2003.09.21.

ヨハネ伝講解説教 第164回

――16:12-15によって――

「私には、あなた方に言うべきことがまだ多くある」と主は言われる。彼の語られる時間はもう余りないのである。しかも、弟子たちは未だ甚だ不十分な知識と理解しか持っていない。このまま主イエスが去って行かれたなら、残された者はどんなに惨めな状態になるであろうか。
 現在の我々はこの弟子たちといろいろな点で違っているが、この時の彼らの心細い気持ちには十分共感出来るはずである。我々も知るべきほどのことをまだ知っていない。主イエスの弟子たちより遥かに訓練不足であり、無知、また粗野である。そして時が限られていると痛感させられている点でも似ている。だから、主がここで語られた言葉を身につまされて聞くことが出来る。
 主イエスはここで、「あなた方は心を騒がせないが良い」と語り掛け、弟子たちに約束を与えておられる。「あなた方は御霊によって、あらゆる真理に導かれるのだ」と約束される。その約束を我々は我がこととして聞き取らねばならない。そして約束されたことの内実をシッカリ捉えなければならない。自分が如何に無知であるか、無理解であるか、それが分かれば宜しいというような教えではない。今は学ぶところ甚だ不十分であるけれども、間もなく十分に満たされるとの約束が与えられたのである。その鍵を握るのは「真理の御霊」である。御霊はあらゆる欠陥、不十分さを満たして下さる。御霊のその働きについて今日は特に学ぶのである。
 「真理の御霊」という言い方は、この所、何度も語られた。14章17節。15章26節で聞いた言葉である。繰り返されたから分かったはずだ、と言っては弟子たちにとって酷であろう。何度も聞いたということは覚えているとしても、分かってはいないのである。その腑甲斐なさを問い詰めても解決にはならない。――ここまで述べて来たことは、主から与えられる答えを聞くほかに解決はないと思い知るための準備であった。
 今日は12節から学んで行くが、「あなた方に言うべきことがまだ多くある」と主は言われた。主はまだ教えていないことが多くあるのを知っておられる。しかし、もう時が限られているから、言うべきことを大急ぎで教えよう、と言われるのではない。今は教えない、と言われる。
 ところで、バプテスマのヨハネの時から、一緒に生き、一緒に歩き、その間に教えて来られたことのほかに、まだ何が足りなかったのか。どういう教えの項目が残っていたのか。――そういうことを問うても意味がないと思う。「まだ多くある」とは、項目が沢山あるということではなく、分量的に沢山、深みがまだまだ、という意味である。
 そして、教えないのは、「あなた方が今はそれに堪えられないからである」と言われる。弟子たちの心には、もっと知りたい、自分たちの知識は余りに乏しいのだから……という欲求があったと見てよいだろう。その欲求は我々も理解出来る。しかし、不足している知識を与えても、今のあなた方には堪えられない、と言われる主の判断を尊重しよう。つまり、言うべきことが多くあるのに聞かせていなかったのは、私の時間が足りなかったからで、あなた方には気の毒であった、というような同情を示しておられるのではない。「あなた方はそれを聞くに堪えられなかったから、私は教えなかった」と言われるのである。
 それでは、「真理の御霊」がくだったならば、足りなかった教えは一挙に満たされ、あらゆる真理がパッと分かるのか。そのように受け取る人もいるであろうが、これでは不十分な解釈になると思う。「真理の御霊」の働きは、出来合いの知識をつぎ込むだけのことではなく、その知識を受け入れる用意をさせること、またその言葉を留めさせることでもある。今はあなた方は堪えられない。ではあなた方が成熟するのを待てば良い、ということであろうか。
 そうではない。あなた方は待っていても成熟しない。あなた方が内的に発展するのでなく、聖霊があなた方に与えられるのを待つほかないのである。御言葉を聞く用意が聖霊によって遂行されることなしに、また言葉を留める措置なしに、真理の教えをつぎ込んでも、聞く者にとっては聞くに堪えないものであるから、つぎ込まれた教えはことごとく無駄に終わる。
 御言葉を受け入れる用意をするのは人間の側の努力ではない。「求めよ、そうすれば与えられるであろう」という約束の言葉があることを我々は知っている。これは真実な言葉である。けれどもこれは、求めれば何でも得られるという厚かましいお伽話のようなものではない。天の父は求める前に必要を知りたもう。それでは、祈り求めることは余計なことか。そうではない。頂くものは求めなければならない、というのがこの教えの要点の一つである。
