2003.08.17.

ヨハネ伝講解説教 第160回

――――16:1-3によって――

  「私がこれらのことを語ったのは、あなた方が躓くことのないためである」。――このお言葉は、躓きが迫っていること、しかし、その躓きを乗り越える約束があることを示したものである。
 意味としては難しくない。かと言って、軽々と読み進んで良いものではない。深刻な問題なのである。しかし、それの克服が約束されている、というところをシッカリ掴まなければならない。
 「躓き」という言葉は我々の良く使っているものである。したがって、意味は分かっているつもりである。分かっていると思っていることを混ぜっかえす必要はないが、この際、キチッと捉えておくことは有意義である。躓きとは最も単純に言うならば、信仰を捨てることである。また、信仰を捨てさせる力が迫って来る時があると言われる。
 ここで「躓き」と訳されている言葉は、我々の持つ聖書では、時に「誘惑」とも訳される。今、言葉の意味について詳しく論じる時間ではないと思うので、僅かに触れるだけにして置くが、我々のもっている固定観念に当てはめて、主イエスの言われた言葉を狭くまた低く割り切ってはならない。
 ヨハネ伝では、6章の60節以下で、躓きという言葉を読んだことを思い返してみよう。「弟子たちのうちの多くの者は、これを聞いて言った、『これはひどい言葉だ。誰がそんなことを聞いておられようか』。しかし、イエスは弟子たちがそのことで呟いているのを見破って、彼らに言われた、『このことがあなた方の躓きになるのか。それでは、もし人の子が前にいた所に上るのを見たら、どうなるのか。……』」。
 今、弟子たちのうちの多くの者は、人の子の肉を食べる、という言い方に躓いている。すなわち、主イエスに対する信仰を失ったのである。ここで言われたことがキリストの十字架の死を指していることは我々には分かっている。人々が躓いたのは、救い主が十字架につけられ、殺されることであるが、それだけではない。殺されるその人の肉を食べるという表現にも、いたく躓いたのである。十字架の躓きということは、しばしば聞いている。だから、我々は己れの信じまつる主が十字架につけられたことを聞いて、躓かないで、むしろ、そこにこそ我々の依って立つべき基礎があることを確認し、証しする。が、それだけでなく、人の子の肉を食べるという言葉で言い表わされているキリスト伝達の方法にも躓かむようにしなければならない。すなわち、キリストの教会の中で代々にわたって受け継がれて来た聖なる晩餐が、風習として定着するのでなく、そのことの意味をその都度、新しく受け取って、命が新たにされることの証しとしなければならない。
 さらに主イエスは「人の子が前にいた所に昇るのを見たならどうなるのか」と言われる。すなわち、キリストの復活と昇天のことを言っておられるが、それは、十字架が躓きである以上の躓きだという意味をこめて言われたのである。
 このように6章の御言葉に戻って見ることによって、主イエスが躓きの時が迫ったことを語ろうとしておられた意図は明らかになった。
 ヨハネ伝の記事にはないが、他の福音書のゲツセマネの祈りのくだりで、主は、「誘惑に陥らないように祈れ」と3人の弟子に言っておられる。ここで言われた誘惑という言葉は、躓きと訳されるものと同じではない。しかし、ギリシャ語で伝えられた主イエスの言葉としてそうであるというだけで、主が実際に使っておられたアラム語ではどうだったかは別問題である。このことに深入りして時間をとることは賢明でないから避けるが、誘惑と躓きを置き換えて見ることは無謀ではない。少なくとも、躓きと誘惑はある部分重なった意味を持つ。それだけ分かれば、かなりのことが読み取れるのである。
 躓きの時が来ているのである。信仰がはぎ取られようとしている。その躓きの時として、キリストの受難が先ず上げられるが、先に見たように復活・昇天も躓きの継続である。さらに、今日学ぶところでは新しい事柄が付け加えられる。
 「人々はあなた方を会堂から追い出すであろう。更に、あなた方を殺す者が皆、それによって自分たちは神に仕えているのだと思う時が来るであろう」。
 キリスト者に対する迫害が起こる、と予告しておられる。これが躓きに加えられる。16章の躓きは迫害である。その躓きの実情はヨハネ伝の中には書かれていないが、どういうものであったかは使徒行伝や使徒書簡、また黙示録から知ることが出来る。
 躓きが信仰者に常に付き纏うということは言って良い。それとともに、特別な躓きの時というものがあることを我々は知っている。特別な躓きの時という言い方はヨハネ伝では聞かないが、主が言っておられる躓きがこういうものであると読むなら、ズッと明快に読み取れると思う。ルカ伝22章28節に記された言葉であるが、主はこう言われる。「あなた方は、私の試錬の間、私と一緒に最後まで忍んでくれた人たちである」。
