2003.07.06.
ヨハネ伝講解説教 第155回
――15:13-15によって――
「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」。この聖句が聖書の中で最も有名であるとか、あるいは重要であるとは言えないかも知れない。また、これは余りに重すぎる言葉だとして尻込みして、まともに向き合うことを避ける人も多いであろう。しかし、これはよく聞かなければならない主の言葉である。
また、この言葉が正しくない意図をもって、あるいは曲げられた解釈にしたがって利用されることがある。例えば、戦争の時代に、キリスト者の間では、戦争のために命を捨てるのはこの上ない愛の行為である、と力を入れて教えられていた。その教えをマトモに受け取って、戦争の虚妄を見抜こうとしないままに戦争に参加して死んで行った人がいる。教会で教えられたことを疑わなかった人の単純さを批判するのは余りに酷なことかも知れない。しかし、国のために命を落とすことが愛の業の極致であると教えて良かったのか。教会がそのような好い加減な聖書解釈を踏まえた説教をして、主の咎めを受けずに済むのであろうか。
昨今、人々の身勝手な振る舞いは目に余るものがある。そこで、人々のため、国のために犠牲を厭ってはならない、と論じる人が増えて来た。それが尤もなことであると多くの人は支持を与えているようである。こうして人々の行動と思想を国家的に統制しなければならない、と政治家たちは主張し始めた。その場合の善悪の規準はどこにあるかを問いただすと、権力を持つ者の好き嫌いに過ぎないことが露わになって来る。つまり、権力のない人々が犠牲にされることによって、世の中が統制される。そのような秩序が貴い、と教えられるようになっている。
このような悪しき時代の中で、キリストの民が、この世の権力の押し付けて来る考え方に同調しないで、主の言葉を正しく、堅固に、そして深く解き明かす道を守り抜かねばならない。
「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」。このことを主イエスは、第一に、御自身に関する事として語りたもうた。「人が……」と言われたのであるから、どの人にも適用できる。しかし、第一に、主御自身のなしたもうた御業をシッカリ捉えなければならない。そうしなければ、焦点が拡散してしまう。国のために死ぬことの意義について、教会が一番熱心に宣伝したというような忌まわしい事件は、この点の誤りから始まったと見るべきである。
特に今日、我々に差し出されている御言葉は、主イエスが十字架の死を目前にして語っておかれた箇所であって、彼の死が何であるかを教えようとされた宣言である。すなわち、前の節で、「私があなた方を愛したように、云々」と言われたが、その愛をさらに具体的に示されたのである。
「私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」と命じられたのであるから、「私があなた方のために命を捨てるように、あなた方も互いのために命を捨てるべきである」という意味になるのは当然である。だから、ヨハネの第一の手紙3章16節に、「主は私たちのために命を捨てて下さった。それによって、私たちは愛ということを知った。それ故に、私たちもまた、兄弟のために命を捨てるべきである」と言われるのは当然の結論である。
しかし、繰り返し注意しなければならないが、キリストの死、キリストの愛がどういうものであるかを、醒めた目でシッカリ掴まないままで、キリストの死が横滑りさせて持って来たなら我々の死の意義づけになると思うならば、飛んでもない間違いである。キリストの死が愛の表れであり、そこに表された愛が最大・最高の愛であるということはその通りであるが、そう言うだけではキリストの愛の実体、その愛の本当の意義は言い表されていないのである。
主は私のために命を捨てたもうた。それを愛の単なる表れとして見、またそこに絶大な表れがあると見るだけでも、感動はするであろう。だが、これを見るだけでは愛の明確な認識ではない。それ以上のことは出て来ない。
10章11節で、主は、「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは、羊のために命を捨てる」と言われた。これを今思い出さなければならない。羊飼いには羊の命を守るという職務があり、その職務のために命を投げ出すのである。
