2003.08.24.

ヨハネ伝講解説教 第161回

――16:4-6によって――

 「私があなた方に、これらのことを言ったのは、彼らの時が来た場合、私が彼らについて言ったことを思い起こさせるためである。これらのことを初めから言わなかったのは、私があなた方と一緒にいたからである」と4節に言われる。
 躓きの時が来ているのである。しかし、あなた方は躓くことはない。あなた方が躓かないように、躓きを克服するための私の言葉を聞くがよい。あなた方が躓くことのないように、私はこれらのことをあなた方に語ったのである、という主旨のことを語られた次第は前回のところで聞き取った。
 弟子たちが今、躓きに曝されながらも、躓かないのは、目の前に起こっていることが、先に主イエスによって予告されたことであるのを思い起こし、驚き慌てることはないと確認するからである。
 では、先に主イエスが言っておられ、そして今起こっていることとは何か。それは、簡単に、そして通俗的に、また大雑把に言うならば、今日学ぶところには用いられていない言葉であるが、キリストの苦難と栄光である。「苦難と栄光」と言ったが、二つの事柄として把握するよりは、むしろ一つのこととして捉える方が的確な理解である。
 苦難が先ず襲い掛かり、それにひたすら耐えて後、栄光を受けるという捉え方も間違っているとは言えない。しかし、ヨハネ伝では、十字架につけられることがすなわち高く上げられることであると把握するように我々を導いている。このことは何度も学んだところである。
 以上のことを見た上で、次に、やや詳しく主の言葉を読み解いて行くことにする。
 「あなた方にこれらのことを語ったのは………」。「これらのこと」が何であるかは上に大雑把に見た通りであるが、「言っておいた」というのは、何時言われたことを指すのであろうか。先ず思い起こされるのは、13章19節である。こう書いてある、「そのことがまだ起こらない今のうちに、あなた方に言って置く。いよいよ事が起こった時、私がそれであることを、あなた方が信じるためである」。――このことを受けて、今ここで、「あなた方に言っておいた」と言われると見て良い。
 しかし、ある特定の時に語られただけでなく、常々繰り返し教えられたことも思い起こさなければならない。マタイ伝の16章21節に、「この時から、イエス・キリストは、自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目に甦るべきことを、弟子たちに示し始められた」と記されている。これは、マルコ、ルカの福音書にも書かれていて、福音書の中で重要な箇所である。キリストであるとは、十字架につけられて殺され、三日目に甦ることと結び付く。同じ言い方はヨハネ伝にはないが、記録されていないだけであって、ヨハネがそれを打ち消していると考えることは全くの錯誤である。
 「この時から」とマタイのいう「この時」とは、福音書のその前の記述から読んで来れば明らかであって、ペテロがキリスト告白をした時である。主は「この時から」キリストがキリストである奥義を示し始めたもうた、と言うのである。それまでは教えておられなかったが、この時教え始め、それ以来ずっと教えておられた、という事情が見えて来るではないか。
 ところが、実際、このように繰り返し教えられていても、主の受難に際して、弟子たちが非常に動揺して散り去ってしまったことは事実である。だが、彼らが主の言葉を思い起こして立ち返ったということも事実である。
 それでは、その時、すなわち、主イエスがピリポ・カイザリヤに弟子を引き連れて行かれた時以前は、これを教えておられなかったということになる。これは、その通りに取って良いのであるが、ペテロが告白した事件、その告白内容との関連を第一に見なければならないという点は重視したい。
 だから、その時から示し始めたもうたと文字通り受け入れるのであるが、キリストの生涯における部分的なこと、とは見ないで、キリストが全生涯にわたって、その全存在をあげて、これを示しておられた、というふうにも読み取らずにはおられない。したがって、ここで思い起こさねばならないのは、マタイ伝11章6節の「私に躓かない者は幸いである」の御言葉である。これは、何かの付け足しに言われた言葉でなく、私に躓くな、と全人格をかけて私に迫っておられる言葉である。
