ヨハネ伝講解説教 第156回
――15:16-17によって――
「あなた方が私を選んだのではない。私があなた方を選んだのである」。――これは6章70節で一度聞いたことがある御言葉である。その場合のこのお言葉は、多くの弟子たちがみもとを去って行き、12人だけが残るという彼らにとって深刻な事件のただ中で語られたものである。
多くの人は、主イエスに接して、これこそ私の求めていた主であると判断し、この方の後に随いて行こうと決心し、集まって来た。それが6章の1節から14節までに描かれていた情景である。主イエスは夜が迫っているのに、彼らが去ろうとせず、しかも食べ物を持っていないのを見て、パンを分かち与えたもうた。人々の主イエスへの傾倒は今や絶頂に達し、彼らは主イエスを捕らえて王にしようとしたした。翌日、彼らは主がここを去って行かれたのに気付いて、海を越えてカペナウムまで追って行く。そして、カペナウムの会堂で御言葉を聞く間に、彼らの主イエスに対する憧れは反感に転じ、一斉に背き去って行ったのである。
主を追いかけて行く熱心さに関しては、12弟子とその他の随行者との間に、優劣は付け難かったのである。しかし、今や画然と区別が付いた。その時、「あなた方が私を選んだのではない。私があなた方を選んだのである」という御言葉を聞いて、弟子たちは納得したのである。
さらにその際、主は「選んで置いた者の一人は悪魔である」という、その時点では弟子たちにとって全く謎としか言いようのない言葉を付け加えたもう。そのお言葉が弟子たちの間で大きい議論を呼び起こすことにならなかったのは、彼らが「私があなた方を選んだ」との主イエスの言葉で十分満足したからであろう。今、我々も「その一人は悪魔である」という句を取り上げないで良いだろう。
我々にも良く分かるはずである。自分の選択によって、この道を行くしかないと信じていた人が、「道を間違えた。ここは私の来るべき所ではなかった」と言って、あるいはそう言うこともないまま、まことの福音から離れ去って行く実例は多いのである。
「選び」という御業の理解また確認こそ、救いの確かさを把握するに際して、不可欠な要素であることを、長年の信仰生活を経て来た人ならば悟っている。主の選びにあずかっれいることの確認なしに、自分が選んだから確かだと主張しているならば、外から試みが襲って来たり、自分のうちにフト別の考えが浮かんだりすると、それまで信仰と思っていた主観的なものがガラガラと崩れる。だから、「自分で主体的に求めて来たのだ。自分が選んで、自分が確かめたのだ。自分がこの通り充実感を味わっているのだ」と言っている人は、考えを翻さなければならない。
自分で選んだ、と思って、充実感を持っている人は、「自分が選んだ」、「自分が捉えた」と言っているその「自我」を捨て去らねばならない。その自我は神を信じているつもりであっても、本当は神を立てず、自我を立てて、自分の思いのままに偶像を作っているだけなのだ。救いの確かさの懸かっている中心点を自分の側に置くことを、断念し、放棄して、自らの無力に徹しなければならない。神によって選ばれているからこそ、救いの確かさがあるということを把握しなければならない。
考え方を変えよということではない。考え方を変えることの出来た自分自身は、まだもとのままである。自分の判断、自分の選択を中心に置く考えを、神の永遠なる意志を中心とする考えと置き換えねばならないことはその通りであるが、考えが変わるというよりは、自分の存在の全体が変わると捉えなければならない。
「選ばれた」ということは、自分で計画し、自分で捜し求め、自分でことを決める在り方から、神の決定された計画のうちに置かれた生き方へと転換することである。いや、もっと正確に言えば、悪魔的な訳の分からぬ力から解放されて、神の恵みの支配のうちに安らぎを見出すのである。神の選びに捕らえられたことが確認された時、自分で全身全霊を賭けて自分の道を選び取ったというのと全然違った視野が開けて来る。すなわち、これまで見えなかった世界が見えて来る。隣人が見えて来る。今日、学ぼうとしているのはそのことである。
