2003.09.07.

ヨハネ伝講解説教 第162回

――16:5-7によって――

かつて7章の33節で、主は言われた。「今しばらくの間、私はあなた方と一緒にいて、それから私をお遣わしになった方のみもとに行く」。………これと殆ど同じ言葉を、今日学ぶ16章5節で語りたもうのである。したがって、これを聞いて、奇異に感じることはない。だが、言わんとされた意図は全く違っている。
 7章で語られたのは、ユダヤの最高権力を持つ祭司長とパリサイ人、つまり70人議会であるが、彼らが主イエスを捕らえようとして、下役を遣わし、それが到着した時であった。それに対して言われたのは、こういう主旨であった。「あなた方は私を逮捕し、裁判に掛け、殺そうと思ってやって来た。だが、それは出来ないのだ。私はまだ暫くの間はあなた方の中にいる。あなた方は力を持つ人々であるが、思い通りにはならない。あなた方は私を裁判に引いて行こうと考えている。ところが、それは出来ない。私は私の意志で私を遣わされた方のみもとに行くのだ。その時、あなた方は私を見つけ出そうとするが、捜し出すことも。私のいるところに来ることも出来ない」。
 ところが、今、16章では、主が去って行かれたなら取り残されることを恐れる弟子たちに向かって言っておられる。この5節の前後の言葉を通して読み取れば、こういうことである。「これまでは、私があなた方と一緒にいて、あなた方の盾となっていたから、去って行く後のことについては語らなかった。しかし、私は間もなくいなくなるので、言っておかなければならない。私は、あなた方が今はついて来ることの出来ないところへ去ってしまうが、それはあなた方の知り得ず、ついて行けないところではなく、私を遣わした方のみもとであり、やがてはあなた方もそこへ行くことになるのである」。
 弟子たちにとって、主との別離は、初めてあかされることではなかった。何度も聞いている。だから、理解も覚悟も出来ていて当然であった。それでも、聞いたことがあるという程度では、分かったことにならない。すなわち、14章26節で、「助け主、すなわち、父が私の名によって遣わされる聖霊は、あなた方に全てのことを教え、また私が話しておいたことを、悉く思い起こさせるであろう」と言われたように、聖霊が来て、かつて教えられた言葉を、思い起こさせたもうまでは、聞いた言葉は頭のどこかに残っているとしても、ただそれだけで、力にならないのである。この聖霊の派遣についての教えを今回もここで繰り返し聞くのは適切である。
 主は先の4節で、「私があなた方にこれらのことを言ったのは、彼らの時が来た場合、私が彼らについて言ったことを、思い起こさせるためである。これらのことを初めから言わなかったのは、私があなた方と一緒にいたからである」と語られたが、「先には言わなかったが、今は言う」という対比に重点を置いておられるのではない。対比は、かつては私が一緒にいたが、今や、私が去って、聖霊が来て、聖霊があなた方とともにいて下さるようになったところにある。
 さて、この5節で、主イエスは「私は私を遣わされた方のところに行こうとしている」と言われる。単に、去って行く、いなくなるというのではなく、私を遣わされた方のもとに帰って行く、あるいはまた、昇って行くのだと言われる。「父から遣わされた私は、あなた方とともにいた。その私が挙げられた後に、あなた方は喪失感を味わうのではなく、むしろ充実感を持つのだ。というのは、父は私と入れ替えに聖霊を送りたまい、聖霊がいつまでもあなた方とともにいるようにしたもうからである」というのが主の言わんとされる主旨である。
 父のみもとに昇るとは、天から降って来た主御自身にとっては、栄光の位置への復帰である。また、弟子たちにとっては、やがてその後を行く栄光の道を、切り開くために先駆となって主が行っておられるという意味であって、喜ばねばならないことである。しかし、弟子たちの心は、別れることの悲しみと、その後のことの憂えに満たされていた。
 5節の終わりに、「しかし、あなた方のうち、誰も『どこへ行くのか』と尋ねる者はない」と言われた意図が何であったかはハッキリしない。けれども、続いて6節で、「かえって、私がこれらのことを言ったために、あなた方の心は憂いで満たされている」と言われたことから推測されるのは、弟子たちが気落ちして何も言えなくなっている有様である。すなわち、これまでなら、こういう言葉を聞いたなら、彼らは、「どこへ行かれるのですか」と尋ねたのである。例えば、13章36節で見たように、ペテロは「主よ、どこへお出でになるのですか」と問うた。