 これは、私の言った言葉に躓くとか、私について語られた言葉に躓く、とか、私の何かの事件を見て躓くというのではない。キリストそのものに躓かないように、むしろ、キリストを全面的に信じなければならない、ということが語られたのである。これがキリストの福音の中心部分であると言うならば、舌足らずであるため、誤解を招く恐れがあろうが、福音を突きつけられて、これに躓くか、これを信ずるか、の岐路に立って福音を聞き取らなければならないことは確かである。
 13章19節では、「事が起こった時、私がそれであることを、あなた方が知るためである」と言われた。「私がそれである」とは、「イエスがキリストである」ということ、これをもっと強く言った言い表わしである。そのことは以前はウスウスしか分からなかったが、その日に預言の通りのことが起こるのを見たから、分かるのだと言われる。これは、おぼろげだったことが次第に分かって来る、という分かり方ではない。そこで一挙に分かる。そこで躓くか、そこで信じるか、という問いを突きつけられたところで、躓きを捨てて信仰を受け入れるから、分かるのである。まさに、「私に躓かぬ者は幸いなり」と言われた通りである。
 さて、「彼らの時が来た場合」と言われる「彼らの時」とは何か。彼らとは誰か。――それはこの世の人々、特にイエス・キリストに敵対する人のことであろう。彼らは単なる無理解ではなく、キリストに徹底的に逆らうのである。神を信じるけれども、神の子には逆らう、というのでなく、15章23節で、「私を憎む者は私の父をも憎む」と言われた通りである。知らずして神に逆らったのではなく、知っている。24節に「彼らは私と私の父とを見て憎んだ」と言われる。見ることによって、ますます憎んだ。「『彼らは理由なしに私を憎んだ』と書いてある彼らの律法の成就のために」父なる神とキリストを憎んだ。その彼らである。
 ルカ伝22章53節、これはゲツセマネで御自身を逮捕するために大祭司から遣わされて来た人たちに向けて言われた言葉である。そこでは「毎日あなた方と一緒に宮にいた時には私に手を掛けなかった。だが、今はあなた方の時、また闇の支配である」と語られた。そのところで、「彼らの時」がハッキリ示された。あなた方の時だから、あなた方がしようととしていることは出来るのである。ただし、彼らがしようとすることは何でも出来るということではない。ヨハネ伝14章30節には、「この世の君が来る。彼は私に対して何の力もない」と言っておられる。
 ヨハネ伝14章30節で、「私はもはや、あなた方に多くを語るまい。この世の君が来るからである」と言われた。その時の「この世の君」、これの支配が「闇の支配」である。それが、「彼らの時」と言われることと同じである。
 この世は悪の支配のもとにある、と言われることが多いが、悪がいつでも思いのままに振る舞うことが出来るわけではないということも分かっている。善が勝利しているとは必ずしも言えないが、悪の支配は規制されているのである。だから、主イエスが毎日、宮で説教しておられた時、ユダヤ人たちは主を逮捕することが出来なかった。すなわち、民衆の見ている前で無法なことは出来なかった。
 そこで、尋常のことをしていては、主イエスを殺すことが出来ないので、彼らは焦って恥ずべき策略をめぐらしたわけであるが、人間の策略によって無法のことが常に出来るとは言えない。彼らの時が来なければ出来ない。今、その「彼らの時」の内部に入り込んで論じる余裕はないが、イスカリオテのユダが主イエスを引き渡すというような非道なことは通常は出来なかった。彼らの時だから出来たのだ。
 もっとも、「彼らの時」とは、神の摂理が封じ込められて、彼らが思いのままに悪事を働くことが出来る時という意味では全然ない。「彼は私に対して何の力もない」と言われる通りである。彼らが思いを遂げたと見られることはその通りであるが、彼らの時と見えるものは、実は神の時、主イエスが「私の時」と言われる時であった。キリストの時については、7章6節に、「私の時はまだ来ていない」と言われ、17章1節で、「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を顕すように、子の栄光を顕して下さい」と言われるように、父なる神の栄光、子なる神の栄光が今や輝き出る時である。
 「彼らの時が来た場合」……、彼らは神に対して最大限の反逆を試みたのである。だが、それはキリストの栄光が地に落ち、闇に没したかのように見られたとしても、実は、キリストの栄光の輝き出る時であった。そのことを主イエスはこれまでにしばしば教えておられた。それを弟子たちは思い起こし、躓きへと落ちて行くのでなく、むしろ確信に堅く立つよう導かれるのである。
