2003.10.05.ヨハネ伝講解説教 第165回
―16:16-18によって――
「しばらくすれば、あなた方はもう私を見なくなる。しかし、またしばらくすれば、私に会えるであろう」。このお言葉はすぐ後に続けて読むことが出来る通り、弟子たちの或る者には難し過ぎる言葉であった。我々にとっては何も難しいことではない。この通りのことが起こっているのを知っているからである。ただ、弟子たちが余りにも理解に欠けていたことは確かであるとしても、それだけでなく、彼らに奇異な感じを起こさせる言い方であったと思われる
ところで、このお言葉は15節までのところで聞いた言葉に直ちに続いて語られたものである。私が去って行く後に、御霊が降ると言われたその次に、私が去って行くのはもうすぐである。しかし、また直ぐ還って来る、と言われた。似た意味の言葉が14章18節以下にあったが、それとは別の機会に語られたものである。先に言われた時に、弟子たちがどう反応したかは書かれていなかった。しかし、ここで見るように、彼らは先の時にも戸惑ったのであろう。また、弟子に対してではなくユダヤ人に対し、7章33節で、「今しばらくの間、私はあなた方と一緒にいて、それから、私をお遣わしになった方のみもとに行く。あなた方は私を捜すであろうが、見つけることは出来ない。そして、私のいる所に、あなた方は来ることが出来ない」と言われた
弟子たちの疑問は2点である。「しばらくすれば私を見なくなる。またしばらくすれば私に会える」。これはどういうことか。次に、「私は私の父のみもとに行く」とはどういうことか。これが分かっていないということは、何も分かっていないことになる。基本的なことも掴めていない
「しばらく」という言葉、これは言うまでもなく、短い時間をさす。少しの時間しかない、という含みである。しばらくして見えなくなり、しばらくしてまた見える。これは時が縮まっていることを表す言い方であろう。つまり、終末に関する言葉である。黙示録の6章11節に、神の言葉の故に殺された人の霊魂に対して、もうしばらく休んでおれ、と命じられるところにこの言葉が用いられている
この「しばらく」ということばの二つの面が示されている。一つの面は、私があなた方とともにいる時間は後僅かしかない、という含みである。御子は世に来たりたもうた。人々と出会いたもうた。人々はこれまで聞いたこともない言葉を聞いた。しかし、キリストは去って行かれる。キリストと出会って、彼から言葉を聞くことの出来る時は限られていて、しばらくの間しかない
先に14章26節で、また16章4節でも聞いたように、主は「私から聞いた言葉を聖霊が思い起こさせる」という言い方を繰り返して語られた。聖霊によって思い起こされる時に、御言葉は聞いた者のうちにあって、豊かな命に満ちた言葉である。その言葉は過ぎ行くものではなく、いつまでも留まる
しかし、主から言葉を聞くことの出来る時間は限られている。主が去られたなら聞けなくなるが、後で別の機会に、補いを付けるために聞けるのではないのか。いや、そうではない。我々自身の信仰生活について考えて見るに、初め信じた時から何十年も経って、初めて聞く言葉に接する場合もあるのではないか。――確かにその通りである。キリストの弟子も我々と同じ人間であるから、信仰の経験においても同じ事があったのではないか。だが、この考えは甘いのではないか
今日、教えられているのはそれとは違ったことである。これは11人にだけ語られたものである。その11人に後日、欠員の1人が補充されて、12人の数を揃えるのであるが、それがどういう人であったか。それは、この補充の人選がなされる際のペテロの言葉によって明らかである。使徒行伝1章21-22節で、ペテロはこう言っている。「そういうわけで、主イエスが私たちの間に行き来された期間中、すなわち、ヨハネのバプテスマの時から始まって、私たちを離れて天に挙げられた日に至るまで、始終、私たちと行動を共にした人たちのうち、誰か一人が私たちに加わって、主の復活の証人にならねばならない」。こうしてこの資格に合致する弟子が2人挙げられたが、そのうちの誰を選ぶかは主に任せる他ないとペテロたちは判断した
ペテロが使徒行伝1章で語っているのと、主イエスがヨハネ伝16章で語っておられるのとでは、文脈が別であるから、混同しないように注意しなければならない面があるが、ペテロは「ヨハネのバプテスマの時から、天に挙げられるまで」という限定のもとに使徒が選ばれたことを思い起こしている。そのことは、今、我々がヨハネ伝で学んでいることにも当てはまるように思われる
我々も或る意味でキリストの使徒であるとの使命感を持っている。これはこれで大事な心構えである。使徒が働いていた時代は遥か昔であって、今はその時代でない、ということはその通りではあるが、言ったところで、余り意味のない議論をするだけである。むしろ、主イエスが今も使徒を起こして、全世界で使徒の働きをなさしめたもうということがあってこそ、キリスト教は生命を持っている