 これは試錬の時がもう過ぎ去り、試錬への勝利が勝ち取られたという意味で言っておられるのであって、では、最後の晩餐の時には試錬は終わっていたのか。このあとゲツセマネに行って40節で、「誘惑に陥らないように祈れ」と言われたのはどういうことなのか、と問われるかも知れないが、誘惑は何度も波状攻撃を掛けて来る。
 ルカ伝で主イエスは直ぐに言葉をついで、31節に「シモン、シモン、見よ、サタンはあなた方を麦のように篩に掛けることを願って許された。しかし、私はあなたの信仰がなくならないように祈った」と言われる。ペテロも誘惑、あるいは試錬に合った。
 我々がよく知っている通り、ペテロはこの後も迷うのである。だから、躓きを乗り切ったとは決して言えないのであるが、主は彼のためにすでに勝利を獲得しておられた。それがいつの事であるかは我々にはよく分からない。しかし、それが分からなくても、とにかく、一つの躓きの山を越えたと言っておられると分かれば良い。ゲツセマネもゴルゴタも一つの山であった。
 ゴルゴタは主にとっては最終の勝利であった。だから、ヨハネ伝19章30節で言われたように、「すべては終わった」のである。ただし、弟子たちにとっては、躓きを乗り越えて行く戦いはむしろこれからである。
 「人々はあなた方を会堂から追い出すであろう」。――「会堂」というのは安息日に人の集まる入れ物ではあるが、会堂から追い出すという言い方は、そのように集まって礼拝を守る共同体、祝福に与る共同体、ユダヤ人の共同体から追い出すことを意味する。
 確かに、初期のキリスト者たちはユダヤ人の共同体から閉め出された。しかし、閉め出された人がある程度纏まった数であったから、彼らは彼らで団結し、孤立感はなかった。ユダヤ人がローマ軍に対する徹底抗戦を叫んで、エルサレムに籠城しようとした時、キリスト者たちは主イエスの教えを守って、戦いに参加することを拒否し、一致してエルサレムを退去し、ペラという町に移った。彼らは会堂を追われた人には違いないが、会堂を追い出されるということは、ここでは意味が変わっている。
 同胞や隣人がここに立て籠って戦死しようとしている時、それを見捨てて去って行く辛さがあったことは想像に難くないが、今はそれに触れない。
 会堂から追い出されると聞く時、我々の思い起こすのはヨハネ伝9章に記されていた盲人のことである。彼は何も知らない段階で、安息日に、主イエスから「シロアムの池に行って目を洗え」と指図され、分からぬままに従順に命令を実行した。そして目が見えるようになった。単に目が見えるようになっただけでなく、心の目が見え始めた。主がシロアムの池に行かせたもうたのは、神から遣わされた御子に対し信仰の目を開くためであったことも、だんだんに分かって来る。
 彼は初め、イエスという人が「シロアムの池に行って目を洗え」と言ってくれたことだけしか知らない。一段一段と彼の目が見えるようになり、ユダヤ人は彼を会堂から追い出す。追い出されて、行く所がなくなって、彼は主イエスのもとに来て、その目が最終的に開かれて、「主よ、私は信じます」と言う。
 彼のケースでは追い出された後で告白するようになったが、書かれているように、ユダヤ人らは、その前にイエスをキリストと告白する者があれば、会堂から追い出すことに決めていた。とにかく、この盲人だった人は、彼一人追い出されたのである。彼の両親も追い出されることを恐れて、ハッキリしたことは言わず、「あれに聞いて下さい」と言って逃げたのである。
 会堂から追い出されるということに含まれる意味の一つに、孤独にされる、人から相手にされなくなる、社会的に葬られるということがある。簡単に言えば、村八分にされて迫害されるのである。さらに、神の祝福を受ける共同体から疎外され、祝福の確信も奪い去られようとする。親しい人もこの盲人の父母のように、村八分にされることを恐れて、言うべきことも避けているようではキリストに永遠に近づけない。
 今、そのことを思い起こすならば、主イエスが16章2節で言っておられることは、キリストを告白する者がユダヤ人の会堂から追い出されることについてであると考えられる。こうして、一人一人が孤立化され、追い出された後、それらの人々が結集されてキリストの教会を建てるのである。