 もう一つの点はルカ伝福音書の「求めよさらば与えられん」の教えの中に出て来ることであって、その結論は11章13節にある。「このように、あなた方は悪い者であっても、自分の子には良い贈り物をすることを知っているとすれば、天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか」と言われる。御霊を求めることが根幹となる時に、全ての求めと全ての恵みが有効になる。
 「御言葉が留まる」ようにすると言ったが、これは15章7節で聞いたことばである。御言葉を与えられた時、聞いた当初は感銘を受けたとしても、それだけで消え去ってしまうことが多いではないか。「これは御言葉なのだから、人の言葉と違って、消え失せることなく、必ず残るのだ」と大真面目に主張したとしても、真面目に主張したからその通りになると納得していても、空しいものは空しい。御言葉に御霊が結び付けられ、こうしてこそ御言葉が留まるものとなるのは主イエスの御旨である。その結び付きなしに、御言葉または御霊が独自に・単独に働くことはない、と言っては少し言い過ぎかも知れない。しかし、本来の秩序はこの結び付きなのだ。
 なお、「あなた方に言うべきことがまだ多くあるが、言わないでおくから、後で補わなければならない部分がある。私の語った言葉に後で幾らかの言葉を付け加えて理解せよ」と主が言われたかのように受け取ってはならない。主は語るべきことは全て語りたもうた。主の語りたもうた言葉になお何かをつけ加えなければならないとすれば、聖書の増補版を次から次へと出版しなければならなくなるであろう。「この書の預言の言葉を聞く全ての人々に対して私は警告する。もしこれに書き加える者があれば呪われる」と聖書の最後のページは言う。
 さて、13節に入るが、「真理の御霊の来る時には、あなた方をあらゆる真理に導いてくれるであろう」。御霊が与えられるという約束が、主の去って行かれる時の約束の核心と言うべきものであることを我々は知っている。御霊が「真理の御霊」と呼ばれる意味はここで最も強く打ち出される。すなわち、御霊がなにかの賜物、あるいは効果を与えるということではなく、御自身を与え、真理そのものを齎らすのである。
 その時与えられる御霊は「あらゆる真理」にあなた方を「導いて」くれる。「言うべきことを多く残したけれども、御霊が来る時には、未到達の区域はなくなる。あなた方は全ての真理を知るに至る」。そう約束される。あらゆる真理を知るとは、何でも彼でも知る知識を獲得することと見て良いかも知れないが、単なる知識でなく、霊的な充実のことを言ったものである。
 詩篇23篇の初めに、「主は我が牧者であって、私には乏しいことが何もない」と歌われている。これは、我々が恵みに満ちていることを歌ったものであるが、羊が腹一杯青草を食べた満足感を言うのでなく、霊的満足感を表す。その5節に「あなたは私の敵の前で、私の前に宴を設け、私のこうべに油を注がれる。私の杯は溢れる」という有名な歌がある。宴を設けるとは宴会を張ることであり、それは祝福と栄誉を意味する。油を注ぐとは、宴席に連なる者の装いを整えるために髪に油を塗って美しくすることである。杯が溢れるとは祝福の充満である。
 ここに歌われていることは、地上の最高の喜びである祝宴から比喩を借りたものであるが、地上の宴会の喜びでなく、天上の喜びと祝福を言い表している。そこで油を注ぐという象徴で示されたのは、聖霊が与えられることであると旧約の時以来の解釈がある。油を塗ってもらうことはなかなかの大きい喜びなのであるが、それは象徴に過ぎないのであって、御霊に満たされることこそが実質なのである。
 次に進む、「それは自分から語るのではなく、その聞くところを語る」。ここでは御霊の与えるものが聞いて語るもの、主として「言葉」であると教えられる。御霊が与えるものについて、我々には何ほどかの期待があるが、御霊の与えるものは力であるとか、潔め、悟り、また徳であるという理解を持つ向きが多い。その解釈を却けなければならないというわけではないが、御霊単独の働きではなく、御言葉と結び付いての働きが特に重要だということを弁えねばならない。
 御霊が語りたもうのは、それ自身の中から語る言葉を絞り出して、それを与えるというやり方ではなく、受けたところを取り次ぐようにして次に伝達するのだと言われる。それなら、所有する中味は何もなく、取り次ぐだけなのか。――聖霊が中味のない存在であると見ることは明らかに問題であるが、喩えるならばこうなる。賜物を分かち与えるための、贈り物のギッシリ詰まった袋、あるいはそのような袋を持った人というようなものとして考えるのは宜しくない。
 主は3章でニコデモに御霊と風を結び付けて教えたもうた。「風は思いのままに吹く。あなた方はその音を聞くが、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれる者も皆それと同じである」。ニコデモには分からなかったようだが、こういう意味であった。見えないけれどもある。どこから来て、どこへ行くかは分からないが、新しく生まれる人間を生み出す。霊を風のような、空のものとして捉えることは場合によっては非常に適切である。掴みどころがない。中が空洞になっていて、向こう側からこちら側によく通じるものに聖霊をなぞらえるのは適切である。聖霊は自分の声を聞かせるのでなく、彼方に行きたもうたお方の言葉を受けてそれを聞かせる。