ただし、それと矛盾するというのではないが、全く別の面があることを我々は知っている。使徒の数は後には拡大されたが、初めは12人に限定された。12というのはイスラエルの12の支族を象徴する数であって、この数がイエス・キリストによる神の国の実現を表したのである。主イエスがこの12人を引き連れて伝道旅行をされたのは、「時は満ちた。神の国は来た」との宣言を形に表すためであった。12より多くても少なくてもいけない
キリストの事実は歴史の中で起こったものであるから、その時、その場所にいた者でなければ、直接の目撃証人になることは出来ない。キリストが肉体をもって地上に留まりたもうた時間は限られていたから、肉の日のイエス・キリストを見た者には限りがある。見た者に限りがあるということは、マイナスと見られるかも知れないが、起こったことが歴史としての事実であることを示すものである。誰でも、いつでも、信仰の修練を積めば、悟りが開けて、使徒になれる境地に達するというものではない
弟子たちが主とともにいて、御言葉を聞き、その姿、その立ち居振る舞いを見ることが出来る時はもう後しばらくしか残っていない。この短い時間の間に聞くべきことを聞いておかねばならない。彼らにとっては、このしばらくの時が重要であった
それでは、今の世に生きる我々にとってはどうなのか、ということを考えなければならない。我々には時間が十分あるのか。彼らにとってはどうなのか。この時、晩餐は終わって、説教も終わりに近づき、このあとゲツセマネに行き、そして間もなく逮捕され、裁判に掛けられ、処刑される。すぐに葬られて、見ることは出来なくなる。たしかに、ともにいる時間は僅かしか残っていなかった
一方、我々には時間が十分あるのではないか。少なくも後30分とか40分というものではないではないか、と思っている人もあろう。しばらくの間という言葉を聞いても、我々には余り実感がない、と言う人はいる。それでは足りないのではないかと感じ、「時が縮まっている」と叫んで、人々をせき立て、謂わば脅しを掛け、緊張を促す、という方法を使って、人々を駆り立てて、遮二無二率いて行く指導者もいるが、その指導者によって予告されたことは起こらない。そこで手を変え品を変えて、訴える。それでも、緊張は長続きしないではないか。だから、「時が縮まっている」というような言い方はすべきでない、と思っている人がクリスチャンの中に割合多いようである
しかし、この受け取り方は致命的に間違っている。「あなた方は主にお会いすることの出来るうちに主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ」とイザヤ書55章6節は言う。これは真実な言葉である。真実を強調するため表現が誇張されていると解釈する人がいるとすれば、その人は気の利いた解釈をしたつもりであるかも知れないが、聖書の語る意味を貧しいものにしている。「いつでも会える、と思ってはいけないぞ」と預言者は警告するのだ
キリストの時代にキリストと出会った人は、限られた時間の中で、限られた場所での出会いであることを知らなければならなかった。キリストが歴史的事実として来られたように、人々が彼と出会うのも歴史的事件だからである。それを弁えないで、出会いの時を失してしまった人が多いことを我々は福音書で読んでいる。主よ、あなたについて行きますが、その前に父を葬らせて下さい、と言う人がいた。主は、それでは意味がないということを教えたもうた。予め王子の婚宴に招かれていたが、いざその時になって、通知が来たのに、招かれた人は来なかった、という譬えがある。また、油を買い足しに行っている間に門が閉まって、後で開けてくれと頼んでも、開けてもらえなかったという譬えがある
我々がキリストと出会うのも、限定された中で起こる一つの歴史的事件であることを忘れてはならない。いつでも良いなら歴史にならない。いつ行っても会えるような出会いは空想であって本当の出会いにならない
本当の出会いにならないままに、人がキリスト教に一時的に夢中になるという例はある。しかし、どんなに夢中になっても、それによってその人は変わらない。オハナシがあるだけだ。それでは歴史は始まらない
いつでも、どこでも、だれでも、会える、というところでは、出会いは起こらない。雑踏の中で群衆と群衆とのスレ違いが起こるような、スレ違いがあるだけである。いつでも、ではなく、今、今かぎり。どこでも、でなく、ココである。誰でもでなく、この私、選びに与り、名指しで呼び出されている私、この私が主と出会うという事件が出会いであり、それは、歴史であるとともに、歴史を作って行くのである
次に、「またしばらくすれば私に会える」と言われた。私に会えないが、その間は短いのだと言われる。この短い間、しばらくの時、これはしかし弟子たちにとっては大きい試みの期間であった
