2003.09.14.ヨハネ伝講解説教 第163回
――16:8-11によって――
主イエスは御自身の去って行かれた後、弟子たちに聖霊が遣わされることを、最後の夜の教えの中で、何度も語って聞かせたもうた。「聖霊は私が語って置いたことを、あなた方に思い起こさせる」とも言われた。「聖霊はあなた方にとって助け主、慰め主であり、私が去って行っても、それによってあなた方が地上に、謂わば孤児として取り残されることにはならない。すなわち、聖霊によってあなた方はいつまでも私とともに留まる」とも言われた。
そういうことが教えられ、また約束されたのであるが、それはキリストの弟子たる者に限られた約束であり、広く言っても教会内部に限られており、信仰者の内面のことであった。それに対して、今日教えられるところの主題は、この世に対する聖霊の働きである。「それが来たら、罪と義と裁きについて、世の人の目を開くであろう」。――聖霊がこの世に対してどのように働くかについては具体的には細かく語られたわけではない。大局的に勝利が語られるだけである。
「世の人」、これはキリストの弟子とは全く別なり、ハッキリ言って対立的、いな敵対的な人々である。具体的に言えば、主イエスを殺した人々、あまつさえ主に従う者をも殺そうとする人々である。彼らは初め主イエス一人を逮捕し、彼だけを殺す。しかし、後にはキリストに従う者を皆殺しにしようとした。
15章18-19節に主は言われた、「もしこの世があなた方を憎むならば、あなた方よりも先に私を憎んだことを知っておくがよい。もしあなた方がこの世から出たものであったなら、この世はあなた方を自分のものとして愛したであろう。しかし、あなた方はこの世のものではない。かえって私があなた方をこの世から選び出したのである。だから、この世はあなた方を憎むのである」。
世はキリストに敵対しているが、その反対側、キリストとキリストに属する者とはこの世に対して敵意を持つのか。それは持たないのである。神はその独り子を遣わすほどに世を愛し、キリストは御自身の命を投げ出すまでに世を愛し、キリストから遣わされる者も世の人々を隣り人として愛する。
今、世の人々への愛という言い方で総括したことは、総括とはいえ、肝心の点が漠然とする嫌いがないとは言えない。むしろ、今日学ぶ所に示されている「罪と義と裁きとについて、世の人々の目を開く」という御言葉を手がかりに、世に対する態度が何であるかを知るようにしたい。
別の言葉で言おう。キリストは世に遣わされて来たもうた。そして、世の人々は彼に逆らったし、また彼を遣わしたもうた父なる神に逆らって、この唯一の救い主を殺す。それでは、父なる神がこの世に対してなしたもうたことは、悉く空しく終わったのか。そうではない。むしろ、目的通り達成されたのだ。それは、簡単な言葉で言うならば、16章の最後の所に書かれているように、「私はすでに世に勝っている」、あるいは「人の子は栄光を受けた」である。
キリストが勝利された。その事実は事実でありながら、人々の目が閉ざされているために見えていない。それを見えるようにする。これが聖霊の御業である。では、世の人々に対して聖霊はどのように働くのか。そのことは、今日学ぶ聖句の中では説かれていないが、簡単でも触れておいた方が良いであろう。
少し説明して置くが、「世の人の目を開く」と訳されているところには、目が見えるようになるという言い方は使われていないのであって、確信させられる、得心させられる、自分で納得するようにされる、という言葉が用いられる。しかし、目を開くと言ってもおかしくはない。
難しく考えなくて良い。実例が幾つかあるが、目を開くという点で卓越しているのは、9章に記されていた生まれつきの盲人の開眼事件である。この人はキリストに対して対立していたわけではない。対立どころか無関心であった。彼の目を開けることの出来る方が来ておられるのに、「目を開けて下さい」と訴えることも求めることもしない。まさにゼロからの出発であった。
この物語りは、肉体の目が開かれて行く過程を示すとともに、霊的な目、すなわち信仰が開かれて行く過程と、それと並行して起こる外的なこと、つまり会堂から追い出される迫害、そして迫害によっていよいよ霊の目が良く見えて行く経過が示される。