 「それは私から聞くのだ」と言われる。それは14節に、「私のものを受けて、それをあなた方に知らせる」と言われる通りであって、それと同じである。なお、13節には「来たるべきことをあなた方に知らせる」と言われる。来たるべきことは誰にも分からないが、御霊を受けた者にはその啓示が与えられる、ということか。そう取っても良いが、来たるべき者とは何か。キリストのことではないか。彼は「私は初めであり終わりである」と言われる。そのお方を伝達するのは御霊なのである。
 14節に進むが、「御霊は私に栄光を得させるであろう。私のものを受けて、それをあなた方に知らせるからである」とある。「栄光」とは御子として本来持っておられたが、隠されていた栄光、これが現われようとしている。あるいは同じ事であるが、救い主、メシヤとしての任務を全うして、メシヤの栄光を顕した、ということを言う。
 それは御霊が完成するのである。その完成は聖霊によって救いの人間に対する伝達が完成することである。そのことは15節でさらに明らかにされる。さて、父と子と御霊の働きがそれぞれ別であるという理解が我々の間でかなり普及している。別々に捉えた方がよく分かるという利点はあろう。それはそれとして、このくだりで主イエスは、父、子、聖霊を別々の働きをするものとして理解するのでなく、一貫した業をするものとして捉えさせようとしておられる。その教えを纏めたのが15節である。「父がお持ちになっているものは、みな私のものである。御霊は私のものを受けて、それをあなた方に知らせるのだと、私が言ったのはそのためである」。
 3つの段階で伝達が行なわれると示される。第一は、御父から御子へである。御父のものは悉く御子に伝達された。だから、ピリポに対して14章9節に、「私を見た者は父を見たのだ」と言われた。3章35節では、「父は御子を愛して、万物をその手にお与えになった」と教える。5章26節では、「父はご自分のうちに生命をお持ちになっていると同様に、子にもまた、自分のうちに生命を持つことをお許しになった」と言われ、それに続いて「子に裁きを行なう権威をお与えになった」と言われた。10章30節では、「私と父とは一つである」と言われた。
 子が父に従属するという面は確かにある。だから「父は私よりも大いなるものである」と言われ、「父から遣わされた」と言われる。父、子、聖霊という順位は便宜上つけられたものではない。しかし、それは救いの秩序に関わることであって、劣った者によって救いがなされ、神による救いは、より一段劣った者からしか受けられないという意味ではない。父なる神に救いがあるが、その救いは遥か高いところに留まっているのでなく、御子まで来ている。
 父が直接に人間に救いを伝達したまわず、御子に委託したもうたのは、人間の救いだからであって、人間の救いは、人の子に移された祝福が、人の子から彼の兄弟に分かち与えられるという手続きを取らなければならないからである。ここにこそ救いの確かさと現実性がある。
 第二に、御子から御霊への伝達が行なわれる。御子から直接に人々へというのではない。御子はこの世に降って、救いの業を全うしたもうたのであるが、それを果たし終えて、地上から間もなく去って行かれる。御子が去ってしまわれたならば、人々は御子が成し遂げたもうた救いを、敬虔な思いをもって記念することは出来るとしても、御子キリストにある救いの現実性は、記念に置き換えることは出来ない。その現実性は、御霊が御子から受け、その御霊を御子が世に遣わし、遣わされた御霊はそれをキリストの名を帯びている人々に伝え、こうして父から発する救いは人間に達するのである。その人間に達する段階、これが御霊によってなされる第三段階である。
 御霊による伝達、これは14節でも15節でも「知らせる」という言葉で表される。使信を伝える、砕いて言えば「説教する」という意味である。それは使徒たちの職務で、聖霊はそれを助け、力あらしめるというのではないのか。それは間違いではない。しかし、ここで言われているように受け取ることも正しい。最終的に我々に伝えることは使徒的説教であるが、それは御霊の働きなのだ。
 父から子へ、子から御霊へと救いの業が移行したと我々は今教えられているのであるが、キリストから遣わされた使徒の宣教の業は、御霊の業の一環として行なわれ、御霊の業として実を結ぶのである。 

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