キリストを求め、キリストを発見し、この方を自分の主として選択し、その後に随いて行くという決断をしたけれども、去って行った人たち、――その人たちは、自分を求めていたであろうが、世界は彼らの眼中になかった。自分と自分の救いにしか関心がなかった。キリストを発見したと思った時、彼らの心は内に燃えた。そして、キリストから離れて行った時、一時的に放心状態になったであろうが、その人自身は何ごともなかったかのように、もとの生活を続けた。言ってみれば、自分の小さい部屋にスイッチを入れ、また消したと同じ程度の、心の中だけのことであった。
選ばれたことの確認は、そのような小さい問題ではない。「行って実を結べ」と言われる。「行く」と言われるのは、目の前に世界があり、そこへ乗り出して行くことであって、「実を結び」と言われるのは、世界における働きがあり、またその成果があるということである。
我々の間では、通常「選び」という言葉は「救い」の完成に至る一連の出来度との関連で論じられることが多い。それはそれで正しいのであるが、今日学ぶところでは、「選び」は「使命」、「任命」、「派遣」、「実を結ぶ」ということとの関連で選びを捉えなければならない。
今回学ぶところでは、「私があなた方を選んだ」と言われたその次に、続けて、「私があなた方を立てた」と言われた。6章で選びを言われた時は「立てる」という言葉は語られなかった。「立てる」とは、務めに立てること、派遣のための任命である。務めを遂行するに必要な祝福が伴っているということも当然である。
「立てる」と言っても、家を建てる、祭壇を建てる、教会を建てる、すなわち形成する、徳を建てる、と言われる場合とは、日本語の響きは同じであるとしても意味は違う。言葉も別である。その違いについては説明の必要もないであろう。
ここで主が言っておられるのと同じ意味、原語のテキストでも同じ言葉になっているのは、例えば、使徒行伝13章47節に、「私は、あなたを立てて異邦人の光りとした。あなたが地の果てまでも救いをもたらすためである」と言われる時の「立てる」である。これはパウロがピシデヤのアンテオケにおける説教の中で、イザヤ書49章6節から引用した言葉である。ただし、我々の読む日本語旧約のイザヤ書テキストには「立てる」という言葉は用いられていない。
ローマ書4章17節には、「私はあなたを立てて多くの国民の父とした」という創世記17章4節5節が引かれる。ここも日本語の旧約のテキストでは「立てる」という言葉は用いられていない。しかし、旧約のこの2箇所では同じ動詞が使われている。意味は旧約から新約へ一貫していることは十分確かめられる。
原語としては別の言葉が使われるが、エレミヤ書1章5節に、「あなたを立てて万国の預言者とした」と言われ、続いて10節では、「見よ、私は今日、あなたを万民の上と万国の上に立て」うんぬんと言われている。
旧約の預言者が「立てられる」のと同じように、主の教会の働き人も「立てられる」。使徒行伝20章28節で、パウロはエペソ教会の長老たちに言う、「聖霊は神の教会を牧させるために、あなた方をその群れの監督者にお立てになった」。このように主が立てたもう器があるからこそ教会は存立し、また生きるのである。
主が弟子たちを選んで使徒として立てたもうたことについては、以上でほぼ十分理解出来たと思う。使徒という言葉はここにないが、使徒とは遣わされる者であり、ここではまさしく遣わされることが主題である。
次に、「実を結び」と言われる。「行く」だけではない。また、行って懸命に働くけれども成果が上がらず、ただ御国における報いを期待するのみ、ということでもない。実を結ぶのである。では、その実とは何か。
派遣と収穫が結び付けられる場合が多い。主イエスもヨハネ伝4章のサマリヤ伝道のところで、「あなた方に刈り取らせる」と行っておられる。そして、この刈り入れ、また実は伝道によって獲得された信者の頭数だと通例、解釈されている。そう取って差し支えない場合が多いが、ほんとにそれで良いのかどうか。人々が人数を増やすことに夢中になり過ぎて、御言葉を正しく語ることを忘れてしまうという悲劇もある。
さらに、その実がいつまでも残る、と言われているのに、集まることは集まったが、実が残らなかったケースが沢山ある。主イエスがそういうことを指して、あなた方が行って結ぶ実と言われたとは思われない。