この物語りで特異な点は、主イエスが手を触れてその場で癒したもうのでなく、また、「私は命じる、見えるようになれ」といわれたのでもなく、「シロアムの池に行って目を洗え」と命じ、その盲人が言われた通りシロアムの池に行って、洗ったところ、目が見えるようになったという所にある。目が見えた段階で、何故見えたのか。その理由はシロアムという名に籠められているに違いない。そう考えざるを得なかったであろうということが分かって来る。
「シロアム」、すなわち、「遣わされた者」、と9章の本文の中に註釈が入っていたが、この事件は単なる奇跡でなく、遣わされた者の意味と力を示すためのものである。その「遣わされた者」とは誰のことか。それは我々にはもう良く分かっている。父から遣わされた御子である。したがって、一人の盲人の目が開かれたという事件は、癒しの奇跡であるに留まらず、神から遣わされた方との出会いへの開眼である。つまり、単に「癒して頂いて感謝し、あなたを信じます」と言うだけでなく、ナザレのイエスを神から私に遣わされた救い主として受け入れるという意味がある。
この事件記録が示しているのはそれだけであるが、そのことをシッカリ押さえるならば、我々はさらに広い範囲のことに目を向けないではおられない。すなわち、父から遣わされた御子は、ひとたび遣わされた使命を全うして後、その弟子を「使徒」として世に遣わされるのである。この遣わされた者の働く所、そこでは、シロアムの奇跡が新しく起こるのである。
今日学ぶところでは、「聖霊が目を開く」、すなわち、聖霊がこのことを分からせ、確信させる、ということを主要な教えとして聞き取らなければならない。しかし、聖霊が降って来られるならば、謂わばヘリコプターで殺虫剤を撒いて虫を駆除するように、また花咲爺が灰を撒いて全ての木に花を咲かせるように、全ての人に信仰の開眼の奇跡が起こるということではない。
聖霊が来ると言うことの中に、キリストから派遣された人々がその業を遂行するという意味が含まれていると取って良いであろう。
以上のことを踏まえて、「それが来たら、罪と義と裁きとについて、世の人の目を開くであろう」という御言葉を学ぼう。
一つのエピソードを教会の歴史の中から思い起こすのであるが、宗教改革の初めの頃、ドイツのある町で、その町の牧師たちが集まって、自分たちが今何をすべきであるかを討議した。その時、彼らは、御言葉には「罪と義と裁きについて聖霊が世の人の目を開くであろう」と書かれているのは、我々説教者が、罪と義と裁きについて説教しなければならないという意味なのだ。我々はそのことをシッカリ説教してして来たであろうか、と反省し、このことについて説教しなければならないと確認した。これは非常に的確な聖書解釈である。
キリストから遣わされた者の使命は、罪と義と裁きを宣べ伝えることである。彼らがこの任務を遂行すれば、彼らの語った言葉を、聖霊が力ある言葉として下さり、その言葉を聞く人々の中に働かせ、実を結ばせたもう、ということが今教えられている。では、どのようにして使命が遂行されて行くのか。
9節で主は説明を加えて言われる、「罪についてと言ったのは、彼らが私を信じないからである」。――主の言わんとされたのは、こういうことである。「罪について彼らの目を開くというのは、彼らが自分自身をキチンと認識出来るかどうかはともかくとして、キリストを信じていない己れの罪を認めずにおられなくされるにいたる」。
人々は信じない。そして、信じなくても悪いことだとは全然思っていない。自分が信じないのは、それが信じるに足りないからである、と考えているのである。なるほど。誰かが「オレを信じろ」と言っても、信じるに価しない者を信じることが出来ないのは当たり前である。しかし、ここで「信じる」かどうかが問題になっているのは、明らかに、神から遣わされた御子、我々の救い主、イエス・キリストを信じることである。だから、信じないのは、言い逃れの出来ない罪なのである。主御自身、信じない罪について厳しい警告を繰り返しておられたが、そのことは使徒たちの宣教によって継続され、聖霊の降臨によって明らかにされるのである。
すでに3章18節で聞いたように、「彼を信じる者は裁かれない。信じない者は、すでに裁かれている。神の独り子の名を信じることをしないからである」と我々は教えられている。
5章22節で主は、「父は誰をも裁かない。裁きのことは全て、子に委ねられたからである」と言われた後に、「よくよくあなた方に言っておく、私の言葉を聞いて、私を遣わされた方を信じる者は、永遠の命を受け、また裁かれることがなく、死から命に移っているのである」と言われた。ここでは、子を信じる者は裁かれない、といわれただけだが、信じない者は裁かれる、裁きの権威は私が持つからである、という意味も読み取られるであろう。
