2003.07.20.

ヨハネ伝講解説教 第157回

――15:18-19によって――

 「世」とか「この世」という言葉を我々はしばしば聞くし、また自分でも使っている。聖書用語としても触れる機会が多いし、日常の言葉の中に出て来る場合も少なくない。聖書の中で世という言葉を最も多く使う書はヨハネ伝であるから、我々はこの言葉に馴染んでいる。しかし、よく分かってこの言葉を使っているとは限らない。それでも不都合があるわけでは必ずしもないから、世とは何か、ということがキチンと説明出来なければならないと考えなくてよい。世という言葉について説明出来るようになっておくことは無駄ではない。しかし、説明する必要がもっと大きい言葉は沢山あるから、そちらを優先すべきであると我々は承知している。

 別の言い方をするならば、世という語彙は、無視されて良いとは言えないが、信仰の告白の内容となるものではない。

 ただ、人に説明することが出来なくても重大な落ち度とは看倣されないとはいえ、これが言葉だけのものでなく、実際に見えていて、どんなに手強い相手であるかを感じていなければならない。これが見えていて、すなわち、あるということが体験的に分かっており、意識していており、必要な場合には警戒し、これと戦う用意をしていることは必要、不可欠である。この戦いについて、主は16章33節で、「あなた方はこの世では悩みがある。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている」と結論を下しておられる。このお言葉に支えられて、我々は雄々しく立つのである。

 キリスト者の話しの中に「世」という単語が出て来て、他の人と違った独特の言い方があることに気付いている人は少なくない。確かに、世というものを注意深く意識する点でキリスト者は信仰のない人と違っている。クリスチャンと言っていても、世というものが実感できない人があるとすれば、その人はこの世の中にドップリ漬かっているからである。その人は信仰という言葉は知っている。その知識は一応正しい。

けれども、信仰の戦いが一向に起こらない。こういう場合、世という言葉を知っているとしても、世が見えていないのである。

 一言断って置かねばならないのは、日本語聖書で「世」と訳されるギリシャ語は二つあって、意味も少し違うということである。コスモスという語とアイオーンという語である。コスモスは世界の意味であって、世界の世で表し、アイオーンは時代という意味であって、時代の代で表わすと説明すれば、分かりやすいかも知れない。しかし、我々自身も、時代の意味の世と世界の意味の世を区別なく使っていることがあり、厳密な区別は出来ないと言うべきである。

 ヨハネ伝で今日とくに教えられるのは「世」についてである。これまで、世という語が使われたことはしばしばあるが、こういうふうに教えられたことはなかった。教える必要がないと主イエスは見ておられたのであろう。すなわち、弟子たちは主イエスとともにいて、その保護に包まれていたからである。しかし、今や主が取り去られる時が来た。彼らは、謂わば、裸で寒空に放り出される。そこでは、世というものを意識せざるを得なくなるのである。

 18節で先ず聞く御言葉は、「世があなた方を憎むならば………」である。弟子たちはこれまで世から憎まれるようなことを殆ど経験していなかった。人々の憎しみの矢面には、いつも主イエスが立ちたもうた。弟子たちは無風地帯に保護されていた。17章12節では、「私が彼らと一緒にいた間は、あなたから頂いた御名によって彼らを守りまた保護してまいりました」と祈られた通りである。しかし、これからは、弟子たちは盾として庇ってくれるものなしで、矢面に立たなければならない。

 「世」というものは、必ずしも常に我々に敵対するもの、悪の塊というようなものではない。世界が善と悪の原理からなっているという通俗的な思想があり、その思想の感化で、世というものは悪だと頭から決めている人がいるが、聖書の教えはそれではない。

 我々が世の人のためになる奉仕をし、それを世が受け入れ、協力してくれるということもある。「神はその独り子を賜うほどに世を愛しあまえり」と言われる面があり、我々もそのようにして世にある人々を愛する。世を否定的に見ることはしない。

しかし、愛したのだから受け入れられて当然だと思っては行き詰まってしまう。むしろ、しばしば、愛に対して憎しみが反応として返ってくる。「世があなた方を憎む」と言われるのは、何もしないのに憎まれるというよりも、愛に対して憎しみを返されることである。

