2003.10.12.

ヨハネ伝講解説教 第166回

――16:18-24によって――

 弟子たちが感じている疑問に対して、主イエスが解答を与えておられる。その答えが19節以下であるが、疑問点一つ一つに対応している答えではない。「『しばらくすれば』とはどういうことか分からない」と彼らが言うのに、「しばらくすれば」ということがどういうことなのか、何も説明しておられないし、具体的にどれほど待てば良いかは言っておられない。しかし、我々はこのことについて、もう一度問い直す必要を感じない。これまで主が語られたと書かれた所を読み直すならば、疑問は解けるはずである。
 主は、「私が言ったことについて、あなた方は互いに論じているのか」と言われる。こういうことについて自分たちの間で論じるのは、そもそも信仰の姿勢ではないではないかと語りたもうように受け取られる。
 さて、主はこの答えの中で、頻繁に「喜び」という言葉を使っておられる。様々の疑問がこの「喜び」という一言のもとで解決する、と言外に言われると受け取って良いのである。しかし、「喜び」という一ことが深刻な様々の問題を一気に解消してしまうと考えてはならない。ここでは「喜び」がキーワードであるが、それは、泣き悲しみ、憂え、不安、苦しみ、というような言葉と対になっていることに気付かなければならない。
 この「泣き、悲しむ」という言葉は死を悼む場合に用いられるのであるから、キリストの死の故のものであろう。他方、憂い、不安、苦しみ、は彼ら自身の中にあるものに基くと言えるのではないかと思うが、これらの言葉を区別する必要はないであろう。これらは喜びに対立するものとして一括して置こう。
 その「喜び」が、22節には「あなた方の心は喜びに満ちる」と言われ、24節にも、「あなた方の喜びが満ち溢れるであろう」と言われるように、もやもやした、中途半端な喜びではなく、確定的で、満ち満ちた喜びであることに注意しなければならない。悦ばしいけれども、どこからともなく隙間風が吹き込んで来るような喜びではない。すなわち、この喜びとはキリストの勝利のことだからである。
 一こと付け加えるが、悲しみと喜びとの対比に続いて、比喩による語り聞かせと、あからさまな啓示の対比が25節以下で述べられる。一段進んだのである。ここは次回に学ぶ所であるから、今日は触れないが、この対比を心に留めることは、悲しみと喜びの対比を理解する上で有意義だということを一言言っておく。
 「あなた方は憂えているが、その憂いは喜びに変わるであろう」。――憂いから喜びへと逆転が起こると言われる。その喜びは、これまで小さい芽でしかなかったものが、一挙に伸びて花を開くのになぞらえられるようなものではない。
 人々の心のうちには、どんなに厳しい逆境のなかでも、喜びの種が残っているということを我々は知っている。ただし、種が残っていることは本人にも分からない場合がある。緑の一かけらも見られない赤土の荒野に、一たび雨がそそがれれば、忽ちにして緑が茂り、花が開くという光景が、雨期と乾期の区別のある地方では見られるが、これは不毛から豊饒への転換ではない。不毛の地と見えたところに、実は花の種が含まれていた。見た目には逆転であるが、その二つの光景は連続している。だから、花の咲き乱れた地がやがてまた荒れ果てた枯れ野に戻るということも起こる。
 主がここで語っておられる逆転は、そのようなものではない。一たび悲しみから喜びに転じた後は、それがまた裏返しになって、悲しみに沈むということはない。22節に、「あなた方の心は喜びに満たされるであろう。その喜びをあなた方から取り去るものはない」と言われるが、どんな力によっても取り去ることの出来ない喜びなのだ。喜びが一たび与えられたということは、繰り返しがない確定という意味である。
 我々の地上的人生には浮き沈みがある。信仰の人生も平坦ではなく波瀾万丈である。「禍福はあざなえる縄のごとし」という諺があるが、縄の目が交互に出て来るように、信仰の人生には晴れの日もあり曇りの日もある。それはそれで間違いない事実であるが、今示されているのはそれとは全く別次元のことである。一旦与えられたものは決して奪い取られることはない。
 「キリストは死人の中から甦らされて、もはや死ぬことがなく、死はもはや彼を支配しないことを知っている。何故なら、キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に生きるのだからである」とローマ書6章9-10節に言われている。キリストの死と復活が、植物の枯れてはまた新芽を出すサイクルと同じようなものだと思っては大変な間違いである。もしそういうことなら、一旦は喜びに入ったとしても、また悲しみに沈まなければならないであろう。だから、この逆転が一回限りのものであることが、ここで言葉としては語られていないけれども、しっかり把握しなければならない。