良き羊飼いでない羊飼いは、その次の節で語られた通り、狼が来れば羊を捨てて逃げるのである。そして、羊の群れは全滅する。では、良き羊飼いが命を落としたならば、狼は次に羊の群れを絶滅させるということになるではないか。そういうことが言われたのでないことは勿論である。
主イエスがここで言っておられる「命を捨てる」ことは、羊を守るためではあるが、狼と戦って食い殺されるというような意味ではない。羊飼いの命を捨てることによって、羊の命が贖われること、救うことである。これが「命を捨てる」ということの実質の意味である。
我々が兄弟のために命を捨てるのは愛の表れであり、愛に偽りがないことの証しであるし、そこに表された愛は確かに大いなる愛である。表れという点ではキリストの死と殆ど同じに見えるかも知れない。けれども、その愛によって兄弟の命を贖って、永遠の命を得させることにはならないのである。我々には人の命を贖う資格はない。贖い主は神のみである。
それでも、主が我々のために命を捨てて下さったからには、我々も兄弟のために命を捨てる必要ある場合には、命を捨てることが出来るように、普段から用意をし、修練を積んで置かねばならない。「命を捨てることよりも大きい愛はない」と言われたのは、「みんなが私に倣って命を捨てよ」という意味ではないし、命を捨てないなら愛としてまともでない、と取るべきではない。命を捨てていないことの自己弁護をしてはならないが、兄弟のために必ず命を捨てよと命じられるのではない。
余裕のある時には、「兄弟愛、兄弟愛」としきりに言っているけれども、一つしかない物を半分に割って分け合わねばならない場合があると、一つだけ自分が持っていることを人に気付かれないように隠そうという誘惑が多くの人にあるではないか。もっとも、多くの場合、一つしかない物を割って分け合うことはそれほどの困難なしに出来る。これが通常の愛の業である。
しかし、分け合うことの出来ない場合もある。一つしか救命具がなく、それを二つに切り裂くならば二つとも用をなさなくなる。そういう時には、一人がこれを取り、もう一人はそれを譲るのである。口先だけの愛でなかったことは、そういう所でハッキリ証明される。それは、或る意味でイエス・キリストの死に倣った愛の業であると言えなくないが、実質は非常に違うのである。兄弟のために死ぬことが出来るように修練することが大事だと先に言ったが、このことは慎ましく考えるべきである。大袈裟に論じては、空しい言葉になる恐れがある。
兄弟のために命を捨てるのが本来の本当の愛であると考えるのは、間違いとは言わないが、危険な試みである。自分を試み、人を試み、神を試みることになる。
むしろ、慎ましく考えて、基本的には、乏しい物を互いに分かち合うこととして捉えて置くべきである。そのような修練が出来ていない人が、いざという時、兄弟のために命を捨てることは決して起こらない。
ところで、ここには「友のために命を捨てる」と言われるのであるが、友のために命を捨てるよりも、敵のために命を捨てるほうがもっと大きい愛である、と言うべきではないかと疑問に思う人があるかも知れない。なるほど、ローマ書5章7節以下には、「正しい人のために死ぬ者は殆どいないであろう。善人のためには、進んで死ぬ者もあるいはいるであろう。しかし、まだ罪人であった時、私たちのキリストが死んで下さったことによって、神は私たちに対する愛を示されたのである」と言われる。10節ではさらに「私たちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、うんぬん」と言う。友は愛する者、価値ある者であり、死んでくれては困る人である。敵はその反対である。が、神は敵である者のために御子を死に渡したもうた。
しかし、ヨハネ伝15章で「友のために命を捨てる」と言われたのは、「敵のためには命を捨てない」ということではない。たしかに、ここには誰のためにもという意味はない。友のための死だけが取り上げられる。「神の友」という言葉については前にも触れたことがあるが、この名で呼ばれる前例は旧約時代には非常に少なかった。しかし、新約の時代には友と呼ばれる特権を受ける人は少なくない。
次に、「あなた方に私が命じることを行なうならば、あなた方は私の友である。私はもう、あなた方を僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。私はあなた方を友と呼んだ。私の父から聞いたことを皆、あなた方に知らせたからである」と言われる。