 「これらのことを初めから言わなかったのは、私があなた方と一緒にいたからである」と言われる。今の今まで、秘めていた、ということでないのは、すでに触れた通りである。何も言わなかったとは、言う必要が余りなかった、あるいは、言ってもその適切な意味は分からなかった、ということである。
 「初めから」とは、彼らが弟子となった初めの日から、という意味である。これはヨルダンのほとりで、バプテスマのヨハネが、「見よ、世の罪を負う神の小羊」と弟子たちに言った日であった。すなわち、キリストの死は最初の日から語られていた。だが、「あなたがたと一緒にいた間は、こういうことを言わなかった。言う必要がなかった」という主旨である。つまり、17章12節で言われる通りなのである。「私が彼らと一緒にいた間は、あなたから頂いた御名によって彼らを守り、また保護してまいりました」。――そのように、主イエスがともにいます間は、弟子たちは何も知らないままに守られていた。
 しかし、主は今まさに去って行こうとしておられる。弟子たちは危険に備えて、自分で自分の身を守らなければならない。だが、キリストの弟子が自分の身を守るというのは、修業を積んでそれが出来るようになるということとは違う。約束された教えを思い起こし、これに堅く立つことによって躓きに勝利するのである。
 「思い起こす」という言葉は、先に14章26節で学んだように、信仰にとって重要であるが、これは聖霊の働きである。忘れないよう、私がシッカリ心に刻んでおけば良いと取るならば、不確かな把握である。私の頑張りではなく、聖霊の働きに全ては懸かっている。このことは、すぐ後に、7節で、「私は本当のことをあなた方に言うが、私が去って行くことは、あなた方の益になるのだ。私が去って行かなければ、あなた方のところに助け主は来ないであろう。もし行けば、それをあなた方に遣わそう」と言われる。この御言葉については後ほど学ぶことにして、5節に進むことにする。
 「けれども、今私は、私を遣わされた方の所に行こうとしている。しかし、あなた方のうち誰も『どこへ行くのか』と尋ねる者はない。却って、私がこれらのことを言ったために、あなた方の心は憂いで満たされている」。
 先に、13章36節で見たのであるが、ペテロは主イエスに「主よ、どこへおいでになるのですか」と問うた。かなり危険なことが予感されていたが、ペテロは主について行こうとした。さらに、我々の記憶にあるのは、最初の弟子が主イエスに出会った時、「何か願いがあるのか」と主から問われて、「先生、どこにお泊まりですか」と問うた。「どこへ行かれますか」というのと同じ意味であろう。こうして、彼らの、主について行く歩みが始まった。
 ところが、この終わりの夜、先ほどペテロが聞いたのであるが、「私のために命を捨てると言うのか。よくよくあなたに言って置く、鶏が鳴く前に、あなたは私を三度知らないと言うであろう」と答えられて後、ペテロは沈黙してしまった。他の弟子の誰も「どこへ行かれますか」とはもはや問わなかった。恐怖と失意によって物が言えなくなっていたのである。
 「どこへ行くのか」と尋ねる者がいないのは遺憾であると主は言われる。ここでこそ、弟子たちは「主よ、どこに行かれますか」と問うべきであった。
 主イエスと弟子たちの見解が全く食い違っていることが見られる。主イエスが御自身を遣わしたもうた父のもとに昇ろうとしておられるのに、弟子はそのことに無関心である。今、弟子たちが非常に心細い思いをしていることは容易に理解出来る。彼らにして見れば、頼りにしていた主が取り去られ、悪意に満ちたこの世に置き去りにされるのである。しかし、彼らは今こそ、肉の目で主を見、主がともにいますことを目で見て確認する段階を脱皮して、一段上に進まなければならない。
 主はご自分を遣わされた父のもとに昇って行くことを喜びをもって語っておられる。そのことについて弟子たちは、「どこへ行かれるのですか」と問おうともしない。去って行かれ、別れてしまうことが悲しくまた心細いというだけである。
 「あなた方のために場所を用意するために行く」と言われた主を追って行くというのは、信仰の弱い我々には無理かも知れない、しかし主の行かれるところを慕い、仰ぎ見るようにしよう。
 

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