 このペテロの場合にも見られるように、「どこへ行かれるのですか」との問いは、後について行こうとの思いから発せられたものである。ただし、主の後について行くとは、信仰と忠実さから生じる決意であるとは必ずしも言えないし、すぐさま腰砕けになるにもかかわらず、身の程を弁えずに勇み足になっている場合もある。それにしても、軽薄な言葉すら出て来ないほどに元気がなくなっていた。そこで主は意気消沈している弟子たちを励ますために、適切な御言葉を与えようとしたもう。
 「しかし、私は本当のことをあなた方に言うが、私が去って行くことは、あなた方の益になる。私が去って行かなければ、あなた方のところに助け主は来ないであろう。もし行けば、それをあなた方に遣わそう」。
 あなた方の損失ではない。益なのだ、と言われる。それが本当のことなのだ、と言われるのである。
 「本当のこと」、これは「真理」と言った方が通りが良いと思う人はその言葉を用いて良いであろう。ただし、真理というのは、救いへの道という意味においてである。真理による救いでないならば、いっときは救いに与った恍惚感を味わったとしても、夢は間もなく醒める。だから、我々は救いを得させる真理を求めなければならない。主は救いの真理を今語っておられる。
 だが、ここではどちらかといえば、「真実」、つまり「私が言うのは嘘ではない。本当のことなのだ。騙されることはないのだ」という含みが強いと思われる。この「真実」には二つの要件がある。一つは、本当でないように思われたけれども、本当なのだという要素、また条件である。一般的に、そして抽象的に言うならば、真理はいかにも真理らしく見えるものと思われている。誰もが真理だと見るものである。しかし、我々が信仰をもって捉える真理は、必ずしもそうではない。いや、真理であることが隠されているものこそが真理だ、と言えるのではないかと思われるほどである。
 例えば、「悲しむ者は幸いなり」と主イエスは教えられたではないか。これが真理だと言われて、その通りだと信ずる者は、そう多いとは思われないが、ある程度いることは確かである。真理に達するためには、直線的に進めば良いというのでなく、むしろ大逆転を経過しなければならない、ということが何となく分かる人はいるのである。
 人々は幸いに至ろうとして、悲しみに遭うことを避けよう避けようと努める。だが、幸福にならない。世界は不幸に満ちていて、一つの不幸を避けた空白を他の不幸が埋めるからである。こういうことを経験した人が、「悲しむ者は幸いなり」という主イエスの教えを聞いて、翻然と悟るということはあろう。これまで考えていたのと全然別の考えで切り込んで行かなければ道が開けなかったのである。
 しかし、その通りだと思う人がいるとしても、その理解がそれで十分であるかというと、そうではない。「悲しむ者は幸いなり」ということが真理だと思い込む人はその思い込みで満足しているかも知れないが、思い込みと実際とは違う。その食い違いを何とか誤魔化して辻褄を合わせようとするが、誤魔化し切れなくなる。悲しんでいる人が幸いでないというケースは幾らでもあるではないか。だから、頭の中で逆転させることに成功したからといって、正しい道を踏んでいることには必ずしもならない。すなわち、約束の確かさが真理には必要である。
 それはどういうことかと言えば、「本当のことをあなた方に言う」と約束するお方が、全く確かなお方であるという要件がなければ、これは成り立たないということである。約束が本当らしいと見えるだけでは、実は何一つ確かではないのである。真実そのものであるキリストの御口からその約束を聞いていなければならない。
 主イエスがここで言われることの一つは、御自身から引き離されることが、弟子たちにとって非常な悲しみ、苦しみ、また不安であるかのようであるが、逆転があって、これこそが却って益になるということである。が、もう一つ、そのことを保証して下さるお方が、全く真実で、全く確かなお方であるということが、この「本当のこと」という言葉のうちに篭っている。
 ここには、我々の信仰生活に関する一般的な基本的心得がある。確かなことの確かさは、それを約束し保証して下さる方の確かさに懸かっていることを忘れてはならない。キリストの約束の言葉として聞き取らなければ、確かさはない。
 だから、キリストの言われた約束がどういうことであったかを確実に把握するとともに、これを語っておられるのがイエス・キリストだということを確認しなければならないのである。
 「私は本当のことを言う」とは誰もが言うではないか。初めから騙そうとして「本当のことを言ってあげる」と語り掛けて来る人もいれば、騙す気はなかったが、結果として約束を守りきれず、人を欺くことになった場合もある。だが、キリストが言われるのはそれではない。「あの時は心からそう信じて言ったのだが、状況が変わったからその通りでなくなった」というようなことをイエス・キリストは言われない。