これまでも試錬はあった。17章12節で、主は「私が彼らと一緒にいた間は、あなたから御名によって彼らを守り、また保護してまいりました。彼らのうち誰も滅びず、ただ滅びの子だけが滅びました」と祈っておられる。試錬とは言っておられないが、滅びの子が滅びたのは試錬によってであると見て良い。これまで、ずっと試錬であったが、主が守っておられたから何ともなかった。これからは、一緒にいて下さる主はおられない。非常な危機である。しかし、その期間は短い
主はまたこうも言われた。ルカ伝22章28節であるが、「あなた方は私の試錬の間、私と一緒に最後まで忍んでくれた人たちである」。――主御自身、試錬に遭われ、弟子たちは試錬を受けたもう主とともに苦難に耐えた
その言葉に続いてペテロに言われた、「シモン、シモン、見よ、サタンはあなた方を麦のように篩に掛けることを願って許された。しかし私はあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。それで、あなたが立ち直った時には、兄弟たちを力づけてやりなさい」。主はペテロが躓いて、そこから再び立ち直ることを予告されている。この時のペテロの躓きというのは、ペテロが三度主を否んだことによる自分自身への絶望が加わった試錬を指すと考えられる。信仰がなくならないように祈って下さる主がおられるので、辛うじて乗り切れた試錬である
彼らがこの後、世界伝道に出て行った時に味わう苦難も、大きいと言えば大きい。しかし、それは苦痛ではあるが、深刻な試みではなかった。自分の不信仰に絶望することはない。彼らの信仰は試みを経て確立されたからである。しかし、主が取り去られた後、再び出会うまで、彼らを襲った試みは厳しかった。これは復活の主に出会わず、まだ御霊を与えられず、信仰がまだ確立する以前の試錬である。試錬に耐えることは非常に難しかった
それでも、この苦難に耐えねばならない時間はしばらくである。「しばらく」という言葉も聖書の中で大きい意味をもって語られるものである。例えば、こういう詩篇30篇の句がある。「主の聖徒よ、主をほめうたい、その聖なる御名に感謝せよ。その怒りはただ束の間で、その恵みは命の限り長いからである。夜は夜もすがら泣き悲しんでも、朝とともに喜びが来る」
もう一箇所御言葉を聞こう。イザヤ書26章20-21節、「さあ、わが民よ、あなたの部屋に入り、あなたの後ろの戸を閉じて、憤りの過ぎ去るまで、しばらく隠れよ。見よ、主はそのおられる所を出て、地に住む者の不義を罰せられる。地はその上に流された血を顕して、殺された者をもはや覆うことがない」。これは不義な世界に対する神の怒りの表れる時に、神の民もしばらく耐えなければならない、という預言である
「しばらくすれば私に会える」と言われたことが実現したのは、復活の日の夕べである。20章19節20節にこう書かれている。「その日、すなわち一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのおる所の戸をみな閉めているとイエスが入って来て、彼らの中に立ち、『安かれ』と言われた。そう言って、手と脇とを彼らにお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ」
彼らはユダヤ人を恐れて隠れ潜んでいた。その前の18節には、マグダラのマリヤが弟子たちのところへ行って、自分が主に会った、またイエスがこれこれのことを自分に仰せになったと報告したと書かれている。つまり、弟子たちは主の甦りについてすでに聞いたのである。しかし、聞いたことを信じていなかった。だから、ユダヤ人が次は自分たちを迫害しに来ると恐れて、閉じこもっていた
主を見て、彼らはやっと喜びを得た。その朝、主は甦っておられたのである。朝早くマグダラのマリヤに会っておられるのである。弟子たちは朝のうちに喜びに入ることが出来た。にも拘わらず、信じなかったため、喜ぶことが出来ない。喜びを自分で遅らせた。主が会って下さり、手と脇をお見せ下さって、やっと喜び出した
弟子たちの疑問の第二点に移る。「『私の父のところに行く』と言われたのは、いったいどういうことだろう」。これが分からなかったのは、「私の父」ということがそもそも分かっていなかったからと言うほかない。これは、しばしば聞いたはずの最も初歩的な教えであるが、それが分かっていなかった
「私を見なくなる」と言われたのはギリシャ人の地に行ってしまうことかとユダヤ人は7章35節で言った。父から出た方が父のみもとに帰るということがユダヤ人にも、そして主イエスの弟子になっていた人にも難しかった。我々にも本当は難しいのに。難なく分かっていると安心しているであろうか。この点はしっかり確信しなければならない。信仰の最も基本的な項目である
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