4章36節では「永遠の命に至る実」と言われているが、実は永遠の生命と結び付いている。一時的な成績を考える余地はない。
ヨハネ伝20章21-23節にはこう書いてある。「安かれ。父が私をお遣わしになったように、私もまたあなた方を遣わす」。そう言って、彼らに息を吹き掛けて仰せになった。「聖霊を受けよ。あなた方が赦す罪は、誰の罪でも赦され、あなた方が赦さずに置く罪はそのまま残るであろう」。これは父が私を派遣されたように、私があなた方を派遣する、と言われた正式の派遣の言葉である。派遣された者が何をするかを、譬えでなしに、正確に示されたのである。
主は「人数を獲得せよ」とは言われなかった。派遣されたのは「罪の赦し」を与えるためである、ということが復活の主のこの言葉で明瞭になる。罪の赦しを与えるとは、何かの物品を配って廻るように、「あなたを赦します」、「あなたを赦します」と赦しを撒き散らすことではない。罪の赦しは、福音を信じる信仰によって得られるのであるから、真の福音を宣べ伝えることによって、信仰が起こされ、罪の赦しを得させることが出来る。その実が「いつまでも残る」とは、罪の赦しが、一時的な、はかないものでなく、永遠の確かさを持つということである。
先ほど引いた20章の御言葉で、あなた方が赦す罪は誰の罪でも赦される、と言われたが、これはあなた方に罪の赦しを与える権限が授けられたという意味に取るべきではない。罪の赦しは神から受けるほかない。その赦しの恵みは、信仰を通して受けられる。そして、その信仰は福音の約束を知って、それに従うことによって成立する。弟子たちに託されるのはこの福音を宣べ伝えることである。福音を正しく宣べ伝えるなら、それを正しく聞く如何なる人の罪も赦される。
続いて言われるのはこうである。「また、あなた方が私の名によって父に求めるものは何でも、父が与えて下さるためである」。
キリストは弟子の派遣に際して何も持たせることはなさらなかった。財布も要らない、袋も要らない。杖も要らない。靴もいらない。それでは、行ったきりになって、野垂れ死にするほかないのか。そうではない。何も持って行かせなかったが、いっさいを携えて行かせたもうたのと同じであった。すなわち、彼らは必ず聞かれる祈りを携えて行ったからである。
この約束を単に伝道に行く時の持ち物、伝道者の生活における消費物についての約束と見てはならない。伝道者の生活に必要な物資があることは確かである。しかし、それだけが必要だと考えるならば、全くの間違いである。食べる物に事欠かず、体力が大いにあり、また資力があって大いに勉強しているが、その語るところは罪の赦しの力に欠けているという場合が実際ある。そういう伝道者は味を失った塩と同じで、地に捨てられ、人に踏みつけられるべきか。そうではない。彼はその欠けている霊的な賜物をキリストの名によって祈らなければならない。
私の名によって求めることは何でも叶えられる、との約束は主イエスの最後の夜の教えの中で繰り返される特徴ある、また重要な約束である。これは、私が去って行った後も、私の名で祈れば何でも得られるから、怖じ恐れることはない、というだけのことばではない。父なる神から御子キリストが遣わされたように、今度は御子キリストから使徒たちが遣わされて、キリストの業をおこなうのであるから、その業はあらゆる点で充実を保証されているのである。
弟子たちがシッカリ頑張らねばならないのはその通りであろうが、ここに最善の努力を尽くせ、という激励がある、と読み取るのは正しい理解ではない。ここで言われているのは、1つ、彼らの派遣はキリストによるキリストの名を帯びての派遣であり、2つ、彼らの務めにはキリストの業たるに相応しい一切の尊厳が備わっている、ということである。
最後に「これらのことを命じるのは、あなた方が互いに愛し合うためである」と言われる。
すでに繰り返し教えられた新しい戒めである。この戒めが与えられたことには彼らの使命が結び付いているということに我々の理解はすでに達した。愛し合う一つの共同体としてこのよに於ける使命を遂行するのである。