ヨハネ伝講解説教 第159回
――15:26-27によって――
「私が父のみもとからあなた方に遣わそうとしている助け主、すなわち、父のみもとから来る真理の御霊が下る時、それは私について証しをするであろう」。
この前、聖霊について学んだのは14章16-17節と、同じ章の26節であった。16-17節では、「私は父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなた方と共におらせて下さるであろう。それは真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受ける事が出来ない。あなた方はそれを知っている。何故なら、それはあなた方と共におり、またあなた方の内にいるからである」と言われた。
26節では、「聖霊は、あなた方に全てのことを教え、また私が話しておいたことを、悉く思い起こさせるであろう」と教えたもう。今、その教えの解き明かしを繰り返すことはしないが、それを踏まえて、それを再確認して、今日の学びに入らなければならないことは言うまでもない。
今日教えられる教えはそれらとは別の面についてのものであるが、前に出た教えと重複する部分があるから、その言葉は重複して触れておかねばならない。それは、真理の御霊ということと、御霊の派遣ということである。ただし、御霊が遣わされることについて同じことが繰り返されているわけではない。14章26節では、「父が私の名によって遣わされる聖霊」と言われた。今回の所で言われるのは、「私が父のみもとからあなた方に遣わそうとしている御霊」という御言葉である。「遣わす」、あるいは「遣わされる」という言葉はヨハネ伝の中に屡々繰り返される重要な言葉であることが先ず思い起こされなければならない。
すなわち、1章の初めにヨハネが遣わされるということが福音のプロローグとして語られて福音が始まる。このことについては、後でもう一度触れる。さらに、その福音の根幹に関わることとして、「父が私を遣わす」と言われ、その直線上に「父が私を遣わされたように、私はあなた方を遣わす」と言われることについては何度も触れて来た。この派遣は主イエスが選びたもうた12人の弟子について言われたことであるが、我々はその派遣が12人で止まってしまうのでなく、遥か後の時代に生きている我々にも、殆どそのまま当てはまる真実であることを信じている。要するに、「信じる」ということと、「遣わされて在る」ということとは同じ事ではないが、常に、完全に結び付く。信じていると言うけれども、遣わされて生きるという意識も現実もないなら、その人の言う信仰は問題ではないかと疑われるのである。
父が御子を遣わしたもう時、父は御自身に固有な全ての権能と栄光を御子に託して遣わされる。その権能を代表する、また分かり易いのは、10章18節であろうと思う。
「私にはそれを捨てる力があり、またそれを受ける力もある。これは私の父から授かった定めである」。――これは命を捨てる権能と復活する権能を言われたものである。
それと比べると、弟子たちが、引いては我々が遣わされる時、我々は主の謂わば代理人として遣わされるのではあるが、権能と栄光を託せられたのではない。
我々に託されたのは、福音であり、また愛の戒めである。福音に生きていること、愛に生きていることがなければ、遣わされているとは言えない。では我々は全く無力な者として、福音を携え行くのか。ここはもう少し丁寧に論じて置く必要がある。すなわち、我々には権力も栄光もないのであるが、我々に委ねられている福音には権力、力がある。だから、20章21節で、「安かれ。父が私をお遣わしになったように、私もまたあなた方を遣わす」と言われた時、続けて、「あなた方が赦す罪は誰の罪でも赦され、あなた方が赦さずに置く罪は、そのまま残るであろう」と言われた。福音には罪を赦す力があり、福音を正しく宣べ伝える時、その力は現実となる。
我々が遣わされているということについて、今はここで留め、聖霊が我々に遣わされるという約束に移って行きたい。御子も、聖霊も、父から遣わされるのであるが、御子についてはまた、「父から生まれる」と言われることもある。しかし、聖霊が御父から生まれるとは言われない。
「生まれる」のでなく「遣わされる」という点に御霊についての理解の一つの要点がある。すなわち、御霊が父の御霊、また御子の御霊として理解されるのは正しいが、それが本体の分身、株分け、全体からの一部分の流出、生むものと生まれるものとの渾然一体の関係というふうに捉えてはならない。遣わす、遣わされるという関係がある。別人格だから遣わし、遣わされるのである。だが、御霊が遣わされるのと、我々が遣わされるのが同格ではないということも我々は知っている。聖霊は被造物ではない。むしろ、「造り主なる御霊よ」と呼ばれたもう。