 また、これまで学んだところでも、13章の終わりで、「この世の君が近づいた」と言われたのは、世の暗黒面を指すものである。

 初めてそれを経験する弟子たちには苛酷な躓きであり、大きい試練である。ここで二つの躓きが起こる。一つは、私は愛したのに、憎しみが返って来るのは、私の愛が本物ではなかったからではないか、と思い悩むことである。こういう反省が無意味であると言ってはならない。不完全であるから批判されるかも知れないという反省と謙遜、そしてさらなる精進、これは必要なのである。しかし、神がキリストを通して愛を与えたまい、その愛の業をしているという確認は揺らいではならない。確信が揺らいで消滅するようなことであれば、愛は愛でなくなって、善意の努力だったということになってしまう。

 もう一つは、愛に対して正当に愛をもって報いてくれない世と、世の人に対する不信、憤り、憎しみという躓きである。愛は受け入れられなくても、愛の業を止めないのである。

 「世があなた方を憎む時、あなた方は私を思い見るが良い」と主は言われる。それが、18節で、「もし、この世があなた方を憎むならば、あなた方より先に私を憎んだことを知っておくが良い」といわれる主旨である。先に起こったのと同じことが後でも起こる。先には主において、後には弟子においてである。

 「知っておくがよい」とは、こういうものなのだ。例外的なことではないのだ。これこそ当然のことなのだ。だから知って置きなさい、という意味である。

 原型が先ずあって、その型にのっとって製品が作られる。我々は謂わば、ミニ・キリスト、キリストのミニアチュアである。我々があらゆる点で原型なるキリストの通りにならねばならないと考えなくて良いのだが、少なくとも我々は大いなる苦しみの中で、キリストの苦しみを仰ぎ見、キリストの苦しみに似たことが私に起こったように、キリストの勝利も私のものであると確信するのである。

 次に言われる、「もし、あなた方がこの世から出た者であったなら、この世はあなた方を自分のものとして愛したであろう。しかし、あなた方はこの世のものではない。かえって、私があなた方をこの世から選び出したのである。だから、この世はあなた方を憎むのである」。

 「この世から出た」と訳された言い方は、誤解を起こすかも知れない。「から」とは、出自あるいは帰属を示すのであって、世から出て、世を離れたという意味ではない。世から生まれ、世にそのままいて、世を代弁する。これと対照的なのは選びと派遣である。

 イエス・キリストと世との関係については、1章9-10節がある。「全ての人を照らすまことの光りがあって、世に来た。彼は世にいた。そして、世は彼によって出来たのであるが、世は彼を知らずにいた」。世はキリストを受け入れなかった。当然受け入れねばならない理由があったが、まさにその理由の故に、彼は世から忌避された。

それが弟子に対する原型である。

 弟子たちと世との関係はどうか。これは、もっと後で結論されるものであるが、17章6節に、祈りの中で、弟子のことを「あなたが世から選んで私に賜わった人々」と言われる。これは6章37節で「父が私に与えて下さる者は、みな私に来るであろう」と言われた言葉に似ている。また、17章のその少し先の11節に、「私はもうこの世にはいなくなりますが、彼らはこの世に残っています」と言われる。もう少し先、14節以下には、「私は彼らに御言葉を与えましたが、世は彼らを憎みました。私が世のものでないように、彼らも世のものではないからです。私がお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、彼らを悪しき者から守って下さることであります。私が世のものでないように、彼らも世のものではありません」と言われる。そして、18節では、「あなたが私を世に遣わされたように、私も彼らを世に遣わしました」と言われる。今17章で読んだことを今すぐ解き明かすことはしないが、今日、世について教えられることの中の、大事なことは示されたと思う。

 あなた方がこの世から憎まれる理由が示される。第一に、世のものでないからである。すなわち、世から選び取られたからであり、しかも、第二に、世に遣わされたからである。世から引き揚げられて世と没交渉になったということなら、憎まれる機会もないのだが、よに遣わされて御言葉を語るから、世から憎まれるのである。

 すでに旧約の預言者の例がある。偽預言者は人々の耳に甘く響く偽りの預言を語るが、真の預言者は真実の言葉を語る、人々はそれに反発して預言者を殺す例が沢山ある。イエス・キリストがマタイ伝5章で「あなた方より前の預言者もそうなった」と言われた通りである。

