2003.08.03.

ヨハネ伝講解説教 第158回

――15:20-25によって――

  20節で主は言われる、「私があなた方に『僕はその主人に優るものではない』と言ったことを覚えていなさい」。――このお言葉を深く理解するためには、先に15節で「私はあなた方を僕とは呼ばない。私はあなた方を友と呼んだ」と言われたことを思い起こさなければならない。

   この二つの言い方は矛盾するではないか。「このような矛盾した言葉は聞くに耐えない」と非難する人が一方にいる。さらに、他方には、聖書が矛盾するとは飛んでもないことだと考え、矛盾させないようにと気を遣って、その結果、僕であることも、友であることも、両方とも中途半端で、曖昧な理解に留めてしまう人々がいる。だが、そのような中途半端な理解では何の力にもならない。

   紙の上に文字として書かれているだけの言葉を捉えるならば、「僕である、僕でない」という表現は矛盾している。しかし、事実として捉えるならば、僕である面と、僕でなく友である面とは、二つながら真実として確立している。むしろ、僕である面と、僕でない面とを、二つとも強調してこそ、真の理解が深められる。これは、説明を上手にするということではない。事実を事実としてシッカリ把握すれば良い。

   そのことを前置きとして、「私があなた方に『僕はその主人に優るものではない』と言ったことを覚えていなさい」との御言葉に向かい合う段になる。この言葉が以前に語られたのは、13章16節17節であった。「よくよくあなた方に言って置く。僕はその主人に優る者ではなく、遣わされた者は遣わした者に優るものではない。もし、これらのことが分かっていて、それを行なうなら、あなた方は幸いである」。――「その言葉を覚えておれ、思い起こせ」と主は言われるのである。

   「思い起こす」という言葉の重要さは、改めて強調するまでもない。思い起こすとは、記憶のどこかに残っていて、一度二度聞かせられたことがある、と気が付く程度のことを言うのではない。思い起こすとは、記憶の中に埋もれていた言葉を呼び起こし、目覚めさせ、活を入れ、生きた言葉として、それを自分自身の中に働かせることである。勿論、それは古いお題目を繰り返し唱えるというようなものではない。古い言葉であるとしても、使い古され、摺り切れて、命を失なった言葉が、蒸し返されるのではなく、新しく、命の言葉として働き、人を生かすのである。つまり、思い起こすとは、信仰そのものなのである。

   奇跡を見て、信じないではおられないのも信仰と呼ばれる場合があるが、その信仰は底の浅い、信仰特有の深みを持たず、理解を伴わない、はかなく過ぎ去ってしまう信仰であって、信じたからとて救いに至るわけではない。

   この「思い起こす」ということについては、14章26節の御言葉をもう一度聞きなおすのが有意義である。曰く、「助け主、すなわち、父が私の名によって遣わされる聖霊は、あなた方に全てのことを教え、また私が話して置いたことを、悉く思い起こさせるであろう」。主から聞いたことは記憶に残っていたけれども、思い起こさせられるまでは、力にならない、ただの言葉であった。そこでは、思い起こさせるのは聖霊の働きである、と教えられたのである。

   「僕はその主人に優るものではない」ということを思い起こし、シッカリ理解するなら、あなた方は幸いである、というのが先に13章で聞いた教えであった。「幸いである」とは、救いの中にいるという意味である。

   「僕はその主人に優るものではない」とは、全く平凡な言葉であって、容易に諺として定着したものであり、解説を必要としないほどである。だから、解説は省略するが、これを事実として捉えるべきことは強調しなければならない。すなわち、主に対する服従の必要が、観念として分かっているつもりだというのでなく、事実によって示されなければならない。

   この諺を主イエスはいろいろな機会に、別の意味で用いておられた。ルカ伝6章40節では、「弟子はその師以上のものではないが、修業を積めば、みなその師のようになる」と言われた。単純な修業の勧めである。マタイ伝10章24節には、今日の御言葉に近い意味で語られ、「弟子はその師以上のものではなく、僕はその主人以上の者ではない。弟子がその師のようであり、僕がその主人のようであれば、それで十分である。もし、家の主人がベルゼブルと言われるならば、その家の者どもはなおさら、どんなにか悪く言われることであろう」と言われた。

   先に、服従という言葉で表したことを、「派遣」という言葉で言い換えれば、さらに分かり易いかも知れない。実際、13章で、僕はその主人に優るものではない、と言われたのに続いて、遣わされた者は遣わした者に優るものではない、と言いなおされる。