 「私が去って行かなければ、あなた方のところに助け主は来ない」。――これを、キリストと聖霊が入れ替わり、同時に両者が入っていることはない、というふうに受け取るべきではない。キリストと聖霊がともにおられるということは十分ある。
 主がこう言われたのは、御自身が地上に来て肉体をとって務めを果たさねばならなかった事態は終わった、という意味である。すなわち、御子が地上でなすべき業は悉く果たされ、語るべき言葉は語り尽くされようとしている。この後は御霊が来て、キリストの御業をキリストの民の一人一人に適用する段階なのだ、ということである。
 キリスト教のメッセージは確かにイエス・キリストを中心としている。しかし、キリストは世を去って、今では地上におられないではないか、一番の肝心の点が空白ではないか、と言う人はいる。しかし、我々は全然空白感を持っていない。かつて地上の一劃にキリストが臨在されることによって、その場で味わわれたキリストの御業の充実感は、今では聖霊によって全世界で味わわれているのである。
 「あなた方を捨てて孤児とはしない」と主イエスは言われたが、キリストが去って行かれた後のクリスチャンは、キリストの孤児ではない。キリストが地上におられた時と同等の状況なのである。
 勿論、キリストの御在世当時でも、彼の面前で彼をあしざまに罵る人はいたのであり、今でも聖霊の働きを無にしようとする人は夥しくいるが、かつて人間のいかなる悪意もキリストの御業を妨げ遮ることが出来なかったように、今も聖霊の御業は着実に進められている。
 今日学んで置くべきことの重要な点は、聖霊が来ることの確かさと、その確かさがどこに掛かっているかである。「もし行けば、それをあなた方に遣わそう」と主は言われる。私が遣わすから確かなのだ、と言われるのである。確かさはキリストに掛かっているのである。
 15章25節では、「私が父のみもとからあなた方に遣わそうとしている助け主」という言い方をしておられた。私の名に確かさが掛かっていると言われたのである。父から遣わされて地上に来た御子が、父のみもとに還ってのち、そのみもとから聖霊を遣わされるのである。だから「私が去って行かなければ助け主は来ない」のである。入れ替えのように受け取られるかも知れないが、ここでは御子に聖霊を派遣する権能があることが強調されている。
 すでに学んだように、聖霊はキリストによって遣わされるというだけでなく、14章26節にあるように、「父が私の名によって遣わされる聖霊」とも言われる。子が遣わすのと同じく、父が遣わしたもうとも言われる。ただし、父の遣わしたもう場合も「私の名によって」遣わされるのであって、御子の関与なしには御霊は来ない。すなわち、御霊が与えられるのはキリストの民に対してなのである。
 聖霊について理解することは難しいと思っている人はクリスチャンと言われる人の中にも少なくない。聖霊について、どういうお方であるかの説明が、聖書の中に余りにも少ないと感じられているからであろう。しかも一方、聖霊の御業に関して聖書の語る機会は多いのである。そのために、聖霊を知ろうとあちこちに手を広げ過ぎて、混乱する人が少なくない。ヨハネの第一の手紙の3章に、全ての霊を信ずることをするな。その霊が神から出たものなのかどうかを吟味せよ、と警告されているように、信じてはならない、いかがわしい霊がある。それが聖霊と呼ばれることすいらあるかも知れない。
 聖霊については、キリストから聞くというのが聖霊理解の大原則である。聖霊はキリストが遣わされるもの、あるいは父なる神がキリストの名によってキリストの民に遣わされるもの、それが聖霊なのである。キリストの名によって来たものでなければ、聖霊として信じてはならない、と言い切るなら、聖霊の自由で広範な働きを人間が制限することになり兼ねないのではないかと言う人があろう。キリストによって遣わされていない、と言い切れないとしても、キリストから遣わされたと説明することが、我々の弱い理性では力に余る場合が、特に旧約聖書には多い。しかし、古き約束がキリストによって成就されたこの新約時代の今、聖霊理解をキリスト中心に絞り込むことは許される。
 14章9節で聞いた言葉をここで思い起こすのである。「ピリポよ、こんなに長くあなた方と一緒にいるのに、私が分かっていないのか。私を見た者は父を見たのである。どうして、私たちに父を示して欲しいと言うのか」と主イエスは言われた。――この御言葉に即して、聖霊をも理解することが出来ると心得ておこう。
 私を見た者は父を見た、と言われたのと同様に、私を知ったものは聖霊を知ったのだ、と主が言われると取ることが我々には出来るのである。  

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