聖霊が派遣されるという、その派遣について、なお論ずべき点が幾つかあるが、今日は誰から派遣されるか、派遣の主体は誰であるかについて学ばなければならない。
先には「父が私の名によって遣わす」と言われた。それに当たるところを、今回は「私が父のみもとから遣わす」と言われる。この二つの言い方は確かに違う。しかし、矛盾するのではない。
父が遣わすのか、御子が遣わすのか。同じことだと言うなら、余りに単純化し過ぎている。この両方を捉えることによって、我々の信仰理解はハッキリするし、また揺るぎなきものとなる。
しかし、父が遣わしたもうのは、キリストの名によってであり、御子が遣わしたもうのは父のもとからであって、御子と御父を切り離したままで御霊の派遣を理解しようとしても、実りなきものとして終わる。父なる神から聖霊が出てくるということは容易に理解されるようである。そこでは、御子の介在ということが忘れられ勝ちである。しかし、御父が遣わされるとしても御子の名によってであり、御子が遣わしたもうとしても、御父のもとから遣わすのであって、御子独自の派遣ではない。
それでは、御子が肉体をとってこの世に生まれて来られる前には、御霊はなかったのか。そうではない。御霊は永遠の初めから、御父、御子と共にあった。そのことは旧約聖書の至る所に読み取れる。すなわち、御子はまだ世に示されてはおられなかったが、初めから在ますお方で、マリヤから肉体を摂取して世に来たりたもうまでは、メシヤの来臨の約束のもとに示されていた。したがって、旧約の時代でも御子が御霊を遣わしておられた。ただ、肉体において知られたもうたのでないから、御子が御霊を遣わされたことは分かり易い形では捉えられなかった。
昔のことを論じるのはここまでにして、御子が聖霊の派遣を約束された以後の世界に住む我々は、キリストがその口から語りたもうたことを聞くようにしよう。
「私が遣わす」と言われる。聖霊の派遣に二種類あって、父が遣わす場合と、御子が遣わす場合がある、というふうに取ってはならない。この二つは同一のことの二つの面である。
今日の御言葉はキリストが聖霊を派遣したもうという面を教えている。
御子が御霊を派遣することについて我々の知り得ること、語り得ることは僅かである。ということは、僅かであっても、救いのために知る必要あることは全て教えられているという含みで理解されねばならない。だから、何でも知らされているとか、知っていると思い上がってはならないとともに、知るべきことは知っているという確信を持たねばならない、という意味である。すなわち、救いのために知るべきことに的を絞って、知るように努めなければならない。
我々が聖霊を理解する時、これを御子との関係の中で捉えなければならないということが重要である。キリストを知らなくても御霊の感化を受けることはあるではないか。確かにある。キリストと出会うまで、我々の側には全く意識はなかったけれども、御霊の守りがあったからこそ、キリストを知り得たのである。
ではあるが、だからといって、キリスト抜きで聖霊を把握することが出来ると考えては非常に危険である。なぜなら、世には御霊のようなもの、得体の知れぬ霊的なものがウヨウヨと蠢いていることを我々は知っているからである。全ての宗教がそのような霊的なものを担ぎ上げている。だが我々はキリストの遣わされる御霊だけを信ずべき霊であると確認している。
ヨハネが第一の手紙の4章で、「愛する者たちよ、全ての霊を信ずるな」と言う通りである。霊的なものはいろいろとある。霊的であれば正しいとか、崇高であるとか考えてはならない。悪霊も一種の霊的存在である。
「真理の御霊」という言葉はここで初めて聞くのではなく、14章17節ですでに学んだ。真理の御霊と言われるのは、父なる神が真理であり、御子が真理であるのと同じ意味である。
その真理の御霊の業として、今日はキリストについての「証し」ということを教えられる。「証し」という言葉も、ヨハネ伝で最も重要なものの一つである。最初この言葉が使われたのは1章7節で、そこを6節から読むと、「ここに一人の人があって、神から遣わされていた。その名をヨハネと言った。この人は証しのために来た」。
福音書の本論に入る前、序論の中に、証しする者としての水による洗礼者が登場し、それはキリストを証ししたのであるが、来たるべき霊の洗礼の証しもする。33節では、「水でバプテスマを授けるようにと私をお遣わしになったその方が、私に言われた、『ある人の上に御霊が下って留まるのを見たら、その人こそは、御霊によってバプテスマを授ける方である』。私はそれを見たので、この方こそ神の子であると証しをしたのである」と述べられている。