「友のため」という言葉が前の節にあったが、その「友」というのはどういう人なのかが、ここで説明されるのである。ここに用いられている「友」という言葉は、福音書ではルカ伝とヨハネ伝にしか使われていない「フィロス」という言葉である。では、言葉の意味はどうなのか。「友」と訳されている類似語との意味の違いについて論じることはかなり難しい。
しかし、今、「友」という言葉の詳しい意味合いについて、立ち入った議論をしなくて良いのだと思う。というのは、主イエスは15節で「友」と「僕」を対比させることによって言葉の意味を浮かび上がらせておられるからである。
弟子たちはこれまで、イエスを「主よ」と呼んで来た。彼らが主イエスを呼んだ呼び方は、実際は「ラビ」、「先生」であったと思われるが、先生と弟子の関係は決して逆転しない関係である。それは「主」あるいは主人と「僕」の関係でも同じである。今後もそうである。「主人」に対応するのが「僕」である。今後も主人は主人であり、僕は僕であることに変わりはない。
では「もう僕と呼ばない」と主イエスが言われるのは、関係に変化があったという意味ではない。あなた方に知らせるべきことを悉く告げ終わったから、もはやあなた方は僕でなく、友である、という意味である。そこで知らせるべきこととして知らせられたのがこの二点である。
第一に、「あなた方に私が命じることを、あなた方が行なうならば、あなた方は私の友である」と言われる。友は同じ心を持つから、俗に言うツーカーの関係であって、一方の欲することを他方は知って実行するのである。ここでは新しいことが命じられたとは思われないかも知れないが、13章34節で聞いたように、「私は新しい戒めをあなた方に与える。互いに愛し合いなさい」と言われた。これは以前から聞いたことではあるが、また新しく聞いたことである。これを聞くとは、聞き従うこと、実行することである。それを行なうならば、あなた方はキリストの友なのである。互いに愛し合う共同体がキリストの友の共同体なのだ。
これは実行とか服従を強調しているかのようであるが、行なうのは知ったから行なうということである。また、ここには行ないによって恵みが勝ち取られるという意味がこめられていると見てはならない。
第二点を見る。「僕は主人のしていることを知らない」。僕はただただ服従するのである。命令されたことを実行するのに、主人の考えを説明されて理解していることは必要でない。旧約時代の神の民は、僕ではあったが、主なる神の御心を悉く知っていたわけではなかった。これが旧約の民の律法厳守の態度に窺われる。彼らは律法を守ることには熱心であったが、律法の意味は知らされてはいない。守らなければ罰せられるから、恐れて守るのである。守ることは守るが、自由がない。
主イエスはここに旧約の民と新約の民との相違を示したもうた。謂わば、主人の僕と主人の友の違いになぞらえることが出来る。その違いは一口で言うならば認識である。では、何を知るのか。第一に、主そのものを知るのである。だから、主はもはや遠い方や赤の他人ではない。第二に、主の意図を知るのである。「僕は主人のしていることを知らない。私は私の父から聞いたことを皆、あなた方に知らせた」。したがって、あなた方は私の知ることは全て知っているのである。
では、キリスト者はキリストと同格なのか。――そのように考えるのは、人間の思い上がりを促すことになって危険であると見られるであろう。けれども、キリスト者は或る意味でキリストの友である。キリストはそう呼んでくださる。だから、自由なのである。恐る恐る近寄るというようなことはない。
キリストそのものを知ると言ったが、例えば、この世で偉いと言われる人に会おうとすると、紹介状があって、何重にも関門を通って、やっと会える。ところが、キリストと会うためには、紹介状も要らない。仲介者も要らない。直々に主にお目通りが適うのである。12章20節で読んだことであったが、祭りで礼拝するために上って来た人々のうちに、数人のギリシャ人がいて、彼らはベツサイダ出のピリポを介してイエスにお目に掛かろうとした。ピリポはさらにアンデレと相談して、二人で主イエスのもとに行ってギリシャ人の申し入れを伝えた。
これまで全く主イエスに会ったことのない人は、このような紹介が要るかも知れない。しかし、一旦道がついたならば、以後は直接主の前に行くことが出来るのである。それはまた、主が「人の子の肉を食べず、またその血を飲まなければ、あなた方のうちに命はない」と言われたのと同じことである。キリストはこうして我々と親しく、そして深く交わりたもうのである。