 ここで教えられる最も大事なことは、世からの選びと、世への派遣という二点である。先に、世ということについて説明がうまく出来なくても、それほど重大な欠落ではないという意味のことを言った。しかし、選びということ、次に遣わされるということはシッカリ把握して、確信していなければならない。選びと派遣ということが把握されていれば、この世が見えなくなったり、この世との的確な対応が出来なくなったりすることには決してならない。

 前回学んだところでも、「あなた方が私を選んだのではない。私があなた方を選んだのである」という重要な原理を学んだ。この選びの教えが今回のところでも大切であるから、繰り返し学んでおこう。「あなた方が私を選んだのではない」と言われたのは、あなた方が私を選んだかの如く感じられているかも知れない、という含みを持つ言い方である。実際、ガリラヤでそれぞれの生活を営んでいた者らが、その生活を捨ててナザレのイエスに従う生き方を選んだように見えたのである。それはその通りであるが、そういうことを論じていても何も出て来ない。

 私が選んだ道だから私が貫くべきであると自己確認していても、実際に道を貫くことが出来るわけではない。自分が選んだということにこだわってはならない。むしろ、それは捨てなければスッキリしない。キリストの選びだけが確かである。そこにこそ固着しなければならない。選ばれたことが確認される時に、この世が見えて来る。

 それはどういうことかと言うと、「選ばれた」とは、この世に属さないことの確認まで含むということだからである。選びについて思い巡らす時、我々はしばしば「隠された選び」について考えないではおられない。しかし、今、選びについて語られる時、隠された選びか露わに示された選びかというようなことを考えなくても善い。ここでは、選びが基礎となって、この世との亀裂が起こる。選びが基礎であるから、人間の小手先の芸で決裂を避けることが出来ると考えてはならない。

 この世への派遣については、これまでにも何度か言及された。その派遣は、「父が私を派遣したもうたように、私もあなた方を派遣する」と言われる派遣である。だから、遣わされたキリストが苦難を受けたもうたのに似た苦難が遣わされた者にある。

今日の箇所では派遣ということは出ないので、今日はこれ以上は触れないでおく。

 「もし、あなた方がこの世から出た者であったなら、この世はあなた方を自分のものとして愛したであろう」。世があなた方を憎むのは、あなた方が私の者だからである、ということを先に見たのだが、同じ趣旨を別の言い方で、あなた方がこの世に属する者でないからであると言われたのである。

 世は自分のものを愛する。ところが、あなた方は世のものではなくなっている。そのことで、世の敵意が倍加されるのである。パウロがかつてはユダヤ教の指導者として期待されながら、キリストの僕となったために、ユダヤ人から激しく憎悪されたのはその例証である。

 この世にも愛はある。自分に利益を齎らす者を愛するという愛し方である。この世に対する神の愛は、それと逆で、価しない者を愛する愛で、最も愛する独り子を惜しまずに差し出すという父の愛、また善き羊飼いが羊のために命を捨てる愛、それに倣う使徒たちの愛である。これは愛として純粋なものだから感謝をもって受け入れられるかというと、そうではない。この世の愛とは異質であるから、かえって反発するのである。キリストの死が示す通りである。

 「しかし、あなた方はこの世のものではない。かえって、私があなた方をこの世から選び出したのである。だから、この世はあなた方を憎むのである」。

 あなた方がこの世のものでなくなったのは、あなた方が世から選ばれたからである、と主イエスは明確に教えたもうた。選んだと言われたのは、神の業としての総合的なことである。選ばれた者は単に選ばれて、行くべき道が定められているというだけでなく、定められた務めに実際についていることまでを含むのである。その御業に対して世は逆らうのである。

 世から逆らわれないように旨くやれば善いということにはならない。人間の失策ということはとうぜんある。人間の落ち度によって迫害を招いたということもある。しかし、どんなに誠意があっても、その誠意が世の人に通じることは先ずないと考えなければならない。

 3章19節に、光りがこの世に来たのに、人々はその行ないが悪いために、光りよりも闇の方を愛した」と言われ、続いて、「悪を行なっている者はみな光りを憎む。そして、その行ないが明るみに出されるのを恐れて、光りに来ようとはしない」と言われる。

   

目次