そのように、福音書の序論に証しする人、証しする物が語られるが、福音書の本論の中で証しが幾重にも語られる。福音書の中で証しという言葉を最も多く語るのはヨハネ伝である。そして、窮極の証しは御霊が立てる。このことについては、ヨハネの第一の手紙の5章6節では、「証しをするものは御霊である。御霊は真理だからである」と言う。
何を証しするかと言えば、「私について」だと主は言われる。すでに学んで来たように、福音の中心はキリストである。17章3節で。「永遠の命とは、唯一のまことの神でいますあなたと、また、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることであります」と主は言われる。それを信じさせるための証しとして聖霊の働きがある。
聖霊の働きとして、種々の力ある業、奇跡が考えられることがある。御霊の業として奇跡があることを否定してはならない。だが、奇跡が御霊の最も重要な働きであると見てはならない。それは奇跡を見たので主イエスを信じ、後を追って行った群衆と同じである。彼らは心から感動したのであるが、やがて躓いて去って行った。
だから、心の中が変わるような体験をしなければならない、と言う人がいるが、もっともらしく聞こえるが、人間の変わる体験というのも極めて曖昧な言い方である。焦点をそういうところに当てても実りある解決は生じない。
今日学ぶのは、聖霊がキリストについての証しを私に対して立てていることを把握せよということである。キリストが主であることは分かっている、と言うけれども、新聞で読んだとか、小耳に挟んだというような単なる知識として知っているだけではいけない。すなわち、そこではキリストはただのお話しの主人公で、私に向き合い、私にご自分を差し出し、私を解放し、私を従順ならしめたもうお方なのである。キリストが話しの中にしか出て来ない過去の方ではなく、今、現に生き、現に支配したもうお方として示すのが聖霊である。
次に、27節で、「あなた方も、初めから私と一緒にいたのであるから、証しをするのである」と言われる。弟子たちは初めからキリストと一緒に行動していた。これは、ヨルダン川のほとりでバプテスマのヨハネが活動し、主イエス御自身がそこで洗礼を受け、まもなくヨハネから離れて宣教活動を始めたもうた、その時以来、弟子たちが主イエスに従って来たことを指す。同じ事を指すのは、使徒行伝1章22節で12弟子の欠員を補充する時にペテロが言う言葉である。「ヨハネのバプテスマの時から始まって、私たちを離れて天に挙げられた日に至るまで、始終私たちと行動を共にした人たちのうち、誰か一人が私たちに加わって主の復活の証人にならねばならない」。
こうして、使徒の証しが始まった。
その証しの実例を同じ使徒行伝5章29節以下で聞こう。「人間に従うよりは、神に従うべきである。私たちの先祖の神は、あなた方が木に架けて殺したイエスを甦らせ、そしてイスラエルを悔い改めさせて、これに罪の赦しを与えるために、このイエスを導き手とし、救い主として、御自身の右に挙げられたのである。私たちはこれらの事の証人である。神が御自身に従う者に賜わった聖霊もまたその証人である」。これは今日ヨハネ伝で学んだところと重なる。
使徒はキリストの証し人、特に主の復活の証し人である。それでは、その弟子たちも全部死に絶えた後、キリストの復活の目撃者はいないではないか。
使徒行伝2章41節の記録によれば、五旬節当日のペテロの説教によって、御言葉を受け入れ、洗礼を受けた人が3000人ほどいた。彼らはペテロの証言、「あなた方が十字架につけたこのイエスを神は、主またキリストとしてお立てになったのである」と言うのを聞いて信じた。復活を見た人の証言によって見ない人も信じた。こうして、見ずして信じることがひとたび確立すると、見ずして信じた証人によって、語られた証しによって人々は信じたのである。勿論、聖霊の証しが中心的な働きをしたのである。
主イエスがここで語っておられる言葉はイザヤ書43章8節に「目があっても目しいのような民を連れ出せ」云々という所に始まる預言の成就ではないかとも言われる。
10節に「あなた方は我が証人」と言われるのである。しかも、この盲人、これはヨハネ伝9章の盲人を予め示したものではないかとも考えられる。彼はまさにキリストの証人であった。
主の訣別の説教を聞くのは11弟子であるから、9章の盲人をここに読み込むのは行き過ぎかも知れない。ただ、そのような読み方をすることが許されるならば、我々にとっては幸いなのである。証人として最も不適格と見られる人が、見えると言っている人よりも相応しい証人になることが出来るのである。