   この派遣ということについて、これまで繰り返し注意を促されたのは、父が御子を遣わされたように、御子は使徒たちを遣わされる、ということである。これが派遣ということの意味を理解する基礎である。弟子たちが世に遣わされることは、御子が世に遣わされたことに基礎づけられることによってこそ、シッカリと把握される。我々においても同じである。

   さて、先に「私はもう、あなた方を僕とは呼ばない」と断言された。それなら、我々は自分が僕であることを忘れなければならないのではないか。それは確かに言える一面である。キリストが我々の上にいます方でなく、ともにいます方、同じ低さにまで下って来られた方として捉えなければならない。これは、主イエス御自身が語られた通りである。

   しかし、主の口から出た言葉でも、我々の理解のひ弱さの故に、落とし穴になる。

  キリストに対する恐れや恭しさを失い、馴れ馴れしく、「イエスが、イエスが」と言っている人もいる。確かに、主イエスは人々のうちの一人、ふつうの田舎者として、冠も勲章もつけずに歩いておられた。だから、敬称をつけずにイエスと呼び捨てにして良い。しかし、すぐ続いて言われた通り、「あなた方が私を選んだのではなく、私があなた方を選んだ」という関係は、覆してはならない。イエスを友人として扱う者のうちには、彼を選んだのが自分であるかのように思い込み、したがって彼の御言葉も、納得できれば受け入れるが、受け入れるかどうかの選択権は自分が持っているかのように考え、その姿勢を決して変えない人がいる。

   僕はその主人に優る者ではない、という認識は、したがって実際生活には非常に重要である。つまり、この点を捉えていないならば、イエスは道徳的にまた思想的に立派な方のうちの一人に過ぎない。教師であり模範であると受け取るかも知れないが、救い主ではない。イエスを高く評価するというだけでは、救いはない。

   次に、20節の後半である。「もし人々が私を迫害したなら、あなた方をも迫害するであろう。また、もし、彼らが私の言葉を守っていたなら、あなた方の言葉をも守るであろう」。

   僕は主人に優る者ではないのだから、主人が迫害を受ける状況の中で、僕が迫害を免れることはあり得ない。弟子たちの受ける迫害は主の受ける迫害と一つの点を除けば同じなのであり、したがって主が死に勝利されるように弟子たちも勝利する、という含みがここに結び付いている。そして、違う一つの点とは、弟子たちが受難し、命を捨てても、それによって世を救うことには少しもならないという点である。すなわち、贖い主はただ一人、贖いはただ一つである。

   世において苦しみを受けなければならないことについては、この前の18,19節でも学んだ。それは、あなた方がこの世のものでないから、この世はあなた方を敵とするからである、ということであった。

   それに続く苦難の理由の第二点として、僕は主人に優る者でない以上、主の苦しみに与るのは当然であるということが示される。

   しかし、ここでは続けて、「もし彼らが私の言葉を守っていたならば、あなた方の言葉も守るであろう」と言われる。僕が苦しみを受けることがあるとともに、その僕の言葉を世の人のうちのある者は守るのである。

   僕は主人に優る者ではないが、僕の運んで来るメッセージが主の言葉であるならば、主に属する人はその言葉を受け入れる、と言われるのである。羊は羊飼いの声を知っていて、羊飼い以外の者が呼んでも、ついて来ない、と10章で言われた。それでは、キリストの弟子は、主と同じ声色でなければつとまらないのか。そうではない、ということを我々は知っている。

   羊飼いの声という譬えで言われたのは、御言葉そのもののことである。世には一見、神の言葉のように聞こえるが、神の語りたもうたのでない言葉があるということを、例えば、預言者エレミヤが教えてくれる。この警告をよく覚えている人なら、神の言葉と、一見神の言葉らしい人間の言葉を見分けなければならないと知る。しかし、実際に識別出来るかというと、かなり難しいのではないか。

   だが、これは難しい問題ではない。我々の知恵で考えている限りは全く難しいのであるが、主の側から解決が授けられる。すなわち、主イエスは8章47節で、ユダヤ人に対して「神から来た者は神の言葉に聞き従うが、あなた方が聞き従わないのは、神から来た者でないからである」とキッパリ言われた。人々がキリストの言葉を聞くかどうか、それは、神から来た、あるいは神から生まれたかどうかで、すでに決まっている、と言われたところは、よく注意して聞き取らなければならない。すなわち、聞いてもすぐに信じない場合は一杯ある。そして、何度も何度も聞かせられるうちに、信じないではおられなくなったケースが多い。つまり、神の選びは隠されていて、我々の鈍さでは簡単には分からないからである。