 しかも、それで終わりではない。悲しいことであるが、キリストの教会の中で、会堂から追い出されると言う悲しい事件がなくならない。教会がキリストの民の聖潔を守るために、汚れた者、キリストの民に相応しくない者を放逐することはある。しかし、間違ったことをしたわけでなく、異端的な信仰に走ったのでもなく、むしろキリストの言葉を守ろうとしたために、教会内で孤立し、放逐されるという実例がある。
 本当は、その人を追放した人こそが追放されなければならないのに、逆のことが起こる。追い出された人は黙っているため、ことが収まってしまったと見られる。キリストの教会と言っているものが実はサタンの会堂である、という場合がある。キリストがこの御言葉によってそこまで言っておられるかどうかは、判定し難いのであるが、現実問題として、そうであったのではないかと考えざるを得ない場合もある。
 例えば、神の言葉によって教会を改革すべき使命を与えられた改革者が、カトリック教会から破門されたり、教会裁判に掛けられて焼き殺されたりした実例が少なくない。多少それに似た経験を味わった人はさらに多い。
 今回はそういうケースを大きく取り上げないで置くが、事勿れ主義からそう言うのではない。この問題は躓きを克服させるという文脈の聖句の解き明かしとして論じるよりは、キリストの教会に相応しく整えられねばならない、ということを論じる聖句の釈義の中で論じる方が適切だと思われる。それでも、今、このことは言って置かなければならない。キリストの名に忠実であろうとして、それだのに、いや、それ故にこそ、キリストの教会と称する集団から追い出される人があっても、その人は、キリストがともにいて、真実がついに勝利するようにして下さるとの信頼を失ってはならない。
 主は言われる、「更に、あなた方を殺す者が皆、それによって自分たちは神に仕えているのだと思う時が来るであろう」。――信仰の故に命を捨てねばならない場合についての教えであるが、厳密に言うならば、単なる権力による迫害を言ったのではない。「それによって自分たちは神に仕えているのだと思う時が来る」と主は言われる。迫害する彼らは信仰者であると自認している人たちである。
 彼らはキリストの弟子に「お前の信仰を捨てよ、そうすれば刑罰を免れる。信仰を捨てないなら殺す」と言って脅迫する。
 神を信じる人が神の言葉に従う人を殺すというようなことは、考えられないかも知れない。だが、回心以前のパウロのしたことを思い起こすならば、そういうあり得ないと思われる事件があるのだと悟ることが出来る。パウロはアグリッパ王の前で、「私自身も、以前には、ナザレ人イエスの名に逆らって、反対の行動をすべきだと思っていました。そして私はそれをエルサレムで敢行し、祭司長から権限を与えられて、多くの聖徒たちを獄に閉じ込め、彼らが殺される時には、それに賛成の意を表しました」と言っている。使徒行伝26章9,10節である。
 それはユダヤ教の中で起こったが、先ほど触れたように、キリスト教の中でも起こるのである。正しいのに、教会の名で断罪される場合がある。例えば、教会が、神社参拝は国民の儀礼なのだから、キリスト信者がこれを行なっても信仰に反することにならない、と決議したとき、それに反対し、反対のことを教えた牧師は、牧師職を剥奪されたことがあるのである。
 教会の名で断罪されると、された当人にとっては大変な苦痛であり、また不安である。我々はキリストから来る救いがキリストにある交わりの中でこそ現実なのだと教えられ、教会の外には救いはないと承知しているからである。
 だから、自ら健全な信仰を持つと思っている者は、その確信に基づいて大変な反逆をすることがあるかも知れないと自らをよく吟味しなければならないのであるが、ここでは主の言われた本来の意味からは、そのような躓きに際しても、主の遣わされる助け主が助けを与えたもうことを信じなければならない。
 「彼らがそのようなことをするのは、父をも私をも知らないからである」。
 彼らが御子を十字架につけたのは神を知らなかったからであるが、キリストから遣わされた使徒たちを迫害するのも同じ理由である。キリストもキリストから遣わされた者も同じに扱われる。
 神に仕えていると自分では思っているが、神を知らず、神から遣わされた御子をも知らないから、自分の判断を絶対化して神の御旨に従っていると思いながら、実は神に楯突いているのである。しかし、知らないからそうしたのであって、知ったなら、そうしなかったであろう。ルカ伝のゴルゴタの場面で、主は「父よ、彼らを赦したまえ、そのなすところを知らざればなり」といわれたように、知らずに犯した罪については赦される。しかし、知ろうとしないなら、罰を免れることは出来ない。
 

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