃げも隠れもされなかった。
 今見たのはイエス・キリストの姿勢、また御自身について語られた語り方を言うものであった。この他に、キリストの弟子たちがキリストについて語る時の語り方、また語る姿勢についても、この「パレーシア」という言葉が用いられることを思い起こしたい。御言葉を「大胆に」、「憚らず」語る、という言い方が使徒行伝や使徒書簡にしばしばなされるが、大胆にとは「パレーシア」である。このケースも今日学ぶところと決して無関係ではないが、特に必要な論及ではないので、これ以上は触れない。
 「あからさまに父のことを話して聞かせる」と言われる時、これは、世間を憚るようなことなく、大胆に語る、という意味ではない。主はこれまでも憚ることなく語って来られた。ここでの「パレーシア」は、語る者の姿勢や言い方とは無関係である。語られたことがらに掛かる言葉である。それがハッキリして、曖昧な受け取りを許さないというのである。
 11章14節で、主は「あからさまに彼らに言われた『ラザロは死んだのだ。そして私がそこに居合わせなかったことを、あなた方のために喜ぶ。それは、あなた方が信じるようになるためである』と言われた」と書かれている。これはハッキリした言い方である。
 父について、これまでは「あからさま」でなかった。すなわち、隠されていた。意味を覆われた形で教えられた。それが「あからさま」になる、と予告されたのである。その新しい事態は、先に述べたように、主の復活、昇天、聖霊の降臨という事件によって現実となるのである。
 与えられた聖書本文をしばらく離れて、聖書の他の箇所を見ることによって、ここで語られた意味をさらに深く理解するように試みて見たいと思う。マルコ伝4章11節に、主イエスが種播きの譬えを語られた後で、弟子たちの質問に答えられた言葉が記されている。「あなた方には神の国の奥義が授けられているが、ほかの者たちには、すべてが譬えで語られる」。
 神の国の奥義がキリスト御自身によって弟子たちには授けられるが、ほかの人には譬えによって教えられる。ここに言われる「譬え」とヨハネ伝16章25節で言われている「比喩」は言葉が別であるから、同一の主旨と取らなくて良い。また、マルコの方では弟子と他の人との対比がなされ、ヨハネ伝では同一の弟子たちにおける二つの段階の比較がなされているのであるから、事柄は別である。しかし、ここには譬えもしくは比喩を借りて間接的に教える不完全な教え方と、残りなく明らかになるように示す完全な教え方の対比があることは確かである。
 もう一つ、不完全な知り方と完全な知り方の対比が示させるのは、コリント前書13章12節である。「私たちは、今は、鏡に映して見るように朧げに見ている。しかし、その時には、顔と顔とを合わせて見るであろう。私の知るところは、今は一部分に過ぎない。しかし、その時には、私が完全に知られているように、完全に知るであろう」。
 これは復活による完成ではなく、終わりの日の完成について言うものであるから、問題は違う。ただ、「不完全」と「完全」の対比をするところが似ているだけである。また、「鏡によって」見るというところと、「比喩によって」教えられるというところが似ていると言えば、似ている。どちらも、何かを介して、間接的に知るのであり、しかもハッキリしないという恨みを残すものである。
 鏡を通して見ると、朧にしか見えない、と聞くならば意外に感じる人がいるかと思うが、昔の鏡は青銅の金属板を磨いた物であった。どんなに良く磨いても、映り具合は今日の鏡に遥かに劣る物であった。さらに、もう一点の限界は、鏡に映して見ないことには、見られないという限界である。直接に見るのとは違う。見るというよりは、分かるだけと言うべきであろう。
 譬え、あるいは比喩はまさにそもようなものである。分からせるために譬えを工夫するのであるが、それを見て、分かった、と感じることは確かであろう。譬えや比喩だけでなく、説明ということを持って来ても同じである。説明を聞けば一応分かる。しかし、それだけである。
 主イエスは地上におられた日の間、弟子たちを教えておられた。それを聞いて、弟子たちは分かったと感じたのである。しかし、分かったと感じただけでは、まだ完全な理解にはほど遠いのである。さらに、ここで比喩と訳されているものは、それによって分かって来るものではなく、覆いを掛けたようにされるというものだと読むことも出来る。あからさまな理解との対比をハッキリさせる意図で言われているのであるから、比喩は分からせるためでなく、分からせないためだと取った方が良いかも知れない。
 そのような何かを介した教え方ではなくて、「あからさま」に父のことを話して聞かせる時が来ると言われるのは、聖霊が与えられた日の予告である。聖霊が教えると言って良いのだが、聖霊によって御子が我々に語りたもうのである。
 それでは、主の復活に始まるその日になれば、譬え、比喩、象徴、解説というような手段は一切廃止されるのか。そうでないということを我々は知っている。譬え、比喩、象徴、というようなものはかなりの程度不要になった。それでも、象徴的なものが我々の信仰を励ますために有用な場合もある。そして、最後の時が来れば、それらは確かに完全に廃止されるのである。
 旧約の時代に決して省略してはならないとされていた律法の儀式、犠牲、献げ物、食物や日の規定、これらはキリストが御自身を捧げたもうたことによって完成されたから、廃止して良い物となった。
 そのように、キリストの死、復活、昇天、聖霊降臨によって、完全に満たされ、それゆえ前からあった廃止されたことが幾つもある。
 「その日には、あなた方は私の名によって求めるであろう。私はあなた方のために父に願ってあげようとは言うまい」。――これは、すぐ前のところ、23-24節で語られた約束、「私の名によって求めるなら必ず叶えられる」と似ている。ただし、今回は求めたことは必ず叶えられるという約束を与えるものではない。また、ここには「求めなさい」との命令も励ましもない。ここでは、事態が変わるということが言われるのである。
 これまでは私があなた方に代わって必要な物を求めたが、その日が来たならば、私はいないから、あなた方が自分で父に祈るのだ。勿論、私の名によって祈る。それは私があなた方のために祈った時と同じように聞かれ、あなた方の必要の全ては満たされるのである。
 27節に進む。「父ご自身があなた方を愛しておいでになるからである。それは、あなた方が私を愛したため、また、私が神のみもとから来たことを信じたためである」。
 キリストにあって神との交わりが確立するのである。愛とは交わりである。神から愛される愛と神を愛する愛が結び付く。その愛と信仰が結び付いている。その信仰はここではとくに「私が神のみもとから来たことを信じる信仰である」と言われる。
 「私は父から出てこの世に来たが、またこの世を去って、父のみもとに行くのである」。こうして、救いのために来られた方が地上の救いの業を終え、天上でそれを全うするために昇って行かれるのである。
     

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