   だから、スグには信じられず、むしろ反発し、そうでありながら、離れ切れない。

  あるいは主の言葉から一度脱出したかに見えたが、結局引き戻されるというケースがある。そのような見えざる御手の支配があるから、神から生まれた者はキリストの言葉を守り、キリストの言葉を守る人は、キリストの遣わした者の言葉をも守るのである。

   「あなた方は私に優る者ではない。だから、人々が私の言葉に聞き従わなかった以上に、あなた方の言葉に反発しても当然だ」と主が言われたことを我々は受け入れなければならない。しかし、あなた方は私よりも劣っているにも拘わらず、私の言葉を聞く限りの者なら、みな、あなた方の言葉をも聞くのだ、と言われる。言葉が誰によって運ばれるかは、大きい違いにならない。それが神の言葉か人の言葉かが重要な分かれ目なのである。

   21節に入る。「彼らは私の名の故に、あなた方に対して全てそれらのことをするであろう。それは私を遣わされた方を彼らが知らないからである」。――これは不信仰な人々がキリストを迫害したと同様に、今後は使徒を迫害することについて言われたものである。

   ただし、迫害の場合だけでなく、使徒の言葉を受け入れて、これを守る場合も同じだと思う。すなわち、それは「私の名の故に」受け入れたり、拒絶したりするのである。「キリストの名の故に」とは「キリストの故に」、つまり、復活のキリストそのものがそこにいたもう故に、という意味であって、名を貰って来ていると主張するかどうかはそれほど重要な問題ではない。

   確かに、キリストの名代として遣わされた人は、キリストの名によって語り、キリストの名によって力ある業をなす。例えば、使徒行伝3章で、ペテロが「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」と言った場合である。しかし、いちいちキリストの名によって語るとは言わなくても良い。それは自明のこととして、暗黙の了解をしているからであるとともに、キリストの名によって語っていると言いながら、偽っている場合、あるいは自分でも遣わされたと思い込んでいるが、遣わされていない場合があるからである。

   では、キリストの名の実質があるかどうかは、どこで見分けられるのか。それは、キリストの御名はキリストの御霊とキリストの命のあるところにあり、そのところで力ある業をするという事実があることによって証しされる。

   キリストの名の実質があるところでこそ、迫害も起こるし、キリストを受け入れる大変革も起こる。ということは、キリストの名の実質がなく、表面的な名前だけがあるところでは、何も起こらないという意味である。

   「もし私が来て彼らに語らなかったならば、彼らは罪を犯さないで済んだであろう。しかし、今となっては、彼らには、その罪について言い逃れる道がない。私を憎む者は私の父をも憎む。もし、他の誰もがしなかったような業を私が彼ら間でしなかったならば、彼らは罪を犯さないで済んだであろう。しかし事実、彼らは私と私の父とを見て、憎んだのである」。

   人々のキリストに対する迫害は、偶発的なものではなかった、と主御自身は言われるのである。他の誰もがしないような業を主イエスが人々の間で行なわれたから、人々は主イエスを抹殺したのである。これは具体的にはラザロの復活の事件をさしている。したがって、人々が主の弟子たちを迫害するのも、偶発的な行き掛かりや、誤解によって起こったものではない。

   主がここで語っておられるのは、「奥義」と言うほかない深遠な事柄である。奥義だからこそ、確かさがある。その奥義について、説明は無理であるし、時間を掛けて説明したとしても何も見えて来ない。

   ここではただ、「律法の言葉が成就するため」ということだけを確認すれば良い。

  それはどういう意味か。福音書にはよく、「預言の成就」ということが語られる。旧約の中で語られた言葉がキリストにおいて成就している。今回のところもそれと同じ意味であると見て良い。すなわち、「彼らは理由なしに私を憎んだ」という言葉は詩篇の中に何度か出て来る。これは、不義な人々の理不尽な扱いに苦しまされながら、義人が神の義の現われを待ち望んだ歌であると取るのが普通である。それで間違いではない。主御自身はここに御自身の苦難が予告されており、それは御自身によって成し遂げられたと言われたのである。しかし、ここではもう一つの意味がある。

   律法の成就と言うが、律法の行ないを追及する限り、完成できないことを我々は知っている。主イエス御自身の死がそれを達成すると言われるのである。その達成の宣言をここに聞くのである。

   

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