 我々が営んでいる実際の信仰生活に、晴れた日があり、嵐の日があり、試みにしばしばもまれることは事実である。信仰を持ったなら安定した生活が始まり、良いことづくめであると思ってはならない。試みの夜が襲って来ることはある。しかも、それが一旦乗り越えられたのち、また繰り返し訪れることもある。しかし、キリストと出会って、我々がキリストとともに死に、キリストとともに生きる者となり、それ故、キリスト以外の何者にも属さない者となったこの逆転は、ただ一度であり、永久的な確定である。
 「よくよくあなた方に言っておく。あなた方は泣き悲しむが、この世は喜ぶであろう」。これは今夜から日曜日までの限定されたことについて言われたものである。
 「この世は喜び、あなた方は泣き悲しむ」。これは、この世と、この世に属しない者、つまりキリストに属している者との対比を示す。この対比は限定された期間についてのものだと言ったが、それは真実ではあるが、この世に関しては但し書きをつけた方が良い。すなわち、あなた方においては三日の後に悲しみから喜びへの変化が起こるが、この世ではそのことが捉えられていないから、変わらないのである。このことにさらに註釈を付けた方が良いが、この世は変わらないと言ったのは正確ではない。最も深いところでこの世は変わってしまった。ただし、それは見えないし、この世は知らない。この世はキリストが甦りたまわなかったかのように運んで行く。
 この世が変わったとは、先に11節で聞いたように、「この世の君が裁かれた」ということがあるからである。この世の支配者はその地位を失った。すなわち、キリストを殺してしまえば、自らの権力を永遠に誇示することが出来ると思って、敢えて殺したのであるが、キリストは甦られたから、権力の側が没落せざるを得なかったのである。
 もっと具体的に言うならば、この世に対して真の主権を行使するお方がおられるということが示されたのである。その主権については、長い旧約の歴史の中で預言されていた。信仰者はその日が来るのを待ち望んでいた。そして、その方が来られて、「時は満ちた。神の国は来た」と宣言された。しかし、その宣言の意味の分からない人が大部分であった。彼の後に従って行きはじめた弟子のうちにも、その理解と確信は欠けていた。主の復活に接して、彼らの信仰はようやく本格的な確信となったのである。それでも、世はまだ目を開いていない。
 だから、今聞いている御言葉は、続いて20節の後半に、「あなた方は憂えているが、その憂いは喜びに変わるであろう」と言われた時、それに対応して、「この世は今は喜んでいるが、その喜びは憂いに変わる」とは言われなかった。変化はあなた方の中で始まる。この世の転換はずっと遅れて起こるのである。
 「この世」と「この世の君」という言葉についても、もう少し詳しく論じなければならない。14章30節に、主は「私はもはや、あなた方に多くを語るまい。この世の君が来るからである」と言われるが、「この世の君」とはキリストを捕らえて殺そうとする力を総括している者のことである。それはユダヤの権威であろうか。そういう単純なものではない。確かに、ユダヤの権威、すなわち大祭司を議長とするユダヤの70人議会の権威が、イスカリオテのユダを裏切らせるという策略を用いて、キリストを逮捕し、裁判に掛け、死に定めて、ローマの権力に渡した。そういうことをした罪は簡単に消えるものではない。しかし、世界の全ての悪をユダヤの権威が統轄していたと見ることは出来ない。
 「この世の君」とは彼らの背後にある者だ。勿論、それはローマの権威の背後にもある。それが何かと問われるならば、説明は簡単ではない。主イエスは「この世の君が来る」、「この世の君が追い出される」、「この世の君が裁かれる」と非常に具体的に語っておられる。だが、我々にはそのような現実的な姿は見えていない。こういう時、我々に見えていない存在は、いわば間接的な手段で、譬えるなら、鏡に映し出してその姿を見るとか、あるいは、或る種の光線を照射してその姿を浮かび上がらせるほかないであろう。つまり、キリストの光りを照らす時、この世の君の姿が捉えられる。すなわち、それはキリストに敵対する勢力で、それの総括がこの世の君だと理解すればよいであろう。
 次の21節では、具体的な比喩、出産のたとえによって事柄が明示される。「女が子を産む場合には、その時が来たというので、不安を感じる。しかし、子を産んでしまえば、もはやその苦しみを覚えてはいない。一人の人がこの世に生まれたという喜びがあるからである」。
 これは出産を経験した人には良く分かる比喩である。男性や、また女性であってもまだ出産の経験のない人には、必ずしも良くは分からない。しかし、産んだ人でないと分からない難しい譬えが引かれたと考えるべきではない。経験のないところは想像力で補うことが出来るその範囲で有効なように、主イエスは比喩を用いておられる。