8章の16節に、「もし私が裁くとすれば、私の裁きは正しい」と言われた時、その裁きが何を裁く裁きであるかを考えなければならない。これは、その人の行ないについての裁きでないことは少し考えて見れば直ぐ分かるであろう。それは信仰と不信仰に関わる裁きである。
我々は再び9章の、盲人の目が開かれた奇跡の記事のことを思い起こす。その記事の末尾のところに、「もしあなた方が盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなた方が『見える』と言い張るところに、あなた方の罪がある」。この罪は見えると思い上がる思い上がりの罪ではない。これは不信仰の罪であり、その罪は罪責、罪の負い目という意味を持っている。
次に、今日の第二の項目である。「義についてと言ったのは、私が父のみもとに行き、あなた方は、もはや私を見なくなるからである」と言われる。これは分かり難い言葉である。父のみもとに行き、あなた方が私を見なくなることがどうして義に関わることなのか。それがどうして、義について認めずにおられなくされるのか。
「義」という言葉はその直ぐ前の「罪」と対照的に把握すれば良いであろう。罪は不信仰という一点に絞り込んで理解するのが適切であるとここで我々は悟っているのであるが、それならば、義とは信仰の義という一点に絞り込んで理解するのがここでは適切だということが分かる。
「義について世の人の目を開く」とは、信仰による義についてである。行ないの義ではない。世の人々が常識的に論じている義でもない。義について世の人の目が開かれるとは、信仰の義を示されて、それに逆らうことが出来なくなるということである。その義はどこに示されるか。パウロはローマ書1章17節で、神の義は福音の内に示される、と言う。たしかに、使徒たちによって福音を示された時、この世はこれにもはやあらがうことが出来なくなる。
だが、それと「私が父のみもとに行き、あなた方はもはや私を見ない」ということとどういうふうに結び付くのか。これは福音の中味を言っている言葉であると理解すれば難問は解けるのである。
キリストが父のみもとに行き、人々は彼を見ることが出来なくなるとは、キリストがもぬけの殻になってしまわれたということではない。キリストは地上で果たすべきことの一切を果たしたもうたから、ここには在したまわないのである。これはキリストの勝利のことなのだ。キリストの勝利とは、キリスト一人が勝利し、後の弟子たちは皆打ちのめされた惨めな状態にあるということではない。キリストの勝利に信ずる者は、皆その勝利に与らせられる。それだから福音なのである。
第三点に進む。11節、「裁きについてと言ったのは、この世の君が裁かれるからである」。これは先に述べたが「私はすでに世に勝っている」と言われたことの一部である。キリストの使徒たちがこの世に派遣されて福音を宣べ伝える戦いは、苛烈を極めるということを我々はよく知っている。それは殆ど終わりなき戦いであるかのように見え、苦渋に満ちたものとして語られることが多い。それは決して間違った表現ではない。イエス・キリストはすでに確かに勝利したもうたけれども、我々は勝利を約束されているだけであり、その約束は確かであるけれども、まだ現実にはなっていない。しかし、現実が苦難に満ちていると語っているのでは福音ではない。福音の内容は勝利であり、その勝利は主として約束である。
この世に勝つのは、この世の主君を制圧したもうたからである。12章31節でも、今こそこの世の君が追い出されるであろう、と予告しておられた。14章30節では、この世の君がまさに来ようとしているが、彼は私に対して何も出来ないと言われた。この世の君が責めて来るのは、具体的に言えば、裏切りによってキリストを捕らえ、裁判に掛け、死刑を宣告し、刑を執行することだが、この世の君の思い通りになったかのようでありながら、実はキリストの勝利になったのである。
キリストが勝利し、我々がその後について行っている。そのキリストの勝利宣言が福音なのだ。この世の君であるサタンは裁かれたのである。では、サタンとの戦いは済んだのか。そうではない。サタン側の残存勢力はまだなかなか手強いのである。ウカウカしていると、こちらがやられてしまう。
それでも、キリストが勝利したもうたことは確かなのだ。そして、キリストから離れず、後について行けば。確実にキリストの勝利に与るのである。 目次