 女性の産みの苦しみについては、聖書は創世記3章以来、苦しみの典型としてしばしば語っている。その苦しみは刑罰や呪いの含みで語られる場合が多い。しかし、ここでの苦しみは、新しい人を産み出すためのものであって、ただ苦しむだけの苦しみではない。
 主イエスがヨハネ伝16章で引いておられる出産の比喩は、苦しみ、痛み、という意味とは少し違うことに気付かせられる。「その時が来たというので、不安を感じる」と言われる。陣痛が起こっていることを指して言われたと考えて差し支えないが、ここでは、「時が来た」ということから起こる不安が取り上げられている。「時」、それは裁きの時ということにも用いられるが、成就の時を言うこともある。
 痛みがあって、それが克服されるのであるが、この比喩が表わそうとしている意味は、他の比喩に置き換えて良いかも知れない。例えば、「戦い」である。戦いに負けて滅びることもあるから支障があるが、勝利の戦いでも不安がある。主は平和的な方であるから、戦いを比喩として用いることをお好みにならなかったようであるが、時が来て、戦いが始まり、苦しい戦闘があって勝利が勝ち取られる。出産の比喩と似たところがある。
 実際、この章の終わりの33節で、「私はすでに世に勝っている」と宣言しておられるように、彼は戦って勝利したもうたのだと捉えた方が理解し易いとも言える。キリストの受難は戦いであり、また勝利であった。
 「時」という言葉に注意を払う機会がこれまでも何度かあった。今学んでいることの関連では、17章1節、「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を顕すように、子の栄光を顕して下さい」がある。
 この不安は子を産んでしまえば、一人の人がこの世に生まれたという喜びがあって、不安を克服する。
 「このように、あなた方にも今は不安がある。しかし、私は再びあなた方と会うであろう。そして、あなた方の心は喜びに満たされるであろう。その喜びをあなた方から取り去る者はいない」。――時が来た場合の緊張を伴う不安感、それは戦いになぞらえても不適切でない、と今見たのであるが、キリストの勝利に我々も与るのである。その喜びを取り去る者はいないのである。喜びがまた転じて悲しみになるような、そういう喜びではない。勝利がまた奪い取られるような勝利ではない。
 今日の学びの最後の段階に入る。「その日にはあなた方が私に問うことは何もないであろう」。――「その日」というのは聖書でよく使われる言葉であるが、特別な日で、終わりの日や神の来たもう日を指す場合も多いが、何かの成就する日として語られた言葉である。この言い方をされた例は14章20節にある。「その日には私は私の父におり、あなた方は私におり、また、私があなた方にいることが分かるだろう」と言われる。「その日」になると分かっていなかったことが分かるのである。
 ここで「問う」と言われているのは「求める」というのと同じ意味である。では、求めるものが何もないほど満たされた状態になるというのか。そうではない。私に求めないで、あなた方が自分で求めるのである。
 例えば、6章の初めで読んだように、人々が食べる物もないままに家に帰らねばならないことになった時、主がパンを与えたもうた。これまではこうであった。これからは、主は地上におられないから、弟子たちは主に願って必要な物を整えて頂くことはもう出来ない。これが出来なくなるという心配が弟子たちの心細さの一部であった。だが、「私はいなくなるが、あなた方は必要な物にこと欠かない」と言われる。
 「よくよくあなた方に言っておく。あなた方が父に求める物は何でも、私の名によって下さるであろう」。
 これからは、あなた方は父に請い求めれば良い。私がいるうちは私が求めて、それにあなた方は与っていた。私が去った後も同じであって、私の名によって求めれば、私がここにいるのと同じなのだと言われる。私が求めるのと同じ事が、私の名によって求めるところには起こるのだ、と約束したもう。「名によって」とは、主がおられないから名だけを用いるということではあるが、名はご本人の実在と等しいのである。
 「今までは、あなた方は私の名によって求めたことはなかった。求めなさい、そうすれば与えられるであろう。そして、あなた方の喜びが満ち溢れるであろう」。
 先にも一段階進むということがあったが、ここでも一段階進んだのである。一歩踏み込んで、求めることが出来るようになった。そこに満ち満ちる